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マーラーの音楽の「非論理性」について

マーラーの音楽について語るとき、「古典的」な音楽からの逸脱としてその特徴を捉えるやり方はいわゆる「常套手段」の一つのようだ。 それはすでにマーラーの同時代におけるその音楽に対するコメントに見られるし、そうした捉え方が特定の価値判断と結びついている わけでもない。例えば有名なアドルノのマーラー論は、単純化していえばマーラーの「逸脱」に批判的な機能を見出すことによって その音楽の意義を測ろうとする試みである。楽曲分析のような水準でも、分析の道具立ての事情もあってか、やはり規範的な ソナタ形式などの図式を基準点として、そこからの偏倚を測ろうとするアプローチが採られることが多い。 とりわけ最後に述べた楽式論のような水準では、マーラー自身が実際に古典的な図式を参照していたことは間違いのないこと なのだろうし、そうであってみれば、「古典的」な音楽からの逸脱としてその特徴を捉えるやり方はマーラー自身の姿勢によっても その正当性の裏づけを持っているのだ、というように考えられもしよう。つまりそれは、言い方の問題である以前に、端的な現実なのだと 言ってもいいのかも知れない。

だがその一方で、そうした差分法的なアプローチと一緒に、その音楽が「変な音楽」であるとか「非論理的な音楽」であるとか いうような形容をされるようになると、現実の自分の受容のありようと比較した上で、些かの蟠りのようなものを感じずにはいられない のが正直な感覚なのだ。勿論直ちに、それらの形容は基準となる古典的な音楽との比較では、という限定つきで読まれるべき なのだ、という反論が考えられ、そしてそうであれば別にひっかかりを感じるようなことではないのかも知れないとは思いつつも、 だからといって蟠りが直ちに解消されるかといえば、決してそういうことはないのである。優れた多くマーラー論や、日本人によるマーラー 文献としては恐らく最も充実したものの一つである「事典」を執筆するとともに、H.A.リーの「異邦人マーラー」といった特色ある優れた 研究の翻訳もされている渡辺裕さんの「文化史のなかのマーラー」の「音楽の「論理」の解体」と題された文章を久しぶりに 再読して、そうした違和感が一層はっきりとしたかたちをとるのを感じずにはいられなかった。

渡辺さんの視点は、後書きにも記されているように歴史的なパースペクティブに関して幾つもの水準で頗る意識的なもので、 マーラーを論じる水準で伝統的な「人と作品」というスタイル自体の歴史性を踏まえ、そこでは暗黙裡に自律主義的な美学が 前提されていることを意識した上で、マーラーの音楽が生まれた環境、それが享受されてきた環境、そして今日の環境と音楽との 関わりを問い直す方向性にたったもので、「文化史のなかのマーラー」も(丁度私のような)一般向けに書かれたものでありながら、 周到な調査に裏付けられた興味深い内容を含んでいる。上述の「音楽の「論理」の解体」という文章の表題についても、 まずもって「論理」という言葉が括弧付きで用いられていることを見れば、そこでいう論理が或る文脈に限定されたものであることが当然のこととして想定されているのは明らかなのである。要するにそれは伝統的な図式を前提とした限りでの論理で、例えば アドルノが自身の素材的形式論で想定しているような内的な論理のことを指しているのではないだろう。そしてそれは本文を 読めば確認できることでもある。

