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断片IV 蓄音機

 劇詩「蓬莱曲」は文学的には失敗作ということになっているけれど、 能や浄瑠璃の世界と、バイロンやゲーテが取材したマンフレッドや ファウストの世界の両方を足場に、自分の見出した「内面」を ありのままに定着させようとした透谷自身の志向と、その内的 生命の力、結局透谷自身を圧倒してしまったのかも知れない その力の迸りは、時代を超えて、今、この地点でも明らかに 感じられるし、人間の「心」の問題を考えようとしたときに 今尚、決して古びていないものに感じられる。 それは、当時は実現できなかった、ありえたかも知れない芸能、 来るべき芸能を、予見したものではなかったかとも思える。

 或る種精神的で抽象的な「場所」の風景(心が見る風景では あるけれど、それは寧ろ心の風景、心の地形、心の構造に他ならない) として、例えば容易に劇としての実演を受け付けてこなかった。 (透谷自身もそれを自覚していたのは、彼自身の付けた序文からも 窺い知ることができる。)寧ろロボットが劇を演じたり、アコーディオンが喘ぎ、声を 発するような今日ようやく、それを相応しい仕方で取り上げる 環境が整いつつあるのではないかという感じがする。その時に透谷の試みと今日において強く共振するものとして、作曲家・メディアアーティストの三輪眞弘さんの試みが浮かび上がってくるように思われるのである。

 内部生命を論じながら、反面で己の内面を牢獄として感じ、 悪鬼が跋扈する幻想に苦しんだ彼のために新しい『言葉の影、 またはアレルヤ』が書かれるべきではないかと、 彼が現実の教会には見出せなかった信仰のための、 ありえたかも知れない信仰の在り方のために『新しい時代』が 書かれるべきではないかと、 「蓬莱曲」の主人公が携える琵琶のための『蝉の声』のような 「逆シミュレーション音楽」が書かれるべきではないかと、 彼の遺した数少ない蝶やみみずの詩を詞とした都々逸を 謡うのは、あるいは素読するのに相応しいのは、自分固有の 声を持った人間ではなくて、MIDIアコーディオンが発する 匿名の声なのではないかと、そのように思えてならない。

 透谷の晩年の評論は、一見すると時代遅れの浪漫主義であったり、西欧の受容の 初期の理解の浅さや誤解といった限界を見せているようでいて、 彼自身が詩人として心の中に見出したものに徹底的に 忠実で、自分の心の無意識の層から湧き出してくるものに 対して誠実であり、時代の潮流の限界を超えて読み直すことが できるもののように思える。

 透谷の主張の大きな特徴は、「観念」の世界を現実の世界とは別の ものであって、人間を、そこにもまた住まうものとして捉えた点、 つまり人間がヴァーチャリティの中で生きている存在であるという ことに対する認識と、通常の理解とは逆に、「自己」というもの、 「主観性」というものが擁護されるべきもの、無意識の領域に 随伴し、社会的なものによって先行的に規定されつつ、自らを 維持し、機能していくことを運命づけられた存在であることの 認識ではなかろうか。

 「万物の声と詩人」での以下のような言葉は、そうした自己の 受動性、被投性の認識に基づくものとして読まれるべきではなかろうか。

「詩人は己れの為に生くるにあらず、己が囲まれる ミステリーの為めに生まれたるなり、その声は 己れの声にあらず、己れを囲める小天地の声なり、 (・・・)渠は神聖なる蓄音器なり」

「無弦の大琴懸けて宇宙の中央にあり」

「万物の声と詩人」

という「万物の声と詩人」 中の言葉は、ピタゴラス派、オルフェウス教から『蝉の法』に 到る系譜の中に位置づけられるだろう。彼は詩人を「蓄音機」に 喩えている点にも注目しよう。また、

「情及び心、一々其軌を異にするが如しと雖、 要するに琴の音色の異なるが如くに異なるのみにして、 宇宙の中心に懸れる大琴の音たるに於ては、均しきなり」

「万物の声と詩人」

とある。ちなみにこの部分、蘭明の論文によれば、六朝の竹林の七賢の一人 である嵆(ケイ) 康(彼は琴の名手だった)の『声無哀楽論』という 音楽論を重要な理論的出発点としているということのようだ。 蘭明の要約を引用すれば「万物自ずから声あれば自ずから また楽調あり」、「造化は奇しき力を以て、万物に自ずから なる声を発せしむ」と、声の自然的性質を明かにし、(…) 「情及び心」に制限を加えるのではなく、「造化の力」に結んで、 その「無限性」を見出そうとする」という論理であると。

(2017.8.10 公開, 2024.6.30 noteにて公開)

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