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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(17)

17.

ジェルトリュードが、ドストエフスキーの「白痴」においてムイシュキンの語るマリアを介して(というのもマリアの話は偶々スイスであり、 田園交響楽もまたそうだという接点もまた存在するからだが)、ナスターシャのようにトーツキーに引き取られたとしたらどうだろうか。 ジェルトリュードはトーツキーに辱められる前に身投げをしたナスターシャなのだという見方はできないだろうか?逆にジェルトリュードが一命を 取り留めたら、ナスターシャのようになったのではないか。(身投げの可能性をナスターシャが語っていたことを思い起こそう。) だとしたら、人によっては不可解な「顔」に纏わるジェルトリュードの発言もごく自然に理解できるだろう。ジェルトリュードはそこにムイシュキンを 見出すだろうと思っていたが、実際に現れたのはトーツキーだったのだ。 そしてムイシュキンを彼女はそれとは気づかずに拒んでしまっていたことに気付いたに過ぎない。これは慰めの村で終わってしまったナスターシャの 物語なのだ。(M嬢の家こそ、慰めの村の対応物でなくてなんだろう。)「白痴」がいわば問題を最も先鋭的なかたちで提起しながら、 解答がわかりやすい形では提示されておらず、暗示的なものに留まっているのと同様、この作品も、問題の在り処を先鋭的なかたちで 提起してはいるが、解答はやはり暗示的なかたちで示唆されているだけだ。ここでも両者は共通している。ただし、「白痴」に対する 「カラマーゾフの兄弟」の対応物は、ここにはない。なぜなら、ジッドのベクトルはドストエフスキーとは逆を向いていて、キリスト教は そこから身を振り解く対象であったから。逆さに映りこんだ形で、前作の「狭き門」が浮びあがる。ジッドの不毛はこうした構造に はっきりと刻印されてしまっている。田園交響楽は結局ジッドがどこにも辿り着くことなく砂漠を彷徨うばかりであることを示している。


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