5.
ところで、ジッドの批判の対象となっているパウロこそ、その回心の経験において盲目の状態を経験した人であることを思い起こしておくことも 意味がないことではなかろう。以下の記事は「使徒言行録」(新共同訳による)第9章3節~19節である。
注目すべきことは、同じ「使徒言行録」第22章6節~16節において、同じ物語が、今度はパウロ自身の回想として 語り直されることである。こちらは(直ちに手帖に記されたのではないにせよ)回想、告白の記録なのだ。
こうした語りの二重化の効果について、「田園交響楽」を眺めてみれば、そこには(最初は回想、その後は日記という違いはあり、また第二の手帖冒頭で 書き手による読み直し、再解釈といった操作が行われるとしても、所詮は)牧師の手帖という単一の視点しか持たず、ジェルトリュードの視点からの、 あるいは第三者的な報告の不在は否定し難い。仮に「狭き門」のジェロームが自分の物語に都合のいい部分だけをアリサの書簡や日記から抜粋する という編集作業を行っているという点を疑ったとしても、それでもなお、そこには別の声が響く空間が確保されているのに対し、ここでは牧師の 極めて当てにならない記憶に基づく回想における会話が断片的に書き留められるばかりである。その真偽そのものを疑わない立場をとったにせよ、 その会話が牧師に対するものであるという制限だけで、相手の声もまた、(嘘を言う、曖昧な言い方をする、等の態度も含めて)牧師に向けられた 一面を語るに過ぎない。「田園交響楽」はいわば牧師の自画像のごときものであり、その形式はそれ自体廃墟であるという印象、これがレシという 形式の到達点であれば、それは同時に行き止まりであるという印象は拭い難いものがある。最後の場面の記述は日記としてはありえない地点に到達し、 そこで日記という形式自体が機能不全に陥っているかのようだ。「贋金作り」に向かいつつあったジッドにはその気は なかっただろうが、この作品の少なくとも後半部分、ジッドが嫌々ながら何とか終わらせたらしい第二の手帖は、全く別のスタイルによって書かれる べきではなかったのか?否、第一の手帖もまた、それがジェルトリュードの記録であろうとするのであれば、このような主観的、恣意的なスタイルではなく、 別のスタイルで書かれるべきではなかったのか?「法王庁の抜け穴」と「贋金作り」に挟まれて、この物語は一見したところ古色蒼然として見えるかも 知れないし、実際、刊行当時はもっと新規なスタイルを期待していた人々を落胆させたという。だが、その古めかしさは、それ自体、意図的に選ばれた ものであって、それゆえそこには企みがあると考えるべきだろう。そうでなくても、(ジッドの意図とはとりあえず独立に)その帰結を測定する 必要が読み手にはあるだろう。