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「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」を聴いて

「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」(世界初演)
2007年2月18日東京日仏学院エスパス・イマージュ(CCMC2007)

CCMC2007というのは、アクースモニウムと呼ばれるマルチ・チャンネルスピーカーシステムで再生される作品の演奏会で、 流れとしてはシェフェールやアンリ等のミュージック・コンクレートの系統のようだが、ここで三輪眞弘の新作が発表される ということで、東京日仏学院に出かけた。 会場は日仏学院の2階の、エスパス・イマージュと名づけられた普段は映画を上演していると思しき部屋。 かつて学生だった時分にフランス語を習いに来たことがあったが、結局この部屋は一度も利用しなかったので、入るのは 初めて。席数は100席くらいだが、席の一部は機材によって塞がれていて、80席程度か。正面を中心にして、左右の 壁際と後方の壁際の席を潰してスピーカーが設定されている。上演中は部屋の照明を落とすが、勿論、演奏者は いないし、別に映像を見る訳ではないので、そこだけぼんやりと明るい正面のスピーカー群を眺めながら音を聴くということになる。 自分の家で音楽を聴くときだって、再生装置の前に坐って聴くのだけれど、ここでは数十人の人間が空間を共有するという 点が異なっている。

実は今回の催しを聴くことには2つの理由から躊躇いがあった。まず私は、テープ音楽というのにはほとんど興味がない。私が繰り返し聴くのは、クセナキスの作品を除けば、 三輪の「Dithyrambe」くらいのものだ。理由は単純で、そもそも一般に音響的な側面での素材の拡大や、 編集・加工技術の進展によって開かれる可能性に対してほとんど関心がないからだろう。(だからテープ音楽だけでなく、 いわゆるライブ・エレクトロニクスのようなものについても、拒絶することは無いにしても、その可能性を 見極めようという気は起きない。)少なくとも私が聴きたいと思っている何かは、 とりたててそうした素材なり技術を介してでなければ見いだせないものであるようには感じられないと いうことなのだと思う。 勿論、例えばクセナキスのテープ音楽に込められた、演奏会という空間の拘束からの解放のインパクトは今尚 感じ取れるし、音響の空間的な扱いに圧倒されもするが、それはクセナキスの音楽が持っている認識様態の絶えざる 拡大と相対化の指向の上でこそ感じ取れるものだと思う。従ってここでの私の関心は、「アルゴリズミック・ コンポジションの作曲家」である三輪が、テープ音楽、しかもその中でもミュージック・コンクレートという、一見したところ 三輪のこれまでの作品とはやや疎遠に見える制約条件にどのように対峙するのかにあったと言って良い。

次に新作が「新しい時代」の系列に属していること。「新しい時代」は、2000年に制作されたモノローグ・オペラを はじめとする幾つかの媒体での作品群やCDにつけられたタイトルであり、カバーストーリーとして架空の宗教が 背景になっている。以前に私は三輪のアプローチに含まれる擬似カルト的な方向性の危うさとそれに対する自分の 拒絶反応を書き記したことがあるが、いわばこの作品系列こそが私にとってのアキレス腱のような存在なのだ。 けれども、その危険は作曲者自身が明確に意識し、自覚的に引き受けているものなのは確かなことで、 前回「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」の初演を聴いたときも、―すべてがすっきりとしたわけではないが― その問題意識に釣り合った音楽を聴くことができたと感じていて、それゆえ今回もまた、 認識を新たにすることになることを期待して会場に足を運んだのである。

