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「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽 記念コンサート 自動ピアノ演奏会」を聴いて

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽 記念コンサート 自動ピアノ演奏会」
2007年10月31日東京大学駒場博物館

三輪眞弘/入鹿山剛堂、ヒンデミット、トッホ、ナンカロウ、ゴチェフスキ、古川聖、山本純ノ介/土佐尚子の作品

自動ピアノというものの存在を初めて認識したのは、私の場合、マーラーがヴェルテ・ミニョンに残した幾つかの演奏記録によってだった。 1911年に没したマーラーは、時代を代表する指揮者であったにも関わらず、残念ながら指揮者としての演奏記録がない。 それゆえ1905年11月に記録されたピアノロールは貴重なもので、書簡や写真といった媒体以外でマーラーその人を知る資料と なっている。

またラヴェルについても自作自演のピアノロールが幾つか存在する。ラヴェルの場合、自作を指揮した録音もそうだが、 ラヴェル名義であっても実演は別人というケースがあるようだが、それでも自作自演と思われるものも幾つかあって、 こちらもまたCDで聴くことができる。

要するに、私にとってはピアノロールは記録媒体としてまず立ち現れた。不完全であっても、マーラーやラヴェルといった「伝説の人物」の 身体の記憶を封じ込めた魔法の筒なのだ。もっともマーラーもラヴェルも、勿論それなりにピアノを弾くことはできたが、ピアニストは 少なくとも本業ではなかった。更に言えば、ピアノロールによる再生をその場で聴いたことがあるわけではなく、そうした再生がCDに 収録されたものを介して、マーラーに、ラヴェルに接している(と錯覚している)のである。一体、本当に彼らの身体の痕跡をそこに 見つけることができるのだろうか、という疑問が起きて当然だが、それでも聴く私は、そこに何か取替えの利かない、ハエッケイタスを 読み取ろうとしてしまう。

今回報告する自動ピアノ演奏会での自動ピアノのあり方は、上記のようなものとは全く異なる。一つには、まず自動演奏の メカニズムの問題があって、今日の自動ピアノはピアノロールとは異なった再生システムを備えている。そして何より演奏された曲は、 はじめから自動ピアノのために書かれていて、だから再生される音は、誰かの身体の痕跡なのではない。かつての音楽時計、 或いはもっと身近なところでは、オルゴールのもの凄く高級なものと思えばよいのかも知れない。

当日演奏された曲のうち、ヒンデミットとトッホの作品は、まさに上記のヴェルテ・ミニョンのために作曲・編曲された作品。 素人が聴いた分には「自動ピアノのための」という側面は控え目なもので、ある部分で辛うじて、それが人間が2本の手で 弾くことができなさそうな感じがするといったレベル。勿論、それと作品自体の出来・不出来は別の問題である。

それに比べれば、ナンカロウの作品(Study21:Canon X)は、シンプルなアイデアだけれども、明らかに人間の弾くための音楽とは 異なった質感を備えている。例えばリゲティのエチュードは、これをもう一度人間の弾く音楽の側に折り返したのだったか。 普段聴きなれていないせいもあってか、着想の卓抜さと、出来上がった音響の面白さは群を抜いているとは思うが、 何となく所在ない感じに捉われる。可能性の開拓という点でナンカロウの独創性はずば抜けているとは思っても、 そしてそれが、自動ピアノという媒体にこだわったもの―つまり、今日では幾らでも存在する、より多様なパラメータを操作 することが可能な自動演奏のための媒体で置き換えたら意味を喪ってしまうような類のもの―であることが何となく感じ取れはしても、 何か腑に落ちないものが残る感じは否み難い。勿論、それはナンカロウの限界なのではなく、聴き手である私の限界なのだが、 さりとてナンカロウが意図的にそうした「腑に落ちなさ」を狙ったとも思えず、どことなく齟齬が存在しているのが気になってしまう。

ゴチェフスキ、古川の作品は(一緒に扱うことの是非はあるかも知れないが)、ナンカロウの作品が持っているような意味合いで 自動ピアノというメディアに拘束された作品には思えなかった。要するにシンセサイザーでも何でも、別の媒体でやっても いいのではという感じがした。実現される音響は全く異なるのだが、それでも聴いた印象は驚くほど似通っている。 作品の構造の元となったアイデア―ゴチェフスキ作品の場合には、無理数同士の比とのこと(私には今ひとつぴんと来なかったが)、 古川作品の場合にはフラクタルやカオス、セル・オートマトンという私にとっては馴染み深い素材―を、どのように音響にマップするかに ついて膨大な選択肢が考えられ、寧ろそちらの方が作品の実質を支配するくらいに思えるし、そこが音響と音楽とを分ける のではないかと思うのだが、その点について明確な印象が持てなかった点が共通しているのだと思う。 いずれも実験色を強く感じたが、恐らく意図としてもそうなのだろう。

プログラム上、最後に置かれた山本/土佐作品と、最初に置かれた三輪/入鹿山作品は、どちらも映像と連動した作品で、 プログラムの構成は凝ったものと感じられた。もっとも最初に置かれた三輪/入鹿山作品は、インタラクティヴな作品だという こともあり、催しの開始前にゴチェフスキさんがピアノの鍵盤を叩き、「演奏」を行っているのを、それが最初の作品だと 気づかずに聴いていて、プログラムが始まったら、三輪さんがコンセプトを説明して終わってしまうという、ちょっと意想外の 展開だったので、充分なコメントができない。日を改めて、再度博物館を訪れ、実際に自分で鍵盤を叩いてみて、 改めて感想を書きたいと思う。

