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弦楽四重奏曲「皇帝」を聴いて

弦楽四重奏曲「皇帝」
クァルテット・エクセルシオ(西野ゆか、山田百子、吉田有紀子、大友肇)
2007年2月24日紀尾井ホール「日本の作曲・21世紀へのあゆみ シリーズ第3期(1976年~2000年)・III[最終年]第37回 室内楽の諸相V ~1990年代」


[おことわり]:この文章で扱う上記作品には、(「驚愕」交響曲の作曲者ハイドンの精神に則り!?)ある「仕掛け」が施されています。以下の文章は事実上、 その「仕掛け」の「種明かし」になってしまっていますので、予めご了承ください。とりわけ次の再演の時まで、あるいはリリースされるであろうCDを聴くまで 「最初の一回の楽しみ」をとっておきたい方は、読まないでください。(この文章の作者は、その「仕掛け」が作品の全てだとは考えませんが、様々な 状況から、少なくともそれが作曲者の意図の一部であると考えます。そこでこのような[おことわり]をつけることにしました。)


三輪眞弘さんの作品におけるプログラムノートの位置は独特だ。作曲家が作品を提示するだけではなく、作品について言葉で語るようになったというのは、 いわゆる20世紀の「現代音楽」の特徴の一つだろうが、「逆シミュレーション音楽」において明確なかたちをとっているように、三輪さんの場合には、そうした 「習慣」を逆手にとって意識的に、戦略的に「利用」する姿勢があからさまだ。それに対し、あえて知らぬ振りを決め込んで、「音楽そのもののみ」を 問題にしようとすることもできるし、ある意味では素直に、作曲者の仕掛けにかかってみることもできるだろう。

私のスタンスは明らかに後者ということになる。三輪さんの場合には「音楽そのもの」がそれ自体虚構であるという認識があって、いわゆる実験音楽に おけるのとはまた異なった位相で「作品」概念自体を批判的に考えているのは明らかだから、というのが理由だが、それ以前に私自身がそういう 聴き方をする癖を持ってしまっていて、偶々この場合には、作曲をするコンピュータプログラムを作るというアプローチや、その背後にあるコンピュータを 人間にとっての「他者」、環境に存在するエージェントとして見做す志向的スタンス、そして、それを通して人間を捉えなおすという方向性への共感ともども、 単なる「音響」を享受することができない性向が、お誂え向きに合致しているというのが本当かも知れない。 ちなみに「お誂え向き」というのは、ひねくれた観方をすれば、作曲者が「いいカモ」だとほくそえむかも知れない、ということである。

というわけで、事前にプログラムノートだけを読んだときの私の反応の一つは、ひとことで言えば「国歌を問題にするなら、何故「君が代」ではないのか?」だった。 簡単に言えば、当惑したのである。ハイドンの皇帝賛歌の場合には、私はそれを「国歌」としてでなく、変奏曲の主題として捉えてしまっている という現実がまず先にある。「国歌」であるより先に、弦楽四重奏曲の第2楽章の主題なのだ。本当ははじめからそれは「皇帝賛歌」であったにも 関わらず、私はそうしたコノテーションには無頓着で、従って、国歌の問題を考えるときに「皇帝賛歌」を媒介にする、というのが、少なくとも私の場合には、 出発点から捩れてしまっていると思われたのだ。勿論、何かの理由があってのことだろう、というのは想像された。三輪さんはドイツに長く滞在していたから、とか (それなら私とは関係がないことになる)、あるいは、ここでの「音楽」とは、差し当たり「西欧音楽」なのだし、「国歌」を制定する、という発想自体、 輸入品であるとも言える、などなど、、、