このような、どちらかといえば聴き手としては相応しからぬ貧弱な前提しか持たずに、しかも一度きり聴いたものが十分に わかるということはそもそも期待していなかったし、実際に聴いてみて、とても強いインパクトを受けたのは確かだが、 それをうまく文章にすることができないように今なお感じている。ましてや作品の出来について云々したり、 批評することなどは全く不可能である。 だが、まずは後日の備忘のために、まとまりがなくても、あるいはたとえ混乱していたとしても、 印象や連想したことを、上記2点の躊躇いに対する結果がどのようなものになったかも含め、 書き留めておくことにしたい。ある意味では予想通り、自分のどちらかといえば苦手な領域の作品に接して、 受けた印象の強さとは裏腹に、それをどのように扱ったらいいのかわからずに、途方にくれているだけのような気もするが、 恐らくは数多く含まれる誤解も含め、その場で感じたことは確かなことだし、それは(少なくとも私にとっては) なかったことにするわけにはいかないものなので。あまりに性急で単純な図式化には、その場における経験の質が 異議を唱えることになる。それよりは混乱は混乱として書き留めておくことにしたい。

まずテープ音楽という枠組みに対し、ラジオを付け加えたことを看過することはできないだろう。演奏をしている 場にラジカセを持ち込む、というのは三輪の作品ではしばしば行われることだが、常には人間による演奏の場に 持ち込まれる(例えば「歌えよ、そしてパチャママに祈れ」)のに対し、ここではスピーカーシステムによる 作品の再生の場に持ち込まれているのが異なる。そして、作曲者自身がラジカセを持って現れ、正面の スピーカーシステムの手前に置かれ、そこだけ照明で照らし出された椅子にラジカセを置くことで作品が始まり、 作品が終わると、ラジカセを片付けに現れることで、作品の再生の「場」が縁取られることになる。 意図するとしないとに関わらず、事実上そのことによってそれは既に単なる作品の「再生」ではあり得なくなってしまう 演出になっていた。

一方で置かれたラジカセはライトを浴びて浮び上がるから、聴き手は単にスピーカーから飛んでくる音を聴くという わけにはいかない。否応無くそれは何らかの「記号」として機能してしまい、音響を文脈づけてしまうことになる。 私にはラジカセはいわば「窓」とか「通路」のような役割を果たしていると感じられた。それは「外部」に通じているのだ。 それは具体的な音(雨の音でも、虫の鳴き声でも、何でも)を聴いて、何かを「連想」するというのとは異なる。 寧ろ、今鳴り響く音響を、単なる「音楽」として、もっと言えば単なる(聴き手である私の手前で閉じて完結した) 「作品」として享受することを妨げていて、今ここでの音響の享受、そしてそれに触発された連想の戯れのみに 充足することを禁じているかのようなのだ。

いわゆるミュージックコンクレートというジャンルとの対比に拘るなら、様々な素材の提示の時間的な構造が アルゴリズミックに決められていて、子供の声、街頭の雑踏、渋谷とかで時々(特にクリスマス近くに)聴かれる キリスト教のものと思しき「布教活動」(これ自体録音されたテープを街頭でラウドスピーカーによって「再生」する 行為である)といった素材や「新しい時代」のテキストに交じって、丁度基調の響きのようにそのアルゴリズムを 決定している「神の旋律」が素材としても埋め込まれている点は、具体的な音響の録音を素材として用いるという点でも、 それらを直接聴きながら編集・加工していくという点でも、ミュージック・コンクレートからは逸脱していると考えられる。 時間方向の推移としては、最初には優勢な戸外の具体音が、徐々に「新しい時代」のテキストや、譫妄状態のような激しい息遣いの音 に置き換わっていくような経過を辿っていて、その間に基底の響きのように流れている「神の旋律」が浮かび上がるようになっている。 末尾近くには幾度か鈴の音が響き渡る。最後は神の旋律も途絶え、沈黙の中を鈴の音が響いて終わる。 全体として比較的はっきりとした時間の流れがあり、とりわけ「終わりが近い」ことははっきりと感じ取れるようになっている。 上演時間は計測したわけではないが、およそ20分程度ではなかっただろうか。
時間方向の構造をどのように決めるかというのは、普通の「音楽」でも、調性組織や伝統的な形式に依存 しない場合には問題になりうるが、テープ音楽の場合には更にそれがはっきりと現れるように思える。 要するに、感覚的に決定された経過が興味深いものになることはほとんど期待できないし、さりとてレディ・メイドの 形式を借りてくるのもまた、退屈だ。三輪の方法では、初期値さえ決まればあとは決定論なので、かえって 録音・再生といった条件向きであるとさえ言える。実際、様々な素材の出現と持続の制御については 適度な緊張感を維持できて成功していたように思える。要するに「音楽」的に聴いた場合でも、大抵の場合に 様々な音響上の工夫が凝らされてはいても、結局は退屈な時間経過に飽きてしまうことが多いのに対して、 それは緊張に満ちた、素晴らしいものであったように思われる。(もっとも、単純にアルゴリズミックであれば 退屈ではない、ということではない。表面的な方法の模倣が退屈な結果に終わるのはアルゴリズミックな 方法とて例外ではない。)

