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堀川波の鼓(2002年2月)

「堀川波の鼓」上の巻 英大夫・嶋大夫 清友・富助 お種:文雀 お藤:紋寿

2/9、堀川波の鼓を観た。
上の巻が面白い。面白いというか、かなり衝撃的だった。
いきなり最初が松風の謡で始まる。三味線は入らない。 姉妹が出てきて、姉が松を夫に見立てて詰めるところを 妹が制止して、というのは完全に能のパロディーで、 これは非常に観ていて楽しい。
しかし、松風との関連で最も印象的であったのは、その後、 独りになって部屋の中で夫を想うところで、視線が外の松を 向くところ。ここは雰囲気的にも能のそれに近く、はっと させられた。

けれども、今回観た限りでは、この巻の要は、実は 女郎花の謡の箇所だと感じられた。
つまり、私にはこの巻は、前半が松風、後半が女郎花を 連想の核として構成されているように思え、特に今回、 女郎花の印象が非常に鮮明であったのだ。

床右衛門にお種が追いまわされるところで、別室にいる 源右衛門が謡うのだが、この部分、嶋大夫さんの謡は 源右衛門が謡うのを演じているのではなくて寧ろ能の地謡に 近く、文雀さんの人形の型も、まるで能の型を観ているようで、 「邪淫の悪鬼」たる床右衛門に追われ、剣の山をお種がのたうち まわっているようでぞっとした。
この謡はあまりに状況を言い得ていて、近松の巧妙さは あきれるばかりだと思う。しかもこの謡の場面を境に、 上の巻の残りは、ある種の地獄の表現になっているように 思える。能、しかも古作の能でしばしばあらわれる地獄に それは非常に近い気がする。古作の能というのは、救済が ない。シテは地獄にとどまるのだが、同じように上の巻も (そして実は作品全体が)カタルシスを得ることなく、 地獄の中に閉じ込められたままのように思えたのだ。

「恋しき人」とはお種にとってまずは夫だろうが、しかし、 それは源右衛門かもしれない。床右衛門が邪淫の悪鬼と 上に書いたが、それはお種のうちにひそんでいるものの 象徴なのであり、お種は夫恋しさに地獄に落ちた砧の 女と姉妹でもあるのではないか? そして(何たる皮肉!)この謡を謡った源右衛門自身が、その 地獄にすぐさま落ちるのだ。文吾さんの人形は、お種と 抱き合ったとき、その事に気がつき慄然としたように見えた。

その後、ひたすら深まる闇の中で話は進んでいく。 お種が夫を想っていたときに、松の向こうにあったであろう月 (これは松風では行平であり、お種にとっては夫であろう。)は 源右衛門を引き止めたときに既に雲の向こうに霞んでいる。そればか りか、お終いには行灯まで、これまた邪淫地獄の住人のような 裸の下女に蹴倒され本当の闇になる。

お種が、外の門を叩く音を聞いたとき、それを父の帰りと 思ったというのは、要するに、良心に責められたことの象徴で あろう。ここの場面、私はマクベスを思い浮かべた。王殺しと 姦通の違いはあるが、その後の闇の中で戸を叩く音を聞き、 おびえる姿は全く同じに思える。 しかし、近松がお種に用意したのは、古作の能のような救いの ない地獄だった。戸を叩いていたのは良心=父ではなく、 何と、邪淫の悪鬼である床右衛門だったのだから。 この場面も鳥肌が立つようなおぞましさだった。

闇の中、裸の下女を追う床右衛門。これはお種の地獄の外化に 他ならないように思える。客席からは笑いも聞こえ、確かに わからなくもないが、しかし私にはそれがグロテスクでおぞましい、 寧ろ中世の地獄絵とかに漂う滑稽さ感じられ、心から笑うことが できなかった。結句は「闇の現ぞ美しや。」である。これは 一体何なのだろう。地獄の美しさ?通小町の深草少将を地獄に とどまらせている美しさ?

なお、この作品で床右衛門という人物は非常に重要に思えた。 まずは床右衛門は、女郎花の謡の「邪淫の悪鬼」である。刀=剣を 持って脅迫する床右衛門、逃げるお種。言い逃れを言ったお種に対し 床右衛門が「この上は阿漕ながら」と言ったとき、すでに 女郎花的な地獄の風景に引きずり込まれていた私には、その言葉から 禁漁を犯し地獄に落ちた漁師の能「阿漕」が連想されて、ぎくりと した。勿論「阿漕」の漁師の執着は、身分違いの恋の果てに、 待賢門院に阿漕の歌をつきつけられた(伝説上の?)西行への 連想とあいまって、恋の執着に否応なく結びつけられている。 そこへ被さるようにして女郎花の謡が重なっていく。
しかし、それだけではない。
床右衛門一見、お種を横恋慕するあまり破滅に追いやる敵役に見えて、 実は登場人物の中に潜む「邪な」部分を暴き立てる機能を果たして いるように思えるのだ。 彼は個人的な欲望に基づいて行動しているだけなのだと 思うが、そのことによって寧ろ、社会が生み出した歪みの 象徴になっているような気がする。 彼だけは確信犯なのだ。後の人間は過ちを犯すお種も源右衛門も、 妻敵討ちをする側も、すべていきあたりばったりに、そう せざるを得ない状況に追い込まれているというのに。

妻敵討ちは、おぞましいばかりでちっとも説得力はなく、 音曲の華やかさとは裏腹に、道行きの結末は後味の悪さが 残るばかりで、寧ろそれが近松の狙いでなかったと思うほど だが、そうした不条理さを暴き立て、白日の下に曝して 告発する機能を担っているのが床右衛門なのではないか?

私の見方はおよそ偏っているのだと思うが、嶋大夫さんの語りと 文雀さんの人形による女郎花の謡の部分の印象があまりに強烈で その後の印象が、まるまるそれに支配されることになったように 思える。

人形では文雀さんのお種、紋寿さんのお藤、そして文吾さんの 源右衛門がよかった。 床は、松風の部分・前半の英さん、女郎花の部分・後半の嶋大夫さん とも素晴らしかった。特に嶋大夫さんは(上述の通り)すごかった。 三味線は富助さんが印象的。 床については道行の床の若手の方々、特に三味線の清太郎さんも 素晴らしかった。

ところでこの外題、何故「波の鼓」なのか? 川・波という連想は自然だし、松風は浜辺が舞台の能だし、 しかし、やはりよく解らない。波の鼓という手組みが あったりするのだろうか?

(2002.2 公開, 2024.9.15 noteにて公開)

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