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「蝉の法」を4種類のアングルハープで聴き比べる

ブリヂストン美術館レクチャーコンサート「古代ギリシアのアングルハープ 復元と演奏」 レクチャー:木戸敏郎、演奏:西陽子
2008年5月30日(ブリヂストン美術館ホール)

三輪さんの「蝉の法」は、昨年台風の中で決行された三宅島での「手順派合同祭」の記録を通して聴くことができていて、 その音楽の素晴らしさとともに、西陽子さんの演奏の群を抜いた素晴らしさに深い感銘を受けていた。別のところで繰り返し書いているように、 私は「逆シミュレーション音楽」に納得し切れていない部分があり、その理由の一つが結果として実現される「音楽」の質に対する懐疑で あったのだが、西さんの演奏する「蝉の法」を聴いて、この作品については実現される「音楽」に対する懐疑は完全に取り払われたと感じ、 また西さんが実践されている演奏行為が「逆シミュレーション音楽」の持つ含意を、圧倒的といって良い説得力で明らかにしているように 感じたのであった。些か短絡的な言い方になるが、こんなに素晴らしい演奏が可能なのであれば「逆シミュレーション音楽」を、 実現される具体的な音楽がつまらないという廉で否定することはできない、と思ったのである。もっともこうしたことは例えば、古くは シェーンベルクの十二音技法についてさんざん議論されてきたことだし(それに関するシェーンベルクの彼らしくレトリカルな有名な コメントを思い出していただいてもいい)、クセナキスやラッヘンマンの作曲法にしても同じようなことは言われてきた。 レムの「完全な真空」に「あなたにも本が作れます」と題された一篇があったが、その顰に倣えば「あなたにも曲が書けます」 「あなたにもプログラムが書けます」式の言い方にはいつもそうした側面が付き纏うのであって、勿論、ある価値基準において より良い方法というのはあるだろうが、いずれにしても方法が結果を無条件で担保することなどありえない。「手順派合同祭」の記録は、 企画自体は魅惑的なものであったが、その記録を視聴した限りでは、皮肉にもそうした事情を端的に示す実例になっていたように 感じられていた。

そしてそうしたことを感じ、考えていた折に、三輪さんが逆シミュレーション音楽の展開として「新調性主義」を提示されたのだが、 その中で、特殊な技能を、つまりは特殊な身体を持つ存在としてのプロの演奏家とこれまでコラボレーションを行ってきた経験から、 これまでは寧ろ高い技量を持つ演奏家の専門家としての技能を否定して(少なくともその自明性に揺さぶりをかけて)、 新しい身体を作り上げる方向性にあったのに対して、既存の楽器や技術の継承を生かすよう配慮する方向性を提示された点が 私にとっては非常に印象的だった。それを「新しい音楽」であるかどうかという点に関して「妥協」ととるかどうかについては、三輪さん ご自身が言及されていたように、意見があるだろうが、これまで短期間で間歇的ではあってもそれなりに三輪さんの作品の 実演を聴いてきた私個人の経験に照らして、それは非常に自然で、かつ妥当な選択であるように感じられたのである。

