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語録:妻のアルマ宛1909年6月27日(20日?)付書簡にある「エンテレケイア」に関するマーラーの言葉

妻のアルマ宛1909年6月27日(20日?)付書簡にある「エンテレケイア」に関するマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1940年版原書p.441, 白水社版酒田健一訳p.398)

(...) Der Mensch - und alle Wesen wahrscheinlich - sind unaufhörlich productive.
Auf allen Stufen geschieht dies unzertrennlich vom Wesen des Lebens : wenn die Productionskraft versiegt, so stirbt die "Entelechie" d. h., sie muß einen Leib erhalten. Auf jener Stufe, auf der sich höhere Menschen befinden, wird die Production ( die in Form von Reproduction den Meisten natürlich ist ) von einem Akt des Selbstbewußtseins begleitet: und dadurch einerseits gesteigert, andererseits als Forderung an das sittliche Wesen aufgestellt. Dies ist dann eben die Quelle aller Beunruhigung solcher Menschen. Abgesehen von den kurzen Momenten im Leben des Genies, wo diese Forderungen sich erfüllen, sind es die langen, unausgefüllten Strecken des Daseins, die dem Bewußtsein solche Prüfungen und unerfüllbare Sehnsuchten auferlegen. Und eben dieses unaufhörliche und wahrhaft schmerzvolle Streben verleiht dem Leben dieser Wenigen das Gepräge. (...)

(…)人間は―そしてたぶんどんな生物も―たえずなにかを生み出してゆくものだ。このことは進化のあらゆる段階にわたって生命の本質と切り離しては考えられない。生産力が尽きると、『エンテレケイア』は死滅する。すなわちそれは新しい肉体を獲得しなければならない。高度に進化した人間の位置するあの段階では生産(大部分の人間には再生産のかたちでそなわっているが)には自覚の働きがつきまとっていて、そのため一面において創造力は高められるが、その反面、道徳的秩序にたいする”挑戦”として発現する。これこそ創造的人間のあらゆる”煩悶”の源泉にほかならない。天才の生涯にあっては、こうした挑戦が報いられるわずかな時間をのぞいて、あとは満たされることのない長い生存の空白が、彼の意識に苦しい試練といやされぬ憧憬を負わせる。そしてまさにこの苦悩に満ちた不断の闘争がこれら少数の人間の生涯にそのしるしを打刻するのだ。(…)

マーラーがアリストテレスの「エンテレケイア」に由来する「エンテレキー」について言及していることはブルノ・ヴァルターもマーラーに関する回想録において証言している ところだが、マーラー自身の言葉としても、自分の思いを腹蔵なく述べていると想像されるアルマ宛の書簡の中においてそれを確認することができる。おそらく最も 有名なのは第8交響曲の第2部で用いられたゲーテの「ファウスト」第2部の終幕の場の最後の「神秘の合唱」の解釈を述べた書簡におけるそれだろう。 ただしそこではゲーテの「ファウスト」の解釈において用いられているのに対し、同じ時期に書かれた上掲の書簡においては、より一般的な仕方で自分の考えを 述べる際に用いられており、私見ではこちらの方が一層興味深い。

マーラーは恐らくは愛読していたゲーテの自然科学・自然哲学的な著作におけるそれを念頭に「エンテレキー」という言葉を用いていると思われるが、 それはまさに同時代の最新理論であったに違いない、ドリーシュの「新生気論」におけるそれでもあったのではなかろうか。当時における生気論と機械論の対立は、 フォン・ベルタランフィをはじめとするシステム論的な発想によってその後乗り越えられており、ドリーシュの「エンテレキー」は「フロギストン」や「エーテル」同様、 既に不要となった概念といえるだろうが、それはまさに「エンテレキー」によってしか説明できないと当時考えられていた「目標をめがけている」かのごとき生命現象を 「等結果性」(Äquifinalität)の概念を開放系の理論によって説明することによってであった。フォン・ベルタランフィが解析して示したように、閉鎖系は等結果的に 振舞うことはできない。逆に定常状態に向かう開放系においては等結果性は必然的な帰結なのである。

「エンテレキー」は別の説明原理によって置き換えられたとはいえ、ここでマーラーが述べている言葉が、その志向において、後年、フォン・ベルタランフィが語る 言葉との驚くべき一致を示しているのを確認するのは極めて印象的である。そもそもフォン・ベルタランフィは1901年にウィーンに生まれた人だから、彼の幼年時代には マーラーはまだ生きていたという事実を考えれば自然と納得がいくことではあるが、フォン・ベルタランフィの Das biologishce Weltbild I - Die Stellung des Lebens in Natur und Wissenschaft (1949)(邦訳:「生命-有機体論の考察」みすず書房)では、 各章の冒頭の銘としてゲーテが毎度参照され、全巻の棹尾を飾るのは「ファウスト」の引用であり、半世紀を経て今や半ば常識として受容されている発想が、 マーラーの作品の背景を為す世界観に淵源を共有していることを確認することができる。

