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ハゲマス会「第20回狂言の会」を観て

「三番三」山本則俊・山本凛太郎・笛 松田弘之・小鼓 住駒充彦、森貴史、曽和伊喜夫・大鼓 佃良勝
「しびり」山本泰太郎・山本則孝
「唐相撲」山本則秀・山本則重・山本東次郎他・笛 松田弘之・小鼓 住駒充彦・大鼓 佃良勝
2019年1月20日(日)川崎市麻生文化センター

1年あけて2017年の第19回に引き続き「ハゲマス会」の公演を拝見した。今年もまた天気にも恵まれ、行き帰りとも徒歩で会場との間を行き来する。前回も書いたことだが、1年が経つのはあっという間でも正月の日々の歩みは遅々としたものに感じられ、今回は例年に比べて早めの下旬初めの開催にも関わらず、年明けが遥か彼方のことのようにさえ思われる。だが、この会に足を運ぶ と、改めて年が明けたのだという実感が改めて湧いてくるのは、一つには私が舞台を拝見に足を運ぶ機会が限られているからに過ぎないのだが、結果として季節の巡りと催しが分ち難く結びついているのは、それでも都合がつく限りは毎回拝見させて頂いていからに違いない。思い起こせば最初に足を運んだのは第7回の2004年のことだから、もう15年が経過していることになる。実はこの時は例外的に5月の公演であったのだが、この感想を書くまでそのことは全く失念していて、正月の行事になっていることを実感する。かてて加えて今回は20回目の記念の会、更にはご自身の喜寿を記念されて則俊さんが「三番三」を舞われるということもあり、より一層改めて年の初めの区切りを確認する感覚が強い。

則俊さんの「三番三」を拝見するのは二度目、前回もハゲマス会で、6年前の2013年、その折は第15回に古希の記念に舞われたのだった。囃子方は 松田弘之さんの笛、鵜澤洋太郎さん、古賀裕己さん、飯富孔明さんの小鼓、佃良勝さんの大鼓であったから、笛と大鼓は今回も同じ。それ以外に実演に接したのは「翁」の一部として二度だけなので、こうして同じ演者による再演に接することが出来ることは本当に有難いことだと感じられる。更に言えば、松田さんは私が最初に「翁」を拝見した時に笛を吹かれているし、佃さんは、私が能楽堂に繰り返し足を運ぶきっかけなった川崎能楽堂の「阿漕」以来(ちなみにいずれもシテは香川靖嗣さん)で、この15年くらいの間にお二方の名演に何度も接しているだけに、節目となるこの機会に聴かせて頂くのは一層感慨深いものがある。

「三番三」は私にとっては儀礼なので、その演技について述べるようなことは基本的にはないのだが、松田さんの最初の笛の一閃から最後まで、澄み切って、力感に溢れ、それでいて自在で、仮設の舞台に、果てしなく広大な空間が出現して、その空間そのものが生き物のように刻む脈動に引き込まれるような圧倒的な経験であった。とりわけ今回は籾の段の、貯められた力がぶつかり合って上に向けて解放されるエネルギーの凄まじさと、鈴の段の麗々しい軽やかさの対比が一際鮮やかに感じられ、「翁」が千歳の舞に先立たれるように、「三番三」もまた、面をつけない籾の段と黒式尉による鈴の段は起源においては別の舞手の交替による舞ではなかったかということをふと思ってみたりもした。

「三番三」というのは何も狂言に限られるわけではなく、例えば文楽のように人形によって演じられたりもするし、民俗芸能のようなかたちであちこちに残されていると聞く。元々の形態がどうであったかとか、どれがそのオリジナルの形態を留めているとかいった点については詳らかにしないが、今回改めて拝見して感じたのは、恐らくはそうした様々な上演形態の中で最も洗練され、格式あるものであろう山本家の上演の裡にこそ、その原初に備わっていた呪的な力が純粋に、強烈に感じ取れるのではないかということであった。芸術ではない祭祀ということになれば、正確に間違いなく演じることは大切であっても、上手下手は問題にすべきではないのであろうが、それでもなお、その上演に対する姿勢、心の持ち様といったものは上演に紛うことなく刻印されるし、見所にはそれが直接に伝わってくる。道元の禅には修証一等という言葉があるそうだが、思わずその言葉が思い浮かぶ。何かを表現するとかといった恣意を超え、無心に演ずることそのものの裡に出現するものを受け取るべく、見所もまた無心となる、得難い経験をさせて頂いたように感じる。喜寿を迎えられる則俊さんにはますますお元気で、舞台を勤められることをお祈りせずにはいられない。こちらも一番一番、大切に拝見しないとならないという気持ちを新たにした上演であった。

休憩の後は、こちらは狂言らしい狂言である「しびり」が演じられる。仮病を装う泰太郎さんの太郎冠者と、それに気付いて遠回しに窘める則孝さんの主人の心の動きは、ここでも型によって鮮明に表れる。思えば不思議なことだが、恐らくは写実的に痛いふりをしても、これほどのおかしみは出てこないのではないか。硬さも取れ、呼吸にゆとりも出来て、泰太郎さん則孝さんの持ち味のようなものが曲調にマッチして、おかしみという点で出色の舞台となったように感じられた。

番組の掉尾を飾るのは、長さも一時間に及べば、舞台に登場する人間も、皇帝役の則秀さん・相撲取りの日本人役の則重さんに遁辞の東次郎の御三方を除いても20名を超し、更に囃子が付くという大曲「唐相撲」。これも第12回で拝見しているから二度目となる。今回は記念の会ということで取り上げられたのであろうが、どちらかといえば余分なものを削ぎ落としていく行き方をとる山本家が、このような狂言らしからぬ過剰さを備えた作品をも大切にされ、折りにふれ上演されるのは意外な感じもする。だがしかし流石と言うべきか、以前拝見した時も感じたように、その結果は、やや冗長の感を免れない作品を緊張を切らすことなく演じ切り、みおおせてしまう、絶妙な均衡の感覚である。

それとともに今回思い浮かべたのは、作品の設定とは向きが逆になるが、外国人の横綱がすっかり定着してしまった近年の相撲のことであったり、これまた近年の事だが、インバウンド需要の急激な拡大により都心ではすっかり定着してしまった感のある、外国人が街角に溢れる光景であったりした。我々はそうしたことを短期的な変化として感じるのだが、実際には外国との交流は昔から当たり前のことだったに違いないし、更に遡って、そもそもが日本に固有と思われるものも、元は外国から摂取したものであったり、何重にも重なる基層の上に外から加わった異質なものが時を経て基層の一部となったものに過ぎなかったりするのであるのだが、そうしたことを思いおこさせるという点では、誠に時宜に適った上演であるようにも感じられた。

最後になったが、2年前の前回までは開会の挨拶に立たれていた森宮先生の姿がなく、宮川さんが代表としてご挨拶をされていて、そのことが今回最大の驚きであったかも知れない。職業としてではなく、別に専門の職をこなしつつ、その傍らでこのような催しを継続して運営することがどんなに大変なことか、近年とみに痛切に感じられてならない。都合がつく限りは今後も引き続き拝見しようと思いつつ、主催者の方々、後援者の方々、山本家の方々への謝意を記して、この感想の結びとしたい。

(2019.1.27公開, 2024.6.26 noteにて公開)

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