更には、「機会音楽」と「純粋(?)音楽」との関係―弦楽四重奏というのは、最も抽象度が高い形式、ということになっている―のことも考えられるし、 自分にひきつけてみれば、通常はそれと自覚することもなく、音楽をごく「個人的に」「消費」していること、しかも、少なくとも私にとっては事実上、 音楽が強い意味での個人的なもの、つまり実存とか主観性とかいったレヴェルでの私的な位相を持つ(ただしそれは「独我論」的なものではない)ものに なってしまっているので、そうでない音楽との関わり方を考えるのは、とても難しい、ということが思われたりした。

現実には作曲家にとって「国歌」はともかく、「校歌」「市民歌」あるいは「社歌」といった機会音楽(コンクールの課題曲なども、それに準ずるものと考えて も良いかもしれない)の作曲が、今尚現実に仕事として存在することを思えば、自分のような立場が、音楽を専ら享受する極に位置するがゆえに可能な、 どちらかといえば極端なものであるようには感じていて、本来礼拝のためにある宗教音楽を、文脈に拘らずに聴いてしまう、というのもそうした極端さの表れに 違いないのである。また、「儀礼性」への抵抗感も、多分に同根に違いなくて、これは三輪さんの「逆シミュレーション音楽」や、 仮想的なカルトのための音楽への違和感とも通じているに違いない。 私の感覚では、逆シミュレーション音楽というのは、(恐らくここで批判の対象となっている)「国歌」のようなあり方を寧ろ認める 方向性があるように思えてならないのだ。それでいて、そういう文脈への無頓着さというのにひっかかりを感じていないわけでもない、、、 その何よりの証拠に、現にこうやって一音も聴かないうちに「音楽そのもの」とは無関係な考えが増殖しているではないか、、、

ともあれ、個人と集団、儀礼性といった問題は、三輪さんの音楽を聴くときに私がひっかかりを感じている部分で、今回もまた、そうしたひっかかりを抱えたまま、 会場に向かうことになった。一方でこの作品は、「コンピュータが変奏曲を作曲する」という試みでもあり、私にとってはそうした自動作曲の側面はそれ自体で 興味を引かれるものがある。一体どんな変奏になっているのか、それを確認してみたいという気持ちも強かった。

すでに何度目かの再演であるこの作品をご存知の方には笑われてしまうかも知れないが、要するに私は、こと「音楽そのもの」について言えば、 鮮やかに「一杯食わされた」のである。これはなかなか愉快な経験だった。 既に述べた通り、私は必ずしもこの作品を「仕掛け」が全てとは思わないが、 それでもなお、この「仕掛け」に嵌められる体験を今後する可能性がある方々のために、あからさまな「種明かし」はしないでおきたい。 (今読んでみたら、会場で配られた長木誠司さんによる作品解説も、そこの部分は何食わぬ顔でぼかしてあるし。)もっとも、ここまで書いてしまえば、 察しの良い方なら何が起きたかは想像できてしまうだろうし、以下、感想を書く上で、どうしても察しがついてしまうことになりそうなので、 「仕掛け」を事前に知りたくない方は最初にもおことわりしたとおり、読み進めない方が良いと思う。

仕掛けといえば、この作品の場合、楽譜にもちゃんと仕掛けがしてあって、「演奏について」のところに記載された楽譜で使われている特殊な記号の解説に 従って譜読みをすると、「あれれ」、ということになる。何という徹底振り!

更に言えば標題にも別の(ただし最終的には関係がある)仕掛けが用意されていると見るべきかも知れない。 「日本の作曲・21世紀へのあゆみ」の企画者側が事前に用意したチラシやWebページの情報では、「弦楽四重奏曲、ハ長調"皇帝"」となっていて、 調性の指定がある。上述の長木さんの解説も、それを踏まえた説明になっている。一方で出版譜では調性の指定がない。当日配布されたプログラムは 出版譜に従ったのか、やはり調性指定は削除されている。不思議に思って、作曲者のWebページを参照すると、どうやら前回の再演時までは、 調性指定があったらしい。今回の再演と出版にあたって、恐らく意図的に落とされたようなのである。

