見出し画像

「New Tonalism / 新調性主義 ―逆シミュレーション音楽の彼方へ―」について

ICC開館10周年記念セッションシリーズ Vol.4 デモ・パーティ「Media Explosion!!」
2008年1月20日(東京オペラシティ4階・ICC特設会場:ライブ・ストリーミングによる視聴)

以下の記録は、上記の催しにゲストとして参加された三輪眞弘さんのデモのライブ・ストリーミングを自宅のPCで視聴した際のメモに基づいている。 内容としては、最初に「新調性主義」についての20分弱の講演があり、続けて12分程度の作品のデモ、その後質疑応答が行われた。

三輪さんの思考は、そして創作活動はこの3ヶ月程の間にも進んでいるわけで、この手の記録は本来、時間が経過しないうちに 公表することにこそ価値があるのかも知れない。しかし残念ながら、専ら私的な事情でその時間をとることができず大幅に公表が遅れてしまった。 だがその一方で、その内容の価値が僅か3ヶ月程の時間で色褪せてしまうということはないだろう。私としては寧ろ―例えば有名なところでは ソシュールの講義録がそうであったように―、自分の理解力の限界から、あるいは単純な聞き間違いなどによって、三輪さんの考えが正しく 伝わらないことを懸念している。そうしたことのないように留意したつもりではあるが、その一方で、いつものようにこれは、現代音楽に関しては門外漢である 私の「感想」に過ぎないことを最初にお断りしておきたい。より客観的な講演記録にしてしまおうかとも考えたが、まずもって時間が経ってしまった こともあり、自分のメモの内容の正確さに信頼がおけないのでそれは断念した。もっとも、そもそもそれは私の役割ではないだろうし、 ライブ・ストリーミングが可能なくらいだから、ありのままの記録はICCにアーカイブされているに違いなく、客観性を問題にするならば、 始めから私の出る幕はないはずである。というわけで、以下の文章の文責は私にあることを明記するとともに、専ら私の誤解や聞き違いがあたかも 三輪さん自身の発言として流布することを防ぐ主旨から、内容の転載は控えていただけるようお願いする次第である。


最初に音楽と録音された音楽である「録楽」の区別についてから話が始まり、「逆シミュレーション音楽」が、単なる音響でも演奏でもなく、 まずその核心がアルゴリズミック・コンポジションにあり、寧ろ脳の拡張と見做しうること、さらに「逆シミュレーション音楽」の定義にはルールに従って 演奏を行う人間の身体が含まれること、しばしば複数の身体による分散システムであること、ルールは身体にとって未知のもので、 それは新しい身体、新しい技芸を作る試みであるという説明が行われた。

そうした「逆シミュレーション音楽」の先にあるものを考えるにあたって、(1)アルゴリズミック・コンポジションは保持すること、 (2)音楽の持つ神秘性・超越性も保持すること、(3)素直に捉えられる音楽であること、の3点を前提に置くことにする。 特殊な技能を、つまりは特殊な身体を持つ存在としてのプロの演奏家とこれまでコラボレーションを行ってきた経験から、既存の楽器や 技術の継承を生かすよう配慮する方向性が考えられる。そこで「調性」(Tonality)の見直しを行う。ただしそれは機能和声に 従うことは意味しない。調性はあるが機能和声には従わない「新調性主義」(New Tonalism)を提唱する。

そのときに調性へのマッピングのあり方は多様で、単純なものではありえない。そうした観点からの三輪さん自身の作品中での 先駆的な試みとして、「東の唄」とNomadische Harmonieがあげられた。後者は五度圏の考え方に基づく 16音の音列を初期値とするオートマトンの一種である。ここではその考え方に基づく実験作「五度重ねの公案による 単旋律ハ長調(エオリアン)」のデモを行う。デモはコンピュータによるシミュレーションだが、ピアノでの演奏を想定していて、 最終的な作品は人間が弾くことになる。作品は初期値が与えられると前の2つの音を見て次の音を決める規則に従う。 パターンは12分くらいで収束する。まだもっと調性的に響くものを求めて暗中模索中である。


「五度重ねの公案による単旋律ハ長調(エオリアン)」のデモ

一聴した感じでは、単純な規則にも関わらず、リズム、アタック(ペダルを含む)、音群の分布の点で かなり多様なパターンを生成している。(ペダルについては、後に、音程の幅が狭くなるとペダルを踏むように プログラムされているという説明があった。)単旋律とのことだが、擬似的な対位法のような少なくとも幾つかの 声部を聴き取ることが可能に感じられる(バッハの無伴奏ヴァイオリンの作品を思い浮かべれば良い)。結果として 生成されるパターンは単なる音響ではなくもっと構造的なもので、適切な命名と定義が必要だろうが、 少なくとも私には優れて「音楽的」なものに聞こえた。これが完全に単純な規則に基づいているものとはちょっと 信じ難い複雑さで、特に後の質疑応答で、三輪さん自身が言及されていた、擬似的な収束を何回か経て 最後に収束を迎えるその過程は、実際に解析したわけではないから専ら比喩的な言い方に留まるが、 カオスの縁の豊かさ、複数のアトラクターを遍歴する「カオス的遍歴」を思わせる豊かな構造を持ったものだった。

デモの後は、引き続いて質疑応答の時間になった。以下、その概略を記載する。メモを元に起こしているので、 もしかしたら他者からの質問と、三輪さんの自問が混同されている部分があるかも知れないが、何が話題と なり、三輪さんがどのように考えているかの大筋は把握できるものと考える。