一般的に演奏家の高度な音楽性が作曲家に刺激を与えた例ということになれば、洋の東西、古今を問わず、 これまた枚挙に暇がないが、三輪さんの作曲と西さんの演奏もまた、そうした例の一つに含まれるのは確かなことのように思われる。 例えば2007年末に東京大学で行われた「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」のシンポジウム「機械と音楽」(2) 「20世紀の音楽における機械の可能性」で初演された「思考する機械と古代の竪琴のための逆コンピュータ音楽 「箜篌蛇居拳」公案番号十七」にしても、残念ながら会場の制約から、不完全な形態でしか実現しなかったが、本来は マーチン・リッチズ製作のThinking Machineと箜篌を弾く西さんが文字通り「合奏」することが想定されていたし、定量的に 評価したわけではないが、シリーズを形成する「逆シミュレーション音楽」の作品群の中でも「蝉の法」の再演率の高さは 群を抜いているのではなかろうか。「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」は疑いなく傑作だけれども、これは「逆シミュレーション音楽」から 派生したコンサートピースだし、「またりさま」も演奏機会は多いだろうが、寧ろ儀礼性の側面が強く、コンサートという制度に 馴染まないこともあって「音楽」としての受容については、「蝉の法」に一歩譲るように感じられる。普段は19世紀末から 20世紀前半を中心とした特定の作曲家の音楽のみを専ら聴いているという私個人の嗜好も勿論あるだろうが、 「またりさま」のための新しい身体を獲得した「方法マシン」の演奏もあるとはいえ、私見ではやはり何といっても西さんの演奏する 「蝉の法」の音楽としての素晴らしさは群を抜いている。それゆえ上述の「新調性主義」における優れた演奏家の高度な技量や 音楽性への配慮の方向性の契機の一つに西さんの存在があることは確実なことに思えたのである。


前置きが長くなったが、私がブリヂストン美術館のレクチャーコンサート「古代ギリシアのアングルハープ 復元と演奏」に足を運んだ 背景を書けばおおよそ上のようなことになる。私は一般的には仕事帰りのコンサートというのが苦手なのだが、今回迷わず 前売券を購入したのは、西さんによる「蝉の法」の実演を聴きたかったということに尽きる。 前日からの雨で気温が下がった曇天の中、仕事の帰りに開場ぎりぎりに到着して受け取った整理券の番号は51番、 前回の東大で聴いた経験から、できるだけ間近で聴きたかったこともあり、少し出遅れたかなと思ったものの、 程なく開場して整理券順の入場となってみると、幸いなことに前の方に空きがあって、前から2番目の列に坐ることが できたのは幸いだった。ホールは美術館の1階にあって、前売りの席数から推測するに130席程度だろう。 コンサートが主目的ではなく、レクチャーとか映像の上演などが主として想定されているに違いないが、アングルハープは もともとコンサートホールでの演奏を目的として作られた楽器でないから、前提から言って観賞には全く支障はないはずで、 寧ろ規模の点からすれば適切ではなかったか。上述の通り私は前から2番目の列で聴いたので、後ろの方の席で どのように聴こえたかは確認しようがないのだが、最後列近くに若干の空きがある程度でほぼ満員の盛況に先ずは少し驚いた。

壇上中央に演奏用の椅子があり、録音用のマイクがセットされていて、向かって左手前、私の席のすぐ近くに縧軫(じょうしん)箜篌が立てられ、 その奥の壁際に並べられた椅子の上に転軫(てんじん)箜篌が倒された状態で置かれ、更にそのすぐ左の左の壁に立てかけるようにしてエジプトのアングルハープ (縧軫)が置かれている。正面向かって右には今回のテーマであるギリシアのアングルハープ(転軫)が倒された状態で 置かれ、右の壁際に講演者がスピーチするスペースが設けられるといったレイアウトで、講演時には正面奥の壁にスライドが映写された。

現代音楽のコンサート、あるいはメディアアートのレクチャーの類とは些か雰囲気も違うようで、それはこれが美術館主催の、 しかも第一義的には復元楽器がテーマのレクチャーと実演であるという性格に依るものと思われた。まずもって、開演前に 演壇の前に人が集まり、置かれた楽器を見たり、写真にとったりという状況に少し驚く。すかさず主催者側から、開演前 および終演後の楽器の撮影は自由であるというアナウンスがあり、控えめに落としていた演壇周辺の照明を明るくした こともあって、開演間際まで演壇の前は撮影する人で賑わった。まさかこうなるとは予想していなかったのだが、同行した 人の携帯で1枚だけ、私の席の正面すぐ近くに立てて置かれていた縧軫箜篌を撮影させてもらい、更にもう1枚、 本稿のために今回の催しの「主人公」たる古代エジプトのアングルハープを撮影していただいた。 開演直前に、主催者からアジェンダが述べられ、1時間程度のレクチャー、10分程度の休憩、その後演奏と補足説明で 全体で2時間の予定であることがわかる。実際には最後に行われた15分弱の会場からの質疑応答も含めて 時間通りの進行で、開場時の誘導から始まって、全体としてスタッフの方の対応は丁寧であるだけでなく、 臨機応変でもあり、運営は素晴らしいものだったと思う。