この点は取るに足らぬことのように見えるが、長木さんの解説では調性指定に言及がされていて、ハ長調と書かれているけど、開始はト長調、終了は ニ長調であるとされ、「冗談とも遊戯ともパロディともとれるような真面目な作品」という評価のある種の裏づけとして指摘されている。

既にご存知の方も多いかも知れないが、背景の整理をすると、4楽章からなるハイドンの弦楽四重奏「皇帝」の主調はハ長調、三輪作品が「引用」 している緩徐楽章は主調の属調であるト長調で書かれている。他方、三輪さんの作品もまた、主題はそのままト長調と「一応」は言えそうである。 ただし楽譜の記譜上は、―無調の作品でのように―へ音が出るたびにシャープが臨時に付く記法になっていることに注意すべきかも知れない。 ちなみに主題が「引用」されている、という言い方は三輪さん自身の言い方なのだが、聴くとすぐにわかる通り和声付けはハイドンのものと全く同じではない。 特にAABCCの構造のCの部分の後半のフレーズのチェロの動きは原曲とは違っていて、和声進行としても 歪みが入れられているのがはっきりと聞き取れる。この歪みはその後の「変奏」でも割合と律儀に保存される。

一方で終わりはもっと問題がある。497小節目の終止は確かにニ長調の主和音のようだ。だが、この終止はいわゆる「まともな」終わりではないのだ。 ハイドンを含む西欧の古典音楽の和声進行の帰結ではないのである。495小節目の裏から496小節にかけて響くニ音のユニゾンの後に、唐突に付加 されているだけなのである。それまでの音楽の経過の帰結は495小節目の裏から496小節にかけて響くニ音のユニゾンの方であって、それは作曲者の 指示にほぼ従って実演でも行われた照明の変化によっても強調されている。 つまり、421小節以降のコーダの部分は496小節のニ音のユニゾンまでは舞台照明が徐々に紅にフェードしていき、497小節でそれが通常の照明に戻るのである。 というわけで、長木さんの解説は勿論正しくはあるのだが、まるで作曲者への共犯の意図に基づいたかのような含みのある、ぼかした書き方なのだ。 (確認したわけではないからこれは単なる私の憶測に過ぎない。そういえば前段の三輪さんの音楽を概括的に紹介する文章も、間違っているわけではないが、 少なくとも表現的に随分とぎくしゃくしているようだが、これまた意識的にやっているのだとしたら、かなり徹底している。もっともそれと気付かない人がもし いれば、些か危ないことになるような気もするが、、、)

要するにハ長調でないのもはっきりとしているが、ト長調からニ長調に転調するのでもない。実際には問題の495小節目の裏から496小節にかけての ニ音は西欧的な調性の主音ではなく、「旋法」を構成する音なのである。おまけに照明は、「はっきりと境界線がわかる真円形のスポットライトが望ましい」という 指定が為されていて(私が聴いた座席の位置からは、舞台が近すぎてそのようには見えなかったけれど)、赤い太陽のように見えることが意図されている。 コーダに入って音楽は終結に向けて高潮していくが、聴き手は今聴いているのがハイドンの「皇帝賛歌」の変奏である筈だということをうっかり忘れそうになる。

とはいうものの、そこにははっきりとキマイラであることがわかるほど見え透いた「変化」があるわけではない。コンピュータ作曲の有名な例で、ベル研の マックス・マシューズを「メタ作者」とした音楽がある。「ジョニーが凱旋するとき」と「イギリス擲弾兵」を入力とし、前者から後者へ、そして再び前者へと変化する 奇妙な「作品もどき」で、この場合にはヘ長調からホ短調への転調と4分の2拍子から8分の6拍子への変換が些かぎこちない仕方で行われるものだった ようだが、その場合とは異なって、ここでは変奏という口実のもとで行えるほど滑らかなものである。これは一つには三輪さんが用意したプログラムが 洗練されていたことによるのだろうが、より根本的には、国歌というものが持つことが要求される音楽の性質がもたらす類似性によることを示していると 受け止めるべきなのだろう。私はそんなにいくつもの国歌を知っているわけではないのだが、それでも、国歌というのがしばしば取替えがきくのではと思えるほど 似た雰囲気を持つことはしばしば感じることではある。