最後の山本/土佐作品の方はといえば、機器の設定のトラブルによる演奏のやり直しや、途中、映像が映らなくなるという 事故の印象の方が大きかった。勿論それは作者にとって不本意なことであったに違いないが、こういうトラブルは、 マルチメディア作品を、普通の音楽と同じように「一発勝負」で演奏するという状況ならではのもので、参加者としては なかなか興味深いものがあった。会場で設定を担当された方、会場にいらした作者の方々にはお気の毒なこと だったと思うが。

クラシック音楽のコンサートなら、演奏中弦楽器で弦が切れたりするのが一番近いだろうか、とか、 以前聴いた川島素晴さん企画の近藤譲作品の演奏会で、よりによって委嘱新作の初演でエレキ・ギターの設定が おかしくて、アンコール代わりにもう一度初演をやり直すというハプニングが起きたことなどを思い浮かべた。 その際に印象的だったのは、―それは歌曲だったのだが―、二度の演奏で最も聴感が違ったのが人間の声だったということだ。 個人的な好みで行けば、太田真紀さんの強い表出性を持った声の印象は、最初の演奏の方がより強烈で、演奏の 一回性というのを強く感じたものだった。全体としてこの近藤作品の演奏会の質はずば抜けていて、しばらくCDの演奏が つまらなく思えたくらいで、近藤作品にとって演奏する人間の関係性―それは勿論、身体を介したものである―というのが如何に 本質的であるかを認識しもした。今回の自動ピアノのコンサートが基本的に演奏者の身体性の不在が前提であることを考えると、 ハプニング一つとってもなかなか興味深いものがある。(聴き手は気楽なものだ、とお叱りを受けそうだが、、、)

全体で約一時間程度、企画者であるゴチェフスキさんの流暢な日本語による司会・解説と、三輪さん、ゴチェフスキさん、古川さん、山本さんの 簡単な自作解説がついた非常に充実した企画で、これが無料というのは信じ難い。まずはこのような企画に対して賛意を表したいと思う。 会場は駒場博物館の2階の一室、展示スペースに椅子を並べてのものだったが、入場者の制限を行わなかったこともあり、 坐りきれないほど来場者が多く、会場の担当の方が椅子を持ってきては追加してという作業を繰り返し、なかなか開演しなかった。 しかも三輪さんがどんどん押し寄せる来場者に席を譲り続けておられて、なかなか坐る椅子が決まらないので、見ていて はらはらしてしまった。そしてその待ち時間の間、ゴチェフスキさんと三輪さんのアルゴリズムのインタラクションが行われていたわけである。

ということで、本来の主旨の筈の三輪さんの作品についてのきちんとしたレポートは別の機会に譲ろうと思うが、それでも、 幾つか印象に残ったことはある。

上記のような事情で、それが三輪さんの作品とは気づかずに聴いていたのだが、私の美術的なセンスの欠如も手伝ってか、 音響と同期した画像の動きについては、あまりに説明的に感じられて率直にいって退屈に感じられた一方で、音響的には、 ちょっと不思議な感覚に捉われたのをはっきりと覚えている。画像についていえば、調的な遷移があるのであれば、 スクリャービンやメシアンではないが、そうした調的な遷移と色彩の遷移の共感覚のようなものが感じられれば面白いと 思ったのだが、私の共感覚がずれているのか、そのような側面は画像からは感じられず、かえってそうした移ろいを感受することの 妨げに感じられてしまった。単なる私の感性の欠如かも知れないが。、目を瞑って聴いた方が面白かったように記憶している。

一方、音から受け取った不思議な感覚というのは、この曲に限って、自動ピアノのリアクションの側に身体性の ようなものを感じられたということである。それがインタラクションという仕掛けによる虚像なのか、あるいは別の何かに由来するものかは わからない。だが、虚像であったとしたら、それはそれで興味深い。機械に身体性を見出す「志向的スタンス」が聴いている 私の裡に生じていた、三輪さんのコンセプトがそのように仕向けたということだから。

他の作品では―ヒンデミットやトッホでさえ―、そのような身体性は感じられなかったし、上述したナンカロウ作品で感じた齟齬、 腑に落ちなさというのは、恐らくはこの点に関係しているのではと思う。一方でインタラクションが身体性の仮構を無条件で 保証するとも思えない。例えば通常、自動販売機に身体性を感じることはないだろう。いずれにせよこうした視点は、 三輪さんの「逆シミュレーション音楽」の、否、それよりはるか以前の「赤ずきんちゃん伴奏器」以来の一貫したテーマでもあるわけで、 いわば「ブラインドテスト」でそれが感じられたのは、非常に興味深いことに思われた。

繰り返しになるが、この点については是非、博物館を再訪し、自分の耳と身体で確かめたいと思う。そしてまた、その印象を 別途レポートしたい。

(2007.11.4初稿, 公開, 2024.6.23 noteで公開)

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