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シェイクスピアの舞台で山本家の狂言を観る(2005年明星大学「狂言の会」)

「鎌腹」山本則俊・山本則重・山本則直
「月見座頭」山本東次郎・山本則重
「武悪」山本東次郎・山本則直・山本則俊

明星大学の日野校舎にはシェイクスピアホールと名づけられた舞台がある。 天井こそ吹き抜けにはなっていないが、あのグローブ座を模したつくりのホールである。 そこで山本家の狂言を観賞する催しがあったので参加した。
番組は「鎌腹」「月見座頭」「武悪」。狂言の会ならではの重厚で変化に富んだ番組である。

山本則俊さんの「鎌腹」は実は昨年の秋、喜多流の自主公演の際に目黒の舞台で 拝見していて、その素晴らしさは経験済みである。その時の印象はすでに別のところに 書いたが、ここで再度引用する。

...「狂言「鎌腹」の充実感はとてつもない。山本則俊さんの狂言を拝見していると、 自分がとてつもなく 貴重な舞台に接しているのだという思いを強く抱く。全体の構成、細部の仕上げ、どこをとっても 最高度に完成された芸術品なのだ。緩むことのない、見所にとっては心地良くさえある緊張感。 無駄なく、完璧に均整のとれたかたちとことば。(小道具の扱いさえ、疎かにならないのだ。) そして、その裡から溢れ出てくる諧謔味。山本家の狂言は、型の美しさが何より特徴かと思うが、 諧謔味という点でも、流儀を超えて、今まで見た中でも最高のものではなかったかと思う。 語りの間合いも絶妙、何より役柄が完璧に消化されていて、演技でここまで表現しきれるものなのかと、 ただただ感嘆する。 流儀の能の会の狂言というのは、見所の集中力が乏しく落ち着かないものになりがちであるのが、 その出から、そして最初の詞から最後まで見所の集中をかちえ、なおかつ見所からこれだけの笑いを引き出したその芸の力に感銘を新たにした。...

今回はそれとの比較になるが、完成度の高さ、型の美しさ、緊張感といった点は、 再度拝見しても変わるところがない。その一方で、前回が能の番組の一部であったのに対し、 今回は狂言の会の最初の番組であったせいか、骨格のはっきりとして、剛直さの前面に 出た上演であったと思う。印象としても滑稽味よりも、状況の切迫と急展開 (その展開は、半分は太郎の信念の空間の内部で起きる)といった劇的な脈絡を 強く印象付けられた。

「月見座頭」を拝見するのは初めてで、不勉強な私は、実際に拝見して初めて 「弱法師」の引用が作品の構成を支えていることを知って、非常に感動した。 劇中劇のように、月見(とはいっても座頭は月が見えるわけではない、 冒頭、自らそう語って、虫の音に耳を済ませる東次郎さんの座頭の姿を見て いると、舞台に草原が現れ虫の音が聞こえてきたのが印象的であった。)の 酒盛りで舞を請われた座頭はよりによって、「弱法師」の日想観のところを やってみせる。「見るぞとよ」と謡いはじめるのを聴いて、私はぞっとした。 勿論、初めて観るとはいってもあらすじは知っていて、どういう結末を迎えるかの 種はすでに明かされているのだが、それでもこの謡いだしはインパクトのある ものであった。一瞬でも月が見えるとまさか錯覚したわけではないだろうが、 相手の男の心変わりによって現実の別の一面を認識させられる後のなりゆきを 知っていれば尚更、「弱法師」の物語を重ねずに観ることは困難だろう。
「弱法師」が念頭にあったせいか、興味深かったのはその結末である。 「弱法師」の結末は、表面上はハッピーエンドであり、父と再会して共に 帰途につくのだが、多くの方の指摘しているとおり、「弱法師」につきつけられた 現実の切っ先の鋭さの感触が残っている故か、寧ろ絶望感すら感じさせる ものである。それに対して「月見座頭」の結末は、苦々しさと怒りが入り 混じってはいても、決して絶望的には感じられなかった。彼は己を突き飛ばした 男が酒を振舞った男と同一であると気付かない。そしてそのおかげで、 己の達観の裡に誇りを喪わずに立ち去ってゆけるのだ。そうであれば、あえて くしゃみをして留める必要もまた、無いわけである。東次郎さんは、くしゃみ で留めるやり方をあえて選択されなかったのだが、私にはそれが、彼の 矜持が(多分、怒りやわだかまりともどもではあるのだろうが)そのまま 保たれたまま終わったように感じられたのである。それは「弱法師」では、 彼を突き飛ばしたのが父であるわけではないのに、まるでそうであるかのような 後味の悪さが残るのと好一対であると感じられた。
謡や舞がふんだんに取り込まれていること、「弱法師」を連想させるような 迫害される主人公の繊細さと矜持とを描くのに東次郎さん以上の方を思い浮かべる のは難しい。(苦悩にゆがむその表情に、「弱法師」の面を思わず連想したほど である。)お家の芸ということもおありのようだが、それ以上に東次郎さん ならではの人物造形が印象に残る素晴らしい舞台だった。