それにしてもコンピュータが国歌を変奏する、というのは国歌の機能を考えれば、それ自体が奇妙なことのように思える。我々と異なって、コンピュータは (少なくとも今のところは、レムの「ゴーレムXIV」に出てくるようなものはSFの世界の話なので)「愛国心」を育むべく、思想教育さながらのチューニングが 行われるとなどという事態は現実には起こりえないし、自分が埋め込まれる環境に対して無頓着で、そうした環境への対応を主眼においたものもあるには あるが、例えば(少々古いが)ブルックスのロボットがそうであるように、せいぜいが昆虫を模擬する程度の柔軟性しか持っていない。 自分が共同体に帰属する、などという意識がないのは勿論だし、もろもろの国歌の共通性を抽出するプログラムを作成して実行することはやろうと思えば できるかも知れないが、その場合は解釈するのはあくまで人間なのだ。そもそも「コンピュータが変奏をする」、という言い方自体、人間がそのような 志向的スタンスでプログラミングされたコンピュータの動きを捉えているということに過ぎない。それが国歌であることは、あくまでプログラムを書く人間、 プログラムが生成した音楽を演奏し、聴く人間の側の問題なのだ。

だがその一方で、人間もまた、自分の拠って立つ基盤を直接認識し、操作することはできない。自分が動かされる衝動や本能は、ある部分は生物として、 ある部分は社会的に蓄積されたもので、無媒介にその外に出ることなどできない。音楽の聴き方一つとっても、身に付いたものを変えるのは容易なことではない。 ある部分から先は変えることがそもそもできないのかも知れない。この作品はそうした危うさを、ユーモアをもって指摘しているのだと感じた。

もっとも赤い光の中で、コンピュータが紡ぎだした音楽を、人間が奏でるのを見、そして聴くのはちょっと不思議な感じの経験だった。 (これは三輪さんの意図からは外れるかも知れないが)それが「国歌」であることは副次的なことになってしまい、寧ろ端的に音楽を、本来 人間にとってのものでしかないはずの音楽を、誰のためでもなくコンピュータが無限に紡ぎ続けるというイメージが鮮烈に浮かんでしまい、 頭から離れなくなってしまったのだ。勿論、聴く人間がいない以上、コンピュータが紡いでいる「それ」は、最早「音楽」とはいえない筈で、 これは単なる御伽噺に過ぎないことはわかっているのだが、、、

私がこの曲に対して興味を抱いたもう一つの側面、コンピュータが変奏を自動的に生成するという点については、三輪さんの他の作品同様、うまくできているな、 というのが率直な感想である。以前に三輪さんの初期の「架空の木管五重奏のためのBQMOVM1E」について書いたときに、主題を与えて、それに基づく 即興をやらせたら面白いのに、というように記したが、この曲はほぼそこで期待していたことの実現になっていて、大変に興味深かった。 もっともここで「変奏」と言っているのは、少なくとも古典的な意味での、つまりハイドン自身が書いたような類の変奏とは随分と異なっている。 主題は確かに調性を持っているが、変奏は機能和声に従って作られているわけではなく、和声進行が保存されるわけでもなければ、 旋律線が装飾されるわけでもない。旋律の断片が漂い、似たようなコードが出てきて、何となく原曲の雰囲気が残っているかというくらいの、かなり 自由なものである。

