ヘルムート・ラッヘンマン
恐らく「特殊奏法」と「異化」はラッヘンマンについて語るときに欠かせない「キャッチコピー」なのだろう。ところで、異化というのは文脈を必要とする。文脈を共有できるかどうかは実際のところ程度問題であるのだが、例えば一時期「モード」になったとまで言われた、かの「黄昏の地」における「形而上学の歴史の脱構築」とやらにしてもそうであるように、全く無関係であると言い切ることもまた困難であるにしても、ではそれが自分の喫緊の問題であるかといえば、自分が持つ文脈の頼りなさを思うにつけ、決してそうとはいえない、と言わざるを得ないのが正直なところだろう。ましてや対象領域は自分が専門的・職業的に関わっているわけではない音楽である。
特殊奏法というのも、「普通の奏法」というのがあって特殊が定義されるような捉え方をされる場合には、同じことが言えるだろう。例えば自分が演奏者であるならば、自分が習得してきた楽器の演奏法というのもあるし、それを抜きにしたとしても、指定されたやり方と物理的に格闘せざるを得ないわけで、そこに生じる抵抗というのが実現される音楽と不即不離なものであるというのは確かなことであろうが、現実にはここでは私は単なる享受者に過ぎず、せいぜいが実現された音響の新奇さを追っかけるくらいが関の山である。マーラーの音楽だって、ヴェーベルンの音楽だって、かつては随分と新奇な音響に満ちていたに違いないし、自分もまた、その新奇さに一度は魅了されたに違いないが、そうした新奇さは、異化がそうであるように摩滅してしまう賞味期限つきのものなのだ。
無論、賞味期限つきと割り切った聴き方があっても良いし、とりわけ同時代の音楽であればそれもまた大切なことではあるのだろうが、同時代であれば問題意識が共有できるとは限らない。賞味期限という意味ではとうに切れて、当時の文脈を再現することが覚束ない作品が「古典」として享受されるのは音楽だけに限った話ではない。そして実際のところ、同時代性が担保するかも知れない文脈の共有の頼りなさと比べたとき、そうした「古典」が持つ力の大きさは歴然としているように感じられる。私が同時代のものを積極的に渉猟する気になれないのは、それよりも、たとえ勝手読みでも誤読でも、そこから多くのものを得られる古典が幾らでもあるからだ。個人的な事情になってしまうが、その古典にしても、歴史的なパースペクティブを己のものとするように幅広くとか、あるいは演奏史や享受史を俯瞰できるほど深く、というわけには残念ながらいかない。時間にも能力にも限界がある身であれば、自ずと選択と集中が必要となるのであって、熱心なコンサートゴーアーの方々や膨大なコレクションを作り上げる方々を羨んでみても仕方ないと思うほかない。私にはそれだけのキャパシティがないのである。
そういうわけで、私は永らく、ラッヘンマンの名を知ってはいても、その音楽に接しようとは積極的にはして来なかった。劈頭のキャッチコピーに或る意味では「騙されて」、自分には接点のない、従って、私の様なキャパシティの限られた人間にとって、それに向き合うだけの余裕のない、疎遠な音楽だと思っていたのだ。「特殊奏法」と「異化」が問題にされるような領域というのは、端的に「私の」文脈ではない。私は音楽家ではないし、音楽学者でもない。だからラッヘンマンを聴き、その問題意識を共有し自己のものとして引き受ける作業は、そうした「専門家」に任せておけば良い、とそのように思っていた。例えば三輪眞弘の音楽はそういう意味では例外で、勝手な思い込みと言われようが、主観的に言ってそれは「他人事」ではない。クセナキスの活動のある部分は、世代とその活動の場と、彼の活動の前提をなす環境の、自分のものとの無視しがたい「ずれ」の存在にも関わらず、ある仕方で自分の問題に繋がっていると感じることができる。否、そういう意味では、マーラーやヴェーベルンのような「古典」にすら、そのような契機を見出すことが出来るという、客観的には多分におめでたくも見えるであろう「錯覚」を私は持っていて、それゆえその音楽を聴き続けているのだ。
だが、ラッヘンマンの音楽を聴いたとき、そうした「キャッチコピー」とは別に、それが自分にとっては無視することができない実質を備えた音楽であることに気付いた。単純にいって、素通りしてお終いにするわけにはいかない「ひっかかり」を、その音楽に感じてしまったのだ。その音楽はあまりに直接に私の中に飛び込んできたから、常には行う、作曲家の意図や考え方、活動の背景を詮索する作業が、逆説的にもラッヘンマンの場合には疎かになってしまっているくらいなのだ。私にとってその音楽の持つ美しさ、そして恐らくは伝統的な音楽を下敷きにしているに違いない、堅固で緻密な様式感は、様々な文脈なしに自分を惹きつけて止まないものなのである。
勿論、いつものことで、そうした音楽であればこそ、ラッヘンマンがどのような考えでかくも説得力のある音楽を書いているのかに対して私は無頓着でいることができない。音を聴いて美しければそれでいい、というようには私が思えないのは、別にそれが同時代の音楽だからではない。そもそも私はそのようにしか音楽を聴くことができないし、音楽を聴くことは単なる耳の快楽でも娯楽や暇潰しでもありえない。そうしたバラストが、ある人にとって、とりわけもしかしたら作曲家その人にとってさえ鬱陶しく思われるものだとしても、自分にはそのようにしか音楽と向き合うことができないのだ。そして、少しばかりだが調べてみれば、ラッヘンマンは自分の問題意識や方法論を極めて明確に定義し、言語化し、そしてそれでいてコンセプトに溺れる事無く、豊かな音楽を産み出すことができる稀有な存在であることがわかってきた。そしてその問題意識が、件のキャッチコピーから想像されるような著しく文脈依存性の強い、私にとっては控えめに言っても周縁的なものではなく、音楽という営みを意識や自我、そして実存といったものとの関わりで捉えている、自分にとっては親近感を感じることができる存在であることがわかってきた。
恐らくは現代音楽を専門とする音楽学者や、あるいは現代音楽に詳しい評論家、あるいはそれに伍することができるような深い知識と幅広い聴経験を持つ聴き手にとっては、そしてまた、私のように遅ればせにラッヘンマンを「発見」したのではなく、ずっとその活動をリアルタイムでウオッチしてきたような方にとっては、私の捉え方はラッヘンマンの道程をありのままに捉えたものではなく、寧ろ近年の彼が立っている位置からの展望によってようやく可能になったような、それ自体が時代やラッヘンマンの活動の変遷の一部分に拘束された偏狭で一面的な見方だという判定を下すような類のものなのではないかとも思う。だがそれに対して私は抗弁しようとは思わない。私にとって重要なのは、些かの勝手な自分の思い込みつきでその音楽を受け止めることができそうなことがわかってきたということで、私のような聴き手にとっては、それだけでも十分なのだ。私の狭く限られたキャパシティのために、私が誠実にその営みに向きあうことができそうな作曲家の数は本当に限定されたものになってしまうのだが、かくしてラッヘンマンは、不十分さは承知の上で、それでも向き合っていかざるをえない数少ない作曲家の一人になったのである。
そういう意味でラッヘンマンの音楽は、私にとっては自分の思いや気持ちをぶつけ、自分の問題意識を突き合わせることができる「古典」、自分にとって欠かすことのできない存在なのだ。
(2006.10/2008.2, 2024.7.5 noteにて公開)
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