既に述べたように私がこのレクチャーコンサートに足を運んだのは、西さんによる「蝉の法」の実演を聴きたかったということに 尽きるのだが、流石に鈍い私もここまで来れば、それが少なくともこの催しの主旨からすると些かずれた目的であったということに 気づいて、多少うろたえることになる。だが、終わってみればそれは杞憂で、木戸さんの解説、西さんの演奏とコメントによって、 結果的に三輪さんの「蝉の法」という作品に対する理解もまた、大変に深まった、否、漫然と音楽だけ聴いていたらまず 私にはわからない点が明らかになったこともあって、非常に有意義な催しであった。ということで、催しの主旨はあくまで アングルハープという楽器およびその復元作業についての解説で、コンサートもまたどちらかといえば楽器を紹介する方法と して設定されていた感じがあるが、ここでは木戸さんのお話の内容をもれなく記録することはせず、私が「蝉の法」を理解する上で 役に立ったと感じられる点にのみ触れることにすることをお断りしておきたい。だがその一方で、復元された楽器はその楽器を 復元した人の「思想」の結晶であり、それは木戸さんの「作品」という性質があるのもまた明らかなことで、しかも、三輪さんの 作品はそうした木戸さんの「思想」を踏まえたものなのであり、そのことに気づいた点こそが、今回の収穫の中でも重要な点の 一つなので、視点は逆転するが木戸さんのお考えについても触れずに済ますことはできない。そもそも「蝉の法」は、木戸さんの 音楽運動「舞楽法会」の附楽として委嘱され、2003年に作曲された作品なのである。それは今回のレクチャーでも中心的には 語られることこそなかったが随所にちりばめられていた木戸さんの活動に対する三輪さんの応答であって、三輪さんの作品を 過去に製作された骨董品としてではなく、同時代ならではのその生成の相において眺めたときに、そうした側面の持つ重要性に ついては論を俟たないであろう。

もっとも、このような催しの性質、それによってある程度は規定される観客の反応が、「蝉の法」の演奏にとって、ということは つまり演奏者である西さんにとって必ずしもすべてプラスには働かなかったのでは、という印象もまた否みがたい。 例えば、前半のレクチャーが終わったあとの休憩時間には西さんが、再開後の演奏に備えてチューニングをなさっていたのだが、 開演前同様、休憩時間中も演壇の周りに人垣が出来て、チューニングをされている西さんに対して色々な質問をする 人も見かけられた。質問の内容そのものは楽器への関心に基づく真摯なものであったけれど、そして西さんも嫌な顔をされることなく 笑顔で質問に答えられていたが、それがチューニングの妨げにならないはずがない。ここでも主催者側からストップが入って、 その後は質問は出なかったが、チューニング中の西さんを撮影していたと思しき人もいるなど、楽器を演奏するという側面に 対する配慮については些か希薄な感じもあった。演奏中にがさがさと音を立てる人もいたが、こちらは、作品の演奏を聴くのが 主目的であるはずのコンサートホールにおいてすら(不思議なことに)珍しいことではなく、それを思えば特に目に余ったわけではないが、 それでも感心しないのは勿論のことである。木戸さんが楽器を復元した意図を忖度するに、「蝉の法」のようなその楽器のために 書かれた作品を、西さんのような高度な技量と音楽性を持つ演奏家が演奏すること、つまりそういう点では一般に用いられている楽器と 別け隔てない音楽の実践に楽器が用いられることは決して瑣末なことではないはずで、それを思えば、こうしたことは西さんだけではなく、 木戸さんにとっても残念なことに違いないはずなのである。これまで(まだ短期間で、回数は少ないけれど) 私が三輪さんの作品に接してきた環境の多くが持っていた閉塞感、独特のムラ的な閉鎖性がなく、従って、部外者としての疎外感を 感じることはなかったけれど、その一方で、楽器の復元に対する受け止め方や、復元楽器における作曲や演奏の実践に対する 関心において、こちらはこちらで違和感を感ぜずには居られなかった。どちらの環境にしても、関心の高さ、熱心さや教養という点では 質的には申し分なく高いに違いなく、私のような人間がコメントするのは筋違いで僭越の謗りを免れないとは思いつつも、 今回の催しの主旨に照らして、私の感じた違和感は単に私の方こそが「勘違い系」の参加者であったからに過ぎないとして お終いにしていいものかどうかについては、自分では判断しかねている。