だが、それは私が、そうした音響を「音楽」として聴いた、ということではない。既に書いたとおり、明らかにそれは 単なる「音楽」ではない、あるいはいわゆる狭義の「作品」ですらない何かであろうとしていて、作品を享受する 聴き手であるというよりは、何かの記録の再生に立ち会っているような感じを覚えた。 だが同時に、それはドキュメンタリーが担保しているはずの「真実らしさ」、「事実の再生」を装うどころか、 あからさまにその内容がフィクションであることを告げてしまってもいる。再生されるのは決して「生の現実」、 「客観的な事実」などではない。

この「作品」で用いられている素材はほとんどすべて、(事実として「同じ」素材を用いたのではないにせよ) 三輪のこれまでの作品のあれやこれやを想起させずにはおかないもので、それゆえに、テープに記録された 音響の再生という条件を口実に、自己引用のコラージュにより、メタ音楽(それはもはや音楽ではない)と して構成されているというような聴き方も可能かも知れない。

一例をあげれば、擬似カルト的なテキストは旧作の「引用」なのだが、そのいかがわしさと嘘っぽさは、 「それが記録だから真実なのだ」という錯覚に陥ることを妨げる。もともとの「新しい時代」の筋書き自体、 風刺が込められたパロディにしか取れないのだが、ここでは、そこで再生される「物語」の虚構性を 浮かび上がらせるように機能しているように感じられる。そのテキストを聴くことは私にとって決して愉快な 経験ではないのだが、少なくともここでは、それはそこで起きていることを「覚醒した」状態で受け止める のに寄与しているように感じられた。

今や誰も物語を信じることはできないし、記録と称するもの、現実の忠実な再生と称するものだって疑わしい。 実は「再生」されているはずのオリジナルな経験など、どこにもないかも知れないのだ。 再生される「具体的な音」のもっともらしさは、聴き手に自己の文脈にどうしようもなく拘束された連想や物語を 生じさせることにしかならないし、ましてやその音によって作曲者が体験した何か特殊な経験なり印象なりが聴き手に 「そのままのかたち」で伝わるわけはない。まずもって「純粋な知覚」というのは人間が環境の中で生きる動物で あること忘れたが故の虚偽なのだし、一見「それ自体」に忠実に見える再生も、共役可能な何かには決して辿り着かない。 してみれば、物語の内容、つまりそれがどんな物語であるかは実際にはあまり問題ではないのかも知れない。 それよりも物語は結局のところ付いて回るし、そこから自由になることはできないという認識の方が重要なのではなかろうか。 それが陳腐なものであったとしても、物語というのはようするにこの私そのものなのだから。

しかしながら、だからといってすべてがまるまる出鱈目ということにはならないし、再生の現場に立ち会うのが 不快なだけで不毛な経験だったというわけではない。 実際の聴いた印象はメタ音楽的な単なる批評性にとどまらず、醒めて屈折した姿勢と、それを突き抜けてしまう 「生々しさ」が激しく拮抗しているような感じが強かったのである。 とはいえ、ある種のドキュメンタリーが意図するように、不快であっても目を背けてはならない「現実」を認識させるというのが、 この「音楽」ならぬ「作品」のメッセージであるというのもまた、その場の経験をあまりに単純化してしまった言い方になる。 従って、(これだけでも充分に手のこんだやり方だと思うが、)ここではドキュメンタリーのパロディとして、真実らしさを 同時に嘲笑うことによって、単にそれを否定してしまうことのみが目的だというわけではないだろう。