一般に言って、変奏をする際に、どのパラメータを固定にして、どのパラメータを変更するか、どのような変更を認めるかには非常に大きな自由度が 存在する(それは人間がやっても同じことだが、人間が無意識のうちに自分が身につけた技法なり、「変奏」に関する了解なりの内側で動きまわる のに対して、プログラムの場合には、寧ろそうした「フレーム」を用意することの方が難しい)。それは更には、例えば機械学習や自己組織化などで時折問題になる、 どこまでが設計者により決定されていて、どこから先が自律的な動作なのか、というような話とも関係していくだろう。幾つかある変奏の違いは、 どのようにして可能になっているのか、言い換えれば各変奏の特徴(楽器の配分やリズムなどの違い)はどのように与えられているのか、とか、 変奏の排列は作曲者が決めているか、それともこれもコンピュータが決定しているのか、とか、色々な疑問が湧いてくる。 私はコンピュータで音楽を作ったことはないので、具体的な細部についてはわからないが、コンピュータに知的な―正確には知的に見える―振る舞いを させるプログラムを作ることについては、全く接点がないわけではないので、どうしてもこうした部分に目が行きがちになるのだと思うが。

そうした詳細は三輪さんに時間をかけてお話を伺うでもしなければわからないだろうが、とにかく、原則的に鳴っている音はコンピュータが生成したものであるということで、 プログラムの出来の良さに素直に感心してしまった。なんといっても各変奏内の時間的な構造の単純さは、人間が実現する階層的でしばしば大域的な 構造に比べて明らかに異質なものだとは思うが、それでも結構聴き応えはあったと思う。ちなみに時折指摘されるミニマリズムとの類似は、実際には結果論に過ぎない と私は思われる。単にアルゴリズムが、例えば歌謡形式の持つような再帰的な構造を、伝統的な和声進行ともども考慮して作られているわけではない からに過ぎず、言ってみれば欠如しているものがたまたま一致しているに過ぎないのではないか。ミニマリズムというのも実際には非常に多様であり、例えば 「逆シミュレーション音楽」であれば、それをある種のミニマリズムであるとするのは妥当なことかも知れないが、この曲に関してはそれとは単純に同一視はできないし、 そもそも比較の対象として想定するものが、一般にミニマリズムを代表するとされるライヒなどの作品だとしたら、志向から言っても、実際の音の肌触りから言っても、 随分と異質のものに私には思われる。 しかもここでは、上述の「仕掛け」を埋め込む必要があったわけで、そのためには埋め込みを行うための自由度が必要だろうから、変奏のいわば「もどき度」の強さは、 そうした目的から逆に決められたものかも知れないと想像してみたりもする。 研究レベルで興味深いアプローチを行うことと、音楽として面白いものを作ることとは一致しない。恐らくは限られた 手持ちの道具立てで、実用に耐えるものを作ることのが持つ特有の難しさ―これは研究を専らにされている方々には理解していただけないことが多い―を 我が事として感じているので、分野は違うけれども、その成果には心から感嘆してしまう。(レベルに違いがありすぎて、比較する気は全く起きないけど。)

演奏もまた素晴らしいものであったと思う。勿論、当日演奏されたもう一曲の野平さんの弦楽四重奏曲(これはとても優れた作品だと感じた)が要求する、 特殊奏法を駆使した多彩な音色や複雑で多重的な時間構造をリアライズするための技量や、洗練された繊細な感覚を受け止めるセンスはここでは 意味を持たない。「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」がそうであったらしいのと同様に、あるいは「弦楽のための369」がそうであったと感じられたように、 三輪さんの作品はいわゆる「現代音楽」の中では異彩を放って響く。コンピュータの生成した作品は、人間の身体性を考慮しないから、 音域や重音奏法が演奏可能なように調整する必要はあるだろうが、奏者の身体技能を前提とした名人芸作品のような意味合いで「楽器のために書く」ような ことは起きない。三輪さんが施した「仕掛け」とは別に、コンピュータが生成した音楽は、聴き手にとってもどことなく「ずれた」、不思議なユーモアを感じさせる ものだし、(今回多少楽譜を調べての想像だが、)恐らく奏者の方々にとっても、一見して平易に書かれているようでいて、決して滑らかではない、 独特の感触を持ったものではないかと推測される。主題も変奏も人の声に近い音色を持つ中音域が中心的に用いられているが、それらは総じてのびのびと 歌われ、自然な表情付けがなされていて、この作品の持つ不思議な晴れやかさとよくマッチしていたように聴こえた。