アングルハープ(英語ではangler harp)というのは2本の木をほぼ直交させ、その間に弦を張る構造を持った楽器のグループの名称で あって、アングルハープのグループの中には今回のレクチャーの古代ギリシアのものも含まれるし、「蝉の法」が書かれた箜篌も含まれる。 パラディグマティックには、アングルハープは撓めた一本の木に弦を張る弓形のタイプやモダンなオーケストラで用いられるハープのように3本の 木でフレームを作って、その中に弦を張るタイプと対比されることになる。一方、歴史的な成立や伝播などの側面を取り払って、 楽器の細部の機構や素材に注目したときに、アングルハープは、(1)弦を調律する機構、(2)弦や共鳴板の素材の2点で下位範疇化できる。 (1)については、(a)組み紐を使って固定する縧軫と、(b)捩子を用いる転軫が、(2)については、(i)弦がガットで共鳴板が皮のギリシア・エジプトのものと、 (ii)弦が絹で共鳴板が木(桐)の正倉院所蔵の箜篌があって、組み合わせ上4種類の楽器が存在することになる。(直接関係ないが、木戸さんが「水調子」に 関連して先代の喜左衛門さんの話をされたこともあり、この話を聞きながら、三味線というのが単純な構造でありながら如何に「複合的」で、かつ操作上の特性に 配慮した完成度の高い楽器であるか、更に義太夫三味線の奏法というのがそうした楽器の構造を踏まえた、これまた完成度の高いものであるかを感じた。 ご存知の通り、現在も使われている三味線は比較的新しい楽器で、しかも楽器として完成して以降の期間が長く、それゆえ奏法上の伝統が 存在するという両面を持つ楽器なのである。更にまた三味線が、皮と絹の組み合わせを採用したのに対して、ヴァイオリンが木とガットの組み合わせを 採用したこと、いずれも指で直接弾くことは奏法の一部には残っているが、一方は撥で弾き、他方は弓で擦るのが基本というのも、 アングルハープの構造、機構・素材に選択における分布と比較した場合、興味深いものがある。)