それを虚偽であるということを知ることによって、虚偽を成り立たせる回路を浮び上がらせることが可能になる。 そしてその上で、場合によってはそうした虚偽を産み出してしまう指向をもう一度拾い上げることができるのかも 知れないのだ。聴き手がそこに見出すのは自分自身の影なのだろう。だとすると、三輪がプログラムノートで言うところの 「幽霊」とは、聴き手の意識が反省や分析によっては自ら認識することができない、従って、自分で制御できない 不随意な部分、だがそれでもなおとりあえず自分に属しているというほかないある領域、(準)現象学的な姿勢が 突き当たる壁の向こう側の領域のことなのだろうか?私という物語を紡ぐのは私自身ではないのだ。そのある部分に ついて、私は全く受動的で無力ですらある。物語を、虚偽を産み出すメカニズム(何なら、それをアルゴリズムと 言っても良いかも知れない)を単純に否定することもまたできない。プロかコントラかの性急な選択は短絡的であり、 危険なことに違いない。

ということで、もともとあった「新しい時代」作品群に対する懐疑のためか、今回私が聴き取ったのは、まずは作者の強い批判的な 意志であったように思う。そして素材に対する緊張感が作品に強度をもたらしていたことは確かだと思うし、 アルゴリズミックな発想が様々なレヴェルで作品の本質的な部分を支えていることを感じ取ることができた。 一方で既述の通り、テープ音楽という媒体の扱いにも(幾つかの逸脱も含め)、これまでの取り組みとの一貫性を感じた のだが、そうした逸脱によって、批判的な手つきではあるし、グロテスクに歪められてはいるのだが「何か」を 救い出したいと思っているのではないかという印象を強く抱いた。

正面に置かれたラジカセは「外部」への「通路」のようだ、と書いたが、それに関連して、私にとって作品中 もっとも印象的だった鈴の音、後半になって導入され、特に、熱にうなされるような激しい息遣いが止まり、 神の旋律も聴こえなくなり、物語が終わった後でスピーカーから響いた鈴の音もまた、「外部」を暗示していたように感じられる。 勿論、鈴の音は(三輪の作品では「またりさま」で印象的に用いられているが)神的なものの到来といった呪術的な コノテーションを強く帯びている。 (神社の鈴や、三番叟などを思い浮かべても良い。)だが、この鈴の音が印象に残ったのは、単にそうしたコノテーション によるだけではなく、この作品のおける境界性、それが持つ両義的な意味合い故なのではないかと思う。

一方でそれはあたかも待ち望まれた瞬間が到来した、成就したのではと一瞬思わせるがゆえに、聴き手をぞっとさせる。 (突飛かも知れないが、私はアドルノがマーラーの第8交響曲について語ったとき「救い主の危険」という言い回しを 用いたのを思い浮かべた。第2部の少年合唱が成就を歌うとき、本当にそれが起きたのではないかと錯覚して ぞっとする、と書いたアドルノの言い回しは、全体として批判的であっても全面的な否定ではないと私には 感じられる。) だが勿論、そうした瞬間など訪れはしない。作曲者がラジカセを片付けに来て、拍手が起きて作品は終わる。 けれども、終わった後に耳の奥に残った鈴の音が、確かにスピーカーから響いたと聞いた筈なのに、本当に 「再生」されたものなのか、その鈴は作品の内側にあったのかがわからなくなる。 鈴の音が持ちうる意味のうち、どれが「本当」かを問うても恐らく意味はないだろうが、それはおそらくそこから 「音楽」が生じる領域の存在を示していたように感じられる。それは作品の内側に取り込まれた、 外部の痕跡のようなものなのではないか?