Q:収束するとMi-Laが残るように聞こえたが?
A:Mi-La-Reが残る。音が集中していく様な傾向は与えられているが、具体的にどのようにそれが起きるかは やってみないとわからない。

Q:音楽も詩も絵画も人の心を揺さぶらなければ価値がないと思っている。そういう意味で、作品における 収束は情緒的なものを狙ったのか?
A:そうではない。これは単にルールに従っているだけだ。

Q:作曲にあたって、情緒的な抑揚などはつけていくのか?
A:それはしない。それはロマン派的な発想。J.S.Bachは「俺の熱い気持ちを聴いてくれ」とポリフォニーを 書いたのではないだろう。ただし人の心、感情に働きかけることはあるだろうし、寧ろその様子を見てみたい。 感情を込めるのは演奏者の仕事であって、作曲者は関係ない。勿論、密かにある部分が好き、とかはあるが。 この作品では擬似的な収束が周期的に訪れるが、それをどう解釈するかは演奏者の自由である。

Q:聴き手の知覚の観点から眺めると、聴き手の印象としては途中は12音音楽のようで最後は調的に聞こえた。 結局のところ「新調性主義」というのは、作る側の心意気のようなものに過ぎないのではないか?
A:作品にはまだ改良の余地があると考えている。特に転調に注目している。移行のさじ加減の問題であり、そこにフォーカスして 改良していきたい。

Q:作品のメカニズムについて解説して欲しい。
A:16音の並びが初期値として与えられる。後は規則に従った決定的な動作を行う。

Q:「またりさま」は、新しい規則に従っているという演奏者の「感じ」があるという点で、新しい音楽と言えると思う。 一方「新調性主義」の場合はその点についてはどうか。同じことが言えると考えているか。
A:勿論、そのように期待している。このような方法では作曲者は寧ろ観察者に近い。現在の制度上は作曲者と 呼ばれているに過ぎない。逆シミュレーション音楽を知っている人にとっては、「新調性主義」は妥協に見えるかも知れないが、 プロの演奏家が現実に居るわけで、その現実に対応したい。あわよくばポップスを作りたいと考えている。

Q:自分が予想していたことが当たっていて、うれしく思っている。
A:読まれていましたか、、、


以上で三輪さんのデモは終わり、デモ・パーティそのものもクロージングへと向かった。クロージングではゲストが デモ・パーティ全体の感想を述べる部分があったが、そこでの三輪さんのコメントは「予想していたよりもはるかに 楽しかったし、学術的な研究もあって面白かった」といった内容だった。


この手の催しではどうやらごく当たり前のことであるというのが最近になってやっとわかってきたのだが、タイムテーブルは守られず、予定より 大幅に遅れて三輪さんの講演が開始されたのは20:13頃、終了は手元の時計で21:07だった。予定では三輪さんを含めた3人のゲストの デモは18:30~20:00というスケジュールだったはずだから、すでに開始時点で予定の時間を過ぎていたことになる。主催者とゲスト、それ以外の ほとんどは応募者とその周囲の人達によって占められていると思しき会場は、そんなことを意に介する雰囲気は微塵も感じられず、 デモ・パーティなるものが予定を1時間以上も過ぎてようやく終わりに達するのをネットワークのこちら側から呆然として眺めていた。

そう、ネットワークを介した傍観者の立場というのは、私には全く相応しい環境であったと感じられたし、今でもそう感じる。そのことの是非はおくとして、 三輪さんとその作品に関連した催しに接していつも感じる疎外感、所在無さの感覚は、三輪さんの音楽そのもの、そして三輪さんご本人に 対して感じる(それ自体は恐らく多分に身勝手な)親近感と共感をほぼ常に囲繞し続けている。その居心地の悪さが、例えば通常のコンサートの それとどれだけ共通し、どれだけ異なっているのかはよくわからない。一方、上記のデモでも三輪さんが触れられていた「録楽」、 例えばCDを自宅で聴くのと、このようなライブ・ストリーミングでの聴取とを突き合わせてみるべきなのかも知れない。そして勿論、こうしたことは 三輪さんの場合に限って言えば決して瑣末な問題とは言えない。演奏者しかいない場が奇妙なのか、演奏しない聴き手が存在することが 奇妙なのか、聴き手の場所はどこにあるのか、といったことを考えた時、私はこうした催しに閉塞感のようなものをどうしても嗅ぎ取ってしまう。 勿論、こう言っているからといって、私はそれがいけないと言いたいわけでも、存在意義がないと言いたいわけでもない。否、そうした場が 必要なのは明らかなことだと思う。だが、それにしても、とりあえずはそうした文脈の中に位置づけられている三輪さんの音楽についていえば、それが 恐らく間違いなく聴き手を前提としていて、しかもそれが自分が探している類のものであるように感じられていること―もっとも、その両者が共存したところで、 必ずしも「出会い」が保証されているわけではなく、実際にはすれ違いが起きているのかも知れないが―を思えば、そうした閉塞感を感じ、しかも 自分がその外部にいることを繰り返し意識させられるというのは逆説的な状況ではないだろうか。

実際、「録楽」の問題が念頭にあって、この催しについても会場に行くことも考えたのだが、最も懸念したプログラム進行については当に予想通りの進行で、 当日の体調を思えば訪問を控えて正解だった。私はこの時体調を崩していて、翌週には寝込んでしまい、1/27に東京ワンダーサイト本郷で行われた 三輪さんの「語られた音楽が語るとき、クラーレンス・バルローの言葉による」を聴くこともできなかったのだ。

(2008.4.12/13初稿, 2024.6.23 noteにて公開)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?