楽器として演奏した場合の音の質(木戸さんご自身は「音の情報量」という用語をお使いになられているが、情報量という用語は、私が親しんでいる 情報理論などでは、かなり異なった定義がされていて、専ら個人的に抵抗感があるという理由のみで、ここでは別の言い方をさせていただくことを お許しいただきたい)や操作性に、上記の構造と素材が大きく影響するのは当然のことなのだが、まずアングルハープに共通する特性としては、 低音域と高音域の弦の張力の違いにより、音の質が音域によって大きく異なることが挙げられる。木戸さんもご指摘の通り、西欧のモダン楽器の 進化の方向性の一つとして音色の均質化があったことを思えば、これはまさに木戸さんのおっしゃる「始原楽器」に相応しい特徴である。 一方で、西欧の楽器が一応完成した頃から、作曲する側からは獲得された音色の均質化に対する反動が起きている点を見逃すことはできない だろう。私が馴染んでいる音楽では、マーラーの通常の管弦楽法のセオリーに反するような楽器法(鳴らない音域をわざと使うなど)や、マーラーにも 見られ、新ウィーン楽派で更に顕著になる特殊奏法による音色の多様化(これはラッヘンマンのような極端なケースにまで至る)、 両者に共通する、弦楽器における弦毎の音色の特性への拘りや同属の管楽器の持ち替えや重ね合わせの頻用(こちらは特にクラリネット属などで顕著で、 特に相対的に新しい楽器であるにも関わらず、音域による音色の変化に富んだクラリネット属への偏愛自体が音色への嗜好を良くあらわしている)、 あるいは特殊な打楽器の増加、特に調律できない騒音的な打楽器の使用などが思いつく。アングルハープの第2の特性としては調律がしにくいことが 挙げられ、特に縧軫の場合の制御の困難は機構上容易に予測できるのだが、そちらも併せて、「始原楽器」が実はそうした私にとっては馴染み深い トレンドに繋がるという側面は無視できないだろう。三輪さんご自身の活動では昨年のマーチン・リッチズとの自動機械Thinking Machineの 共同制作が記憶に新しいが、こちらもまた、手作りでウニカートであるという特性ではパーチなどの試みとの関係が、新しい創作楽器が新しい音律や 音色の追求と密接な関連をもって行われてきたという点では例えばクセナキスのシクサンと、更に、創作・演奏・享受といった実践の相の見直しという点では やはりクセナキスのUPICなどのメディアとの比較すら可能に違いなく、そうしたコンテキストに木戸さんの活動と、それに連動した三輪さんの「蝉の法」という作品を 置いてみることができるはずなのである。

今回の催しの最後の質疑応答での客席の関心が集中した点でもあるのだが、そもそも復元楽器の場合、調律法や奏法、利用形態などの 伝承が存在しない場合がほとんどで、今回のテーマのアングルハープにしても例外ではない。 通常の楽器と異なって、復元楽器では作品を創ることのうちに調律法や奏法の指定が含まれること、木戸さんも「始原楽器」という呼称の説明に因んで 同様のことを強調されていたが、更に敷衍してしまえば「始原楽器」を歴史主義的な視点から古代楽器の復元として 捉えるよりは、寧ろメカニズム上、近代西欧の楽器とは異なった制約・性質を持つ創作楽器と見做す方が適切で、そこでは調律法、奏法ばかりか、 その楽器が用いられる文化的・社会的な環境なりコンテキストなりもまた、新たに定義されるものなのだ。そうしてみれば、木戸さんの委嘱が 三輪さんにとって渡りに舟ではなかったかと想像されるほど、復元楽器のための作曲が三輪さんの活動とその背後のコンセプトにとって格好の 設定であるのは明らかである。「蝉の法」という作品そのものの紹介が非常に簡単なものになってしまったせいもあって、そこに焦点が当たらなかったのは、 今回の主人公があくまで「楽器」自体であることを考慮しても些か残念なことである。できれば「蝉の法」の「楽譜」がどんなものであるか、 「逆シミュレーション音楽」の定義ともども、その概略の説明があれば良かったのに、と思われてならない。 実際、客席からの質問の多くは「蝉の法」の「楽譜」を見れば自明のことも多く、その場に三輪さんが同席されて、ご自身のお考えを説明できれば、 木戸さんの活動に対する適切な視点を提示することになった筈なのだ。