それが物語の姿を纏えば今や陳腐なパロディにでもなる他ないとはいえ、そこには「衝動」がある筈なのだ。 恐らくは暴力と不可分の、それ自体は両義的というほかない衝動こそ、それを否定してしまったら全てが意味を、 価値を喪ってしまうものに違いない。 例え戦略的な選択だとはいえ、擬似カルト的な装い危険性がなくなったとは思わないものの、 この衝動を浮かび上がらせるためにあえてそうした手段を選択したことに、今回は寧ろ作者の批判的な姿勢と 懐疑の強さ、そして(適切な言い方ではないかも知れないが、とりあえず他に表現が思い浮かばないのであえて この言葉を使うのだが)「誠実な」姿勢を感じた。そして、その「衝動」の強さ、ベクトル性の深さは、批判的な 姿勢との拮抗の激しさを通して、あるいはそれをくぐりぬけて、聴き手の私にはこのうえもなくはっきりと共鳴を 引き起こすものと感じられた。それを「美」と呼んでいいのか、そうするのが適切なのかはわからないが、 そこには少なくとも驚異が、圧倒的な何かの影が確実に感じ取れたと思う。

こうした感じ方は、もしかしたらあまりに牽強付会が過ぎるかも知れないが、 少なくともこれだけの強度で自分の問題と共振を起こす作品はないし、私は実際そのようしか受け取れなかった。 だから「客観的に」もし間違っていたら、それはそれで仕方がないし、そのことが主観的な経験の質、クオリアを 損なうことは無いだろうと思う。随分と独りよがりな言い方だとは思うが、こればかりは仕方がない。

もしかしたら共役不可能な、他者と共有できない部分においてこそ共感が生じるというのはパラドクスという他ない。 けれどもそれこそが、私のように芸術に縁のないことによって糧を得ている人間ですら、それなしでやっていくのが 困難であると感じる芸術の謎、それを特権性と呼ぶのであれば、まさに芸術の特権性なのだと思う。 だからこそ(「弦楽のための369」の感想でも書いたことだが、)それは単なる娯楽ではないのだ。「イケテナイ」こと 甚だしいことは認めざるを得ないが。そうでなければこうした感想を書く必要もまたありはしない。 批評はもっと客観的で、大きな芸術上のトレンドや動向を踏まえた上での評価の営みであるべきで、それゆえ 私のような聴き方は恐らく永久に批評には辿り着かないのだろうが、それは仕方のないことだと思っている。 そして批評も大切だろうが、批評ではない感想も、とりわけ対象が、現在進行形の営みである場合には、 全く存在意義がないわけではないだろうと思う。少なくともコミットメントの証にはなるだろう。感想の存在意義は 結局のところ「聴いた」という事実性にしかないのかも知れないが、それで構わない。そこにあるのは、骨董品と して飾られた遺物としての芸術作品ではないのだから、聴き手だってそれを撫で回すことしかできないわけではないだろう。

そして更に(これも私の思い込みかも知れないが)、聴き手である私と作曲者の間に客観的には存在する筈の超えがたい溝が 不思議と感じられなかったのも印象的だった。それは勿論作品が「わかりやすい」と感じられたということではない。 そうではなくて、作曲者が発信をし、聴き手が受け取るという図式があてはまらないように思われたということである。 勿論、そうした側面を無視してしまうことは出来ないにしても、そして別にその場に作曲者がいて一緒に作品を聴いたからと いうわけではなしに、聴き手が一方的に受動的であるという感じはなかった。 初演に立ち会うという状況がもたらす一回性のアウラ(少なくとも私はそれが「初演」であるということを知っていた)とはまた別に、 共同作業というのには明らかに無理があるにしても、この「作品」のアリバイの「証人」として関わっているような感じを覚えた。 単純に「従来の作品概念を超えた」というような乱暴な言い方はしたくないが、少なくとも個別の作品のあり様というのは、 その都度の具体的な体験に照らして判断すべき微妙さを持っていて、図式的な批判は意味を持たない。 そうした微妙さを感じることができたのは貴重な経験だった。