ここでもう一度、コンピュータが作った作品を人間が演奏することの意義を考えてみることができると思う。コンピュータ自体に再生させないこと、 あるいは例えばMIDI音源にしないことの意味は、この場合、音楽が良かれ悪しかれ、人間のためにあること、音楽によって得られる喜びも 音楽が利用される危険も、それを人間が歌い、聴くことにあることを浮かび上がらせること、そして同時に、アルゴリズムもまた両義的な価値を持つもので あることを示すには、「通路」となり「媒介」となる身体が、他者があるべきなのだ、ということではなかろうか。

もう一つ、この作品が日本の作曲の歴史を顧みるという企画のもとで演奏されたことと関連して感じたことがある。それは儚い人間が世代を介して 受け継いで行くものの方が、直接テクノロジーを媒体として、それに従属したかたちでしか在り得ない作品よりも、実は「長持ち」なのではないかということ。 いにしえにおいても「楽器のために」書かれた音楽は、その楽器の製法や奏法の伝承が喪われると、存続しえなくなる。今日のコンピュータをはじめとする テクノロジーの進展と世代交代の速度は、例えば、ほんの10年前に書かれた作品を新しい環境に「移植」することなしには再現不可能なものにする 可能性を含んでいるように思える。アルゴリズムは機種依存性がないから、そのまま残るし、生物としての人間の進化は極めて緩慢なものだから、 それに合わせた調整を見直す必要性は高くない。勿論、こうした議論に対しては、文化の発展や奏法の進歩の速度は、生物学的な水準とは 別のものだから、そうは行かない、という反論があるだろう。けれども、実際に何百年も前に、全く別の文化の中で書かれた音楽を聴くことが今日では 普通に行われている。それを思えば、やはり実際の問題として、そうした媒体への依存の問題はあるのではないか?人間に比べてコンピュータの性能は 遥かに可変性が大きい。端的な言い方をすれば「手順」とは別に「速度」という側面があるのだ。

こうしたことについて、コンピュータ音楽に取り組まれている方々はどのようにお考えなのだろうか?現実に、「再演」に際して実際的な壁にあたることはないのだろうか? こういう点も是非、話を伺ってみたいところではある。私自身について言えば、その速度のせいで、10年前には断念していた手順を、今なら実用に供して見よう、 などといった判断をしばしば迫られているので、これまた他人事とは思えないのである。多少、前後の主旨から逸れてしまうが、これもまた会場で思い当たった ことであり、ここに備忘のために書き留めておく次第である。

この作品はややもすれば、その「仕掛け」をもってのみ語られてしまい、「際物」扱いされてしまう危険があるかも知れない。けれども私が聴いた感じでは 必ずしも一度聴いて「種明かし」されたらおしまい、といった作品ではないと思う。ユーモアに込められた毒はきついものだし、それに釣り合うように、 コンピュータが生成した音楽は、美しくて、どこかで微妙にずれている。そのずれを再認するのは、いつも興味深いことであるように私には思われる。 「仕掛け」に拘れば、これは演奏者や聴衆の国籍を選ぶ、文脈拘束性の強い作品だということになる。けれども、そうした文脈がなければ意味を 喪ってしまうようには思えない。もっとも、実際にどうであるかを主観的に確認する術は、勿論私にはないけれど。そして、私個人にとっては、それ以外にも 色々な問題意識をかき立てて止まない作品なのは確かなことなのである。

(2007.02.25作成、公開,27加筆修正, 2024.6.23 noteで公開)

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