もっともそれでは2時間では時間が足りないし、今回の催しに盛り込むのはもともと無理だとは思う。かつまた今回は古代ギリシアのアングルハープが 中心なのだから無いものねだりだろう。更に言えば、私から見ればカバーストーリーに至るまで全くお誂え向きに見えても、古代楽器の復元という 点に関心があり、歴史的な事実に興味があったであろう今回の催しの参加者の中の恐らくは少なからぬ割合の方々にとっては、 そうした側面は余計なものなのかも知れない。だが箜篌が復元楽器としては例外的な利用頻度の高さを保っているのは、 西さんの活動による部分が大きいに違いなく、また三輪さんの「逆シミュレーション音楽」は、結果的にそのための有効な戦略たりえているのは 間違いのないことで、もし楽器の「復元」が、単なる機構の物理的な再現で終わりだという認識が一般的なのであれば、木戸さんにとっても それは不本意な受け止められ方ではないだろうか。こんなところに書くよりはアンケートに回答すればよいのだろうが、そういう点から考えて、 今後の企画の方向性として、楽器自体よりも復元行為の射程にフォーカスした展開が考えられるのではないかという感想を私は抱いた。


今回は長短はあったが、上述の4種類全ての復元楽器で「蝉の法」が演奏されたのだが、恐らくは企画の狙い通り、それによって楽器の 機構や素材の違いははっきりと体感できたと思う。ガット弦は構造上、弦の張力に限界があるこの種の楽器ではどうしても音色上、 ぼんやりとした印象のものになる。更に、音域による音色のコントラストについても、絹の弦に比較すると変化には乏しい印象がある。 三宅島での「手順派合同祭」では転軫箜篌が、東大のレクチャーでは縧軫箜篌が用いられたと記憶しているが、いずれにしても 「蝉の法」は、絹の糸が可能にする音域による音色のコントラストの大きさを活かせる作品になっているように思える。 一方で木戸さんは重視されておられないようだったが、転軫と縧軫の機構差の音色への影響もまた、私の耳には無視できないものに 聴こえた。それは西さんが、弦の中央ではなく端を弾く時にはっきりするのだが、共鳴版が皮か木かの違いの方もさることながら、 組み紐にひっかけて固定する縧軫と、木製の捩子に巻き付けて固定する転軫では音の硬さのようなものがはっきりと違うように 感じられたのである。一方で転軫と縧軫の比較およびそれぞれの絹とガットとの組み合わせについて言えば、恐らくガットと縧軫を 組みあわせたエジプトの楽器は、最も「冴えない」(これは必ずしもネガティブな意味合いで用いているのではないが)感じが する一方で、絹と転軫の組み合わせの転軫箜篌は、鋭く硬い感じが強く、私に音色上最も「美しく」感じられたのは 縧軫箜篌だった。縧軫箜篌は音色の多様性という点でも最も豊かで、演奏されている西さんが縧軫箜篌を最も気に入られている とおっしゃっていたのは個人的には共感できる。

縧軫箜篌

縧軫箜篌に関しては、木戸さんが前に聴いたときより音が鳴るようになっているとおっしゃっていたのも印象的だった。 楽器は手入れをして使い続けることでコンディションが維持されるというのはよく言われることであるが、アングルハープとて 例外ではないのだろう。西さんのお気に入りの縧軫箜篌は、立てて置ける専用の台も作られ、脚の部分には椅子の脚につける ようなキャップがつけられて、演奏中に滑らないように対策もされていて、そういうところからも使用頻度の高さが想像できる。 三宅島での「手順派合同祭」は実演ではなかったこともあり、今回、直接空気を伝わってくる音を間近に感じ取ることができたことで、 弾かれていない弦が共鳴を起こす効果や長い弦が弾かれたときのどちらかといえば打楽器的な空気の振動を伴うこもったような 弱音など、微細なところまで聴き取れたのは貴重だったし、中でもとりわけ、縧軫箜篌の芯がある柔らかな音色と響きの 変化の多様さに接することができたのは、身震いが来るほど感動的な経験だった。