それにしても、こうした感じ方もまた「再生芸術」のもたらす幻想ではないだろうか? 例えば「逆シミュレーション音楽」における演奏者の身体性の疑わしさに比べた時に、テープの再生が演奏者の媒介抜きで、 従って一見作曲者と聴き手の間が短絡できる媒体であることが寄与しているのだろうか? またそれゆえに再生芸術においては、作者の視線(あるいは秘められた意図)を聴き手に明示的・暗示的に 強制する暴力がより直裁な仕方で機能しうるという危険を逆説的に提示していると考えるべきなのだろうか?

そんなに確信を持って言えるわけではないが、私が聴いた感じでは「否」である。 この感じの由来は、作曲者が発信をし、聴き手が受け取るという図式からの逸脱が、単なるテープ音楽ではないことにあり、 技術に対する批判的なスタンスにより多くを負っているように思える点に存する。例えば、最初に言及したラジカセの利用が そうだ。ラジカセは丁度演奏者がそうであるように、作曲者と聴き手の間を隔てる「外部」、「他者」であると同時に、 それは媒介するもの、「通路」なのだ。そしてそれを通じて、私は「作品」を閉じて完結したものとしてではなく、そこで響く 音響を単なる「再生」としてでなく、自己の領域に影を落とすものとして感じ取ることができるように思える。

それでもなお、アルゴリズムを設定する作曲者の立場は特権的であって、聴き手はやはり疎外されている、 という言い方はできるかも知れないが、作曲者はアルゴリズムに対する支配者の立場にあるのではないし、 その一方で特定のアルゴリズムの物神化が生じているのでもないことは、少なくともこの場合にははっきりしている。 アルゴリズムなり手順なりもまた、両義的なのだ。それが暴力なのだとしたら、それは聴き手にとってそうであるのと同様、 作曲者にとってもそうではないだろうか?(アルゴリズムをセリーに置き換えて後期のヴェーベルンの場合を考えてみても よいかも知れない。)2000年の時点と今日の間には、「逆シミュレーション音楽」の提唱が存在している。 であれば「逆シミュレーション音楽」の経験が「新しい時代」という作品系列にどのような影響を及ぼしたのかを 検証すべきなのかも知れない。(もっとも現在の私にはできない作業だが。)

今回はとりわけ、その作品が「理解」できたという感じを持つことはできなかったし、だから上述の私の受け止め方に 少なからず混乱があることを否定するつもりはない。だが作品を聴いて受け止めたものが、(今のところは正直なところ手に負えかねるほど) 強いものであることは確かだし、それが(否定的な意味でなく)「挑発的な」作品、聴き流すことを拒む強い力を 持った作品であることも確かだと思う。そして、三輪の作品を聴いて感じること、「作品」を提示するというよりは、 寧ろ、聴き手に問いかけをし、そして(その仕方は聴き手により様々であってよいのだと思うが)それぞれがその問いかけに 対して何らかの応答をするように誘われているような感覚は、これまで以上にはっきりと感じることができた。 端的な言い方をすれば、私にとって三輪の音楽は、それによって自分が勇気づけられるような類のものなのだ。 その問いかけを己の事として受け止めることは、同時代に生き、現在進行形の試みに接することができる場合にのみ 可能なことだ。だから今後も可能な限りその帰趨を確認していきたいと思っている。

また、この作品は勿論だが、「新しい時代」の系列の他の作品の再演が行われるのであれば、是非足を運びたいと思う。 残念ながら今やCDに収められた作品以外は体験することはできないし、とりわけ2000年のモノローグオペラは実演に 接しなければ経験できない部分が多いように思われる。今回受けた強烈ではあるが些か混乱した印象がより明確な姿をとるの ではないかという期待をこめて、今回の作品も含めて一連の「新しい時代」作品群の再演を期待したい。

(2007.02.19--21作成,22,24一部加筆修正, 2024.6.23 noteで公開)

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