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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(15)

15.

例えば「キリスト教の脱構築」において、ジャン=リュック・ナンシーは、「罪抜きでキリスト教を構想することはできない」と述べている。 そして、「今日、罪について語ることはかなり時代遅れであるように見え」、(恐らくジッドがそう望んだように)「もはや罪のキリスト教と いうよりは、愛と希望のキリスト教」であるという事実認識にも関わらず、事実上罪を欠いたそれは、もはやキリスト教ではない、と 述べている。そして違反・侵犯である過失(それには罰や償いが求められる)と罪とを区別し、「罪人である人間とは、<法>を 侵犯する者であるというよりは、もともと他者ないし神の方へと向けられていた意味を自己の方に反転させる者のこと」と定義している。 この定義は、まさに牧師の、更にはジッドの在り方の端的な批判になっているように思われる。ジッドは自己を持て余しはするが、 神秘的な合一の経験を夢見るばかりで、決して他者ないし神の方へと向くことはないように思われる。ジッドのあの絶え間ない露出癖は、 些かもジッドの自己を損なうことはなく、寧ろそれは自己への意味の反転を強化するばかりなのだ。ナンシーの言うとおり、「罪とは、 或る仕方においては、閉鎖的性格であり、聖性とは開放性」であり、「聖性とは<法>の遵守ではなく(そもそも、こうしたことこそ キリスト教が、新しい<法>の中への旧い<法>の止揚と考えるものです)、信へと送り宛てられたものへの 開放性、予告への、他者の言葉への開放性なので」あり、ナンシーが括弧の中で示唆するように、この点こそ、パウロがローマ人への書簡の 中で主題としたことそのもの、だがジッドが牧師とともに、読み取ることはおろか、それ自体をキリスト教ではないとして拒んだものではないか。

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