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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(5)

5.

ところで、ジッドの批判の対象となっているパウロこそ、その回心の経験において盲目の状態を経験した人であることを思い起こしておくことも 意味がないことではなかろう。以下の記事は「使徒言行録」(新共同訳による)第9章3節~19節である。

ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、 あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、 食事をして元気を取り戻した。

「使徒言行録」(新共同訳)第9章3節~19節

注目すべきことは、同じ「使徒言行録」第22章6節~16節において、同じ物語が、今度はパウロ自身の回想として 語り直されることである。こちらは(直ちに手帖に記されたのではないにせよ)回想、告白の記録なのだ。

旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。 わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。 『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。 一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。 『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。 わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。 ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。 この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。 アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。 あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。 今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』

「使徒言行録」(新共同訳)第22章6節~16節

こうした語りの二重化の効果について、「田園交響楽」を眺めてみれば、そこには(最初は回想、その後は日記という違いはあり、また第二の手帖冒頭で 書き手による読み直し、再解釈といった操作が行われるとしても、所詮は)牧師の手帖という単一の視点しか持たず、ジェルトリュードの視点からの、 あるいは第三者的な報告の不在は否定し難い。仮に「狭き門」のジェロームが自分の物語に都合のいい部分だけをアリサの書簡や日記から抜粋する という編集作業を行っているという点を疑ったとしても、それでもなお、そこには別の声が響く空間が確保されているのに対し、ここでは牧師の 極めて当てにならない記憶に基づく回想における会話が断片的に書き留められるばかりである。その真偽そのものを疑わない立場をとったにせよ、 その会話が牧師に対するものであるという制限だけで、相手の声もまた、(嘘を言う、曖昧な言い方をする、等の態度も含めて)牧師に向けられた 一面を語るに過ぎない。「田園交響楽」はいわば牧師の自画像のごときものであり、その形式はそれ自体廃墟であるという印象、これがレシという 形式の到達点であれば、それは同時に行き止まりであるという印象は拭い難いものがある。最後の場面の記述は日記としてはありえない地点に到達し、 そこで日記という形式自体が機能不全に陥っているかのようだ。「贋金作り」に向かいつつあったジッドにはその気は なかっただろうが、この作品の少なくとも後半部分、ジッドが嫌々ながら何とか終わらせたらしい第二の手帖は、全く別のスタイルによって書かれる べきではなかったのか?否、第一の手帖もまた、それがジェルトリュードの記録であろうとするのであれば、このような主観的、恣意的なスタイルではなく、 別のスタイルで書かれるべきではなかったのか?「法王庁の抜け穴」と「贋金作り」に挟まれて、この物語は一見したところ古色蒼然として見えるかも 知れないし、実際、刊行当時はもっと新規なスタイルを期待していた人々を落胆させたという。だが、その古めかしさは、それ自体、意図的に選ばれた ものであって、それゆえそこには企みがあると考えるべきだろう。そうでなくても、(ジッドの意図とはとりあえず独立に)その帰結を測定する 必要が読み手にはあるだろう。


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