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バルビローリのシベリウス:第6交響曲 ハレ管弦楽団(1970)

他の演奏と比較した時、第1楽章のゆっくりとしたテンポが印象的。 ゆっくりした流れの向こう側から立ち上ってくるものを感じる。

個人的に最もシベリウスらしいと思っている曲。音を秩序づける主観をほとんど感じさせない、 無人の音楽。シベリウスの沈黙は、音楽を構築してしまうこと、 音の「自然」に対する主観の暴力への抵抗ではなかったか? そんな自然がどこにあるかという問いは、例えばこの曲を聴くと空しく思える。 音楽が湧き出てくる少し手前に間違いなく存在しているように感じられるから。

それがアドルノが揶揄した「自然」とどのくらい異なるのかはよくわからない。アドルノの 拒絶は、少なくともシベリウスの音楽を民族主義的に捉える聴取の仕方に対するものでは なかったかと思えるが、一方で、そうした表層とは別の次元でもアドルノがシベリウスを 決して認めなかったのは当然のように思える。特に後期の交響曲に顕著になると思われる こうした音への姿勢は、アドルノが自分の規範としたものとはあまりに隔たり、異質だ。 そうした意味でアドルノの拒絶は決して恣意的ではなく、むしろ一貫している。

バルビローリの演奏は、勿論民族主義とは無縁だし、ここに集団的無意識を見出すことは できないように思える。徹底的に「個人的な」音楽。主観が何かに解消されることのない 音楽。

第4楽章はあっさり目。ベルクルンドの忘れがたい演奏とは対照的。むしろここではバルビローリ の方が無為で虚心ですらある。(シベリウスの音楽が主観的な心情の吐露になっているという点で ベルクルンドの演奏は特異だ。)しかし、そこには風景を眺める主観が在る。

音の秩序の外在性という点ではザンデルリンクの演奏が徹底していて、バルビローリの 演奏は、結局、主観の風景に対する反応の記述になっているように思われる。

(2005 公開, 2024.8.15 noteにて公開)

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