勿論、そうした印象を受けたのには、西さんの卓越した演奏技術と解釈が寄与していることは言うまでもない。 もともと三輪さんの楽譜には、音の継起の規則と、基本的なリズムパターンに関する説明以外のものはない。 三輪さんの音楽が、感情や情緒の表現という意味でのロマン主義的な立場をとっていないことを思えばそれは 当然なのだが、(よくある「原典主義」に関する誤解と同様に)だからといって、「機械的」な演奏がオーセンティックなわけはない。 アルゴリズミック・コンポジションの多くが退屈である理由の一つが、演奏解釈に関するそうした点についての勘違いに起因している というのはおおいに考えられることだし、現実には、それが演奏技術の未熟や解釈の不在の隠れ蓑というか口実に使われている ようにしか思えないようなケースも見受けられる。「蝉の法」が恵まれているのは、それが西さんという優れた演奏家によって 繰り返し演奏されているという事実に依るところが大きいのではなかろうか。楽譜に指定があるわけではなくても、 弦を弾く位置の違いによる音色の変化、弾き方の違いや、琴や三味線のそれを思わせる特殊奏法、強弱の変化、 微細なテンポの揺れなどが西さんの演奏には盛り込まれていたし、もともと三輪さんの楽譜も完全に確定的な指示になって いるわけではなく、演奏の自由度を許容していて、演奏者の解釈が介在する余地は大いにあるのである。結果として 西さんの演奏解釈によって「蝉の法」が聴き応えのある充実した作品となっているのは疑いないことだと思う。 そしてそれがアングルハープなり箜篌なりの楽器の特性をしっかりと踏まえたものであることにも注目すべきだろう。 一つ一つの音に固有の表情があり、いわゆる音に「さわり」が感じられるのだ。調律の困難と表裏一体の演奏中に生じる 音程のゆらぎすら、紛れも無く「音楽」の一部になっているのだ。そればかりではなく、西さんは初期条件に応じて その後の時間方向の発展過程が決定論的に決まるこの「蝉の法」の作曲法に従い、恐らく確実に、幾つもの初期条件を 試されて、その中の音楽的に興味深い幾つかのものはその過程をほとんど把握されていて、その場の状況(例えば 演奏時間の制約など)に応じて使い分けをされているようにうかがえた。(残念ながら「楽器」が主役の今回の催しの 質疑応答では、三輪さんの作品の演奏固有のこのような点についての質問は憚られたこともあり、 ご本人に確認したわけではないので、これは私の推測に過ぎないが、多分大きくは間違っていないと思う。) いずれにせよ、西さんが本来は筝の演奏家であることや、繰り返しになるが、箜篌にはもともと奏法の伝統が存在しないことなどを 考えあわせ、西さんの創意の豊かさと楽器に対する接し方に対しては感嘆の念を禁じることができない。

最後に述べたピッチの問題は、特にその点について主題的にコメントするだけの重要性があるだろう。アングルハープの 楽器の構造に由来する調律の困難については既に触れたし、縧軫の場合には更にその困難が増すという点にも言及したが、 それは東大でのThinking Machineとの「合奏」の際に特に問題になったという話を伺ったことがある。Thinking Machineは ピッチが固定されていて変更が利かないので、自ずと箜篌をそれに合わせて調律せざるを得ないのだが、もともと箜篌は 絶対的なピッチを合わせるのには全く不向きな楽器なのである。しかも調節機構が素朴であり、かつ弾奏するという奏法の 問題もあって、演奏中にもピッチの変化がはっきりとわかる程度に起きてしまう。もっとも、そういう点では例えば ヴァイオリン属の楽器でも程度の違いはあれ同じような問題は生じているわけで、そこではこうしたピッチの変化を 誤差と受け止め、それゆえに場合によってはマーラーのような長大な多楽章構成の作品の場合には、楽章間に チューニングが行われることさえ珍しいことではない。ところが、箜篌をはじめとするアングルハープの場合には、それを 誤差と受け止めれば、許容限度を超えるようなことになってしまうゆえに発想の転換に迫られるという事情もあるのだろう、 とりわけ独奏楽器として使用する限りにおいては、その変化を寧ろ楽器の特性の一部として捉えるような 発言が、木戸さんからも西さんからも伺えたのは非常に示唆的であった。もっともこれは邦楽器の伝統では決して 異質な発想ではないだろう。木戸さんは邦楽の世界ですら、音色の均質化が進み、大人数を収容するホールに 響き渡るような大きくて張りのあるムラのない響きが優勢な傾向を嘆かれていたが、実際、義太夫節の三味線でも ごく一部のお歳を召された名人の音色の多彩さに比べて、若手の多くの三味線は音色の次元が幾つか縮退していると 感じられるほどで味気なく退屈なものなのは私も繰り返し感じてきたことである。