休憩を挟んだ後半は「武悪」。今までテレビで2回拝見していて、実演で是非 拝見したかった演目だ。配役は山本家の則直さんの武悪、東次郎さんの主人、 則俊さんの太郎冠者。
この作品は、通常の狂言と異なり、いわゆる名乗りもなく、いきなり主が 家人を呼び出すという始まり方をする。その冒頭、刀を手にした東次郎さんの 呼びかけのただならぬ緊張感が客席を釘付けにする。この物語は、主人と武悪の 対立を軸にしているが、実際にはその間で板ばさみになる太郎冠者の心理と 行動が物語を展開していく。友人を切るように命じられる太郎冠者の苦悩、 武悪と太郎冠者の心の通い合いがはっきりと伝わり、武悪を逃がすために 嘘をつくことを決意する太郎冠者の決断が、物語の前半に句読点を打つ。 「鎌腹」もそうだが、苦悩する人物の心理を浮び上がらせる則俊さんの 演技は、武悪の性格を巧まずして描き出す則直さんの演技とともに 感動的だった。
後半は観音利生説話の枠組みを借りていて(観音信仰により武悪は 助かるばかりか、自分を切るはずだった主の太刀と扇すら手に入れてしまう)、 太郎冠者の入れ知恵で幽霊「に」化けた(本当に討たれたら、武悪の幽霊 「が」化けて出るだろうから、これは太郎冠者の決断が惹き起こした能の パロディである)武悪に怯え、さらには自分の父親の話を持ち出されて完全に やりこめられる主人が描かれ、前半の勁さに満ちた姿との落差がほろ苦い 笑いを呼び起す。太郎冠者に「ここは鳥辺野だ」と言われて途端に表情が変わる 東次郎さんの主人が印象的だった。ここでの本当の勝者は、この後半の 舞台そのものを仕組んだ演出者である太郎冠者であろう。その姿は前半と 異なって武悪と主人の協奏の背後にひいてはいるが、生き生きとしていて この長大な作品の構成の巧みさを強く印象づける。
三人の登場人物が対等に描かれるこの作品は演者の力量の均衡が求められるが故に、 しばしば異流公演やあるいは同じ流儀でも複数の家の合同の公演で出されることが多いが、 そうした作品を山本家の御三方の演技で実際に拝見できたのは最高の贅沢で、 実演で拝見して改めてこの作品の素晴らしさを認識した。

ホールは木が多用されていて、音響的には演劇をやるのに如何にも相応しい。 能舞台と異なり、天井が高く、また柱の配置も全くことなっている中に、 仮設の能舞台をおいたものだったが、市民ホールのようなところでの上演の ような違和感は感じなかったのは、演技の説得力は勿論だが、空間の親密さの ようなものも寄与していたのではと思う。今後再度、このような企画があれば また是非参加したいと思う。

(2005.3.5, 2024.6.27 noteにて公開)

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