Robots, Men and Minds - Psychology in the modern world (1967)(邦訳:「人間とロボット-現代社会での心理学」みすず書房)でも General System Theory - Foundation, Development, Applications (1968)(邦訳:「一般システム理論 - その基礎・発展・応用」みすず書房) でも繰り返しフォン・ベルタランフィが強調していることは、動的に定常状態を維持する開放システムである生物は、閉鎖系におけるような平衡状態へ向かう ホメオスタシス機構では十分に説明が行えないということである。外部条件が一定不変でも、外部刺激がないときでも、生物体は受動的ではなく、 基本的に能動的であることである。動的に定常状態を維持するためには、熱力学的な平衡状態からは離れた状態を維持し続けなくてはならない。 常に外部からエネルギーを獲て、(再)生産を続けなければならないのだ。そして非平衡状態を保持することにより、自発的活動や解発刺激に対する 反応の際に、蓄積したポテンシャルを消費することができるのであるし、更には分化と分節、階層秩序の増加による、無秩序とは異なった、しかし単純な パターンの反復による秩序ともまた異なった複雑性を備えた一層高次の秩序や組織化に向かうことも可能になるのである。 自律的な活動が行動のもっとも基本的な形態であり、まさにマーラーが書いているとおり、「人間は―そしてたぶんどんな生物も―たえずなにかを 生み出してゆくもの」なのだ。

更に、これもまたフォン・ベルタランフィが強調することであるが、シンボルの世界を構築するようになった人間は生物的価値とは異なった価値を持っていて、 それはしばしば生物的価値と対立することもある。自己実現や創造行為は、緊張の緩和とか欲求の満足といった言い方が暗黙裡に前提としている 図式では説明できないのであって、それらを適応とか生存のための効用のみに還元してしまうことは行き過ぎの危険が伴う。既に知覚主体は単なる刺激の 受容者ではなく、その中を行動しつつ能動的に「世界を構築する」存在である。シンボルのレベルにおいても同型性が成り立つとしても不思議はあるまい。 ここでマーラーが第3交響曲の創作の折に述べたと伝えられる言葉を思い浮かべても良いだろう。

ここで私が感じることは、こうしたマーラーの言葉によって証言されるマーラーの考え方が、マーラーの遺した作品の実質に見事に見合っていることである。 一般には必ずしも作者の意図が作品の質を担保することはない。だがマーラーの言葉というのは、今日なお話題になる標題が端的に物語るように、いわば 事後的な反省、自分が生み出してしまったものについてのコメントのようなもので、創造行為に先立つわけでもないし、ましてやそれが創造のプロセスの 一部であるわけではない。意図とその実現としての作品といった単純な図式で捉えられるようなものではないのだ。しばしば或る種の理念なりコンセプトなりを ある素材によって定着するという意図的、意識的な行為をもって創作とする立場があり、多くの場合それは貧困に陥るようだが、意識される部分というのが 人間の営みの全体のほんの一部に過ぎないことを考えれば、そうした遠近法的な錯誤に基づく試みが失敗するのは当然であろう。 マーラーは自分の創作のプロセスに対して随分と自覚的であったようだし、自分が何をしているのかについてもわかっていたようだが、それだけに一層、 自分が産み出したものが簡単に分析したり説明したりできないものであることを、単に感覚的な違和感としてだけではなく把握していたのだと思われる。 マーラーが楽曲分析の類に概ね懐疑的であったとされるのも、そうした事情が与っているに違いない。

それでは今日、マーラーの音楽を語る言葉は用意されているといえるだろうか?フォン・ベルタランフィの一般システム理論の提唱はもう半世紀も前のことであり、 システム理論はその後、色々な分野で様々に分化しつつ進展を見たとはいいながら、それは未だ発展途上にあるというべきであろう。そうした中で、 シンボルの世界に属する音楽作品のような存在、しかもそれ自体が有機的で自己組織的な存在であるかに見えるマーラーの音楽のような作品を 的確に記述するための語彙(それは自然言語であるとは限らず、必要に応じて数式や図式を援用することになるのであろう)、カテゴリは未だ 整備されていないのではなかろうか。これまた半世紀前にほぼ唯一、アドルノがその課題に、それなりの自覚と自負をもって取り組み、 それはマーラーの音楽の理解にとってブレイクスルーをもたらした。だが、アドルノの用いたカテゴリは、マーラーの音楽の特性の一部を闡明するのに 大きな成果があったとはいえ、有機体としてのマーラーの音楽を説明するには不充分ではないだろうか。

そして問題はそこに留まらない。実は上記の引用箇所の直後では、「作品」についての見解が述べられ、それは「かりそめの姿、 滅ぶべき部分にすぎない」のであり、肉体同様、「抜け殻」に過ぎないものだとされる。今日マーラーが残した「作品」を受け取る人間は、この言葉を どう捉えたら良いだろうか。楽曲分析の類、標題解説の類が捉えることができるレベルでの「作品」とすれば不思議はないが、まず間違いなく、ここでは そうしたレベルのことが語られているのはなかろう。恐らくは、マーラーがいわゆる「霊魂」の不滅を信じていたということを背景にしてこの言葉を読むべきで あるということはまず押えておくべきだろうが、更にその上で、一世紀の後、「作品」を通じてマーラーを知る人間は、マーラーが当時の文化的・思想的な 文脈の制約の下で書きとめた言葉を、マーラーの「作品」を通じて自己が受け取ったものを裏切ることなく、今日までに手にしたカテゴリを用いて 語り直すべきなのではなかろうか。それは一見したところマーラーが遺した言葉と矛盾するような言い方になるかも知れないが、それでもなお「作品」において 「かりそめの姿、滅ぶべき部分にすぎない」ものは何であって、それを超えて永続するものは何であるかを突き止めることは、マーラーを聴く者が答えるべく 課された問いであり、応答するのは或る種の義務であるように感じられるのである。たとえその応答自体もまた「かりそめの姿、滅ぶべき部分にすぎない」 としても。

(2013.1.27 公開, 2024.7.8 noteにて公開)

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