このピッチのずれに関して最も興味深いのは、アングルハープの構造上の特性上、各弦の独立性が低く、 木戸さんの言葉をそのまま使わせていただけば「運命共同体」にあることだろう。そしてこの傾向は、機構上、縧軫の 楽器に最も典型的に顕れるのは容易に想像ができる。西さんが演奏中のピッチのずれも、誤差ではなくてより 積極的なファクターとして取り込みながら演奏をしているという発言をされていたのにも、そうした楽器の特性が 与っているように思われるのである。ある特定の弦だけ大きくずれてしまえば、それは誤差としか捉えようがないが、 木戸さんのいう「楽器の自然な状態」への収束過程と捉えれば、それ自体が時間方向の発展の項の一つと 考えることができるわけだ。そして私見では、「蝉の法」を創るにあたって、三輪さんがそうした楽器の特性を明確に 意識しているのは間違いない。「逆シミュレーション音楽」は、どれも人間が犯すミスに対しては頑健で、そうした ノイズを新たな軌道への転轍機として利用しているのだが、丁度「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」が 弾き慣れない微分音程の利用によって時間経過とともに拡大する誤差を逆用したように、「蝉の法」においても (勿論、調弦は規定されているが)やはり時間経過とともに「楽器の自然な状態」に収束しようとすることで 生じるピッチの変化を予め織り込んで作曲を行ったように感じられるのである。勿論、西さんも三輪さんも 訓練を積んだ音楽家であり、私のような人間に比べて遙かに鋭い音感を持たれているから、ピッチの変化に 気づかないはずはないし、気にしたら気になるに違いないのだ。そしてピッチの変化は私のような素人にさえ 感じ取れるくらいの程度のものなのである。けれども「蝉の法」のアルゴリズム自体は実は、ピッチの絶対幅には 依存しない仕組みになっている(弦を弾く両手それぞれの2本の指の位置の移動規則が与えられている)点に 注意してもいいだろう。要するに「蝉の法」の作曲法は、アングルハープの構造特性に対して頑健に出来ている ということもできるし、その特性を利用していると見ることもできるように思えるのである。 こうした事情は今回の催しのように楽器の構造についての解説をしていただかなくては気づかない点であり、 また木戸さんが三輪さんの作品を非常に高く評価されている様子がお話から伺えたことからも、木戸さんの 楽器復元、西さんの奏法の開発と演奏、三輪さんの「逆シミュレーション音楽」による作曲という コラボレーションが非常に緻密に行われたこと、そしてそれが西さんの演奏によって実現される音楽の質の高さと して私のような門外漢にもはっきりと感じ取れることが確認できたのは非常に印象的な経験だった。


というわけで、これは大変に充実した企画で、西さんの「蝉の法」の実演に接するという、もともとの目的が達成できたばかりか、 「蝉の法」という作品が、箜篌という楽器の特性を実によく考慮して創られたものであることを認識できたこと、更には 「逆シミュレーション音楽」が(その狙いそのものではなく、副産物的な効果だという見方もあるだろうが)非常に意義深い仕方で 機能していることを実感することができたのは大きな収穫であった。帰りは例によって途中までは混雑したマナーもへったくれもない 電車(しかも金曜日なので、酔客の割合が多く更に性質が悪い)に乗ることになり辟易したが、こうした催しであれば、 めげずに再度足を運びたいと思った。できればやはり休日の昼間の方がいいには違いないけれど、、、

(2008.5.31初稿, 2024.6.23 noteにて公開)

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