従ってここで述べたいのは、そうした渡辺さんの議論に対する批判ではなく、寧ろ、その議論を追うことで自覚される私個人の マーラーの聴き方、ひいてはマーラー以外の音楽(といっても、Webページで言及している十数人の作曲家以外の音楽は ほとんど聴かないのだが)の聴き方の「非論理性」、「変さ加減」なのかも知れない。要するに私にとっては、マーラーの音楽は 30年近く前に最初に出会った時から、全く自然で抵抗感のないものであったし、そこに(それが、アドルノや渡辺さんのような 識者の言うものと同じものである保証は全くないけれど)或る種の論理性なり形式感なりを見出してきた。あくまでも私個人に 限っては、その実質は渡辺さんが比較のために掲げたサティやアルカンとは単純に併置できるようなものではなく、マーラーを 聴くことは、主観的には「何かヘンな経験」などでは全くなかったし、今でもないのである。 (そのかわり、マニャールやフランツ・シュミットなど、恐らく彼らよりも更に一層注目されることの少ない作曲家、しかも「変さ加減」 によって人の興味を惹く事については更に一層期待薄な作曲家に或る種の「近さ」を感じずにはいられないのであるが。) その一方で「現代的」なたたずまいという点でも私の遠近感はどうやら狂っているらしく、勿論、マーラーの音楽が同時代の 音楽でないことは明らかではあるけれど、その一方で単純により時代が近い音楽が、あるいは同時代の音楽が、 私にとって身近なものに感じられるわけではない。少なくとも私にとっては、マーラーの音楽の論理性や形式感は 単純な歴史的な遠近感で測ることができるものではなさそうなのだ。別のところにも書いたように、100年も前の異郷の地に 生きた、気質も能力も環境も異なる人間が一体自分に何の関係があるのだ、という疑念は、無心にその音楽と人に熱中した 30年前はともかく、今となってはさすがの私にも生じてはいるが、それでもなおその音楽の持つ力は圧倒的で例外的なものなのだ。

もしもマーラーの音楽の特質が、いわゆるSecondary Parameterと呼ばれる、古典的な図式では捨象されてしまった側面の 復権にあるというのであれば、そうした側面を徹底して追求して見せた例えばヴェーベルンやシェーンベルクのような音楽が 未だに多くの人に敬遠されているのは何故なのだろう。否、そもそも同時代性については自明で、問題意識や環境を 共有することが容易に思える「現代音楽」が一見したところ疎外されているようにさえ見えるのは何故なのか。それらが周辺的な 現象で、進化論的にはじきに淘汰されてしまうような行き止まりだからと言って片付けてしまうのは早計であろう。 何よりマーラーの音楽はその音楽が作曲された同時代にはやはり疎外されたのではなかったか。ミームとしてのマーラーが同時代の批評の意地悪な予想を覆して、皮肉にもそうした批評よりも遙かに長寿の存在となったことは紛れもない事実ではないか。

己の音楽を未来に託したと解釈されているらしいマーラー自身の発言は、実際には妻宛の手紙に書かれた単なる強がりでは なかったかと私は考えているが、彼自身の意図と期待とは恐らく無関係に、彼の音楽のある部分は少なくとも100年後の 異郷の平凡な一人の子供にとっては自己の存在の様態を規定するような決定的な意味合いを持つこととなった。 有形のリソースについて言えば僅か70枚程度のCDと辛うじて主要作品を網羅する程度の楽譜、そしてやっと100冊を超える程度の文献程度のものではあっても、本人にとっては最大のものだし、その価値が無に等しいもので、ミームとしての運命について言えば 期待できるものはないとはいえ、ファイルサイズにして唯一1Mbyteを超える量のドキュメントを公開している対象、その生涯の主要なアネクドットはほぼ記憶し、その作品についてもかなりの範囲を記憶している唯一の対象であるという事実は残る。 (奇妙なことにその程度は、親や兄弟を含めた自分の周辺の人物を遙かに上回っていることを彼は認めざるを得ない。確かに彼はマーラーに直接会ったことはないけれど、ある意味では、同時代の誰よりもマーラーのことを良く知っているとさえ言えるかも 知れないのだ。)

ソナタ形式が近代的な時間意識のありように対応したものであったかの判断は少なくとも私には困難である。 そうした主張は渡辺さんだけではなく、例えばグリーンのように具体的にマーラーの幾つかの交響曲の分析を上梓した研究者も行っているようだが、 私見ではそれはマーラーの音楽を聴取したり、分析したりした結果というよりは、寧ろ予断の類のように感じられる。否、具体的な楽曲の分析に ついてはほぼ異論の余地がなさそうなアドルノの主張ですら、その社会批判的な側面については、それが音楽から出たものではなく、 外から音楽に押し付けられたものであるという印象を拭い難いのである。マーラーの音楽が、彼の生きた時代の環境を反映 しているのは間違いのないことだし、マーラーも含め、意識は孤立した自律的な存在ではなく、それが属する社会的な環境に 何重にも規定された存在であることに異論があるわけではない。いわゆる「個性」と呼ばれているものすら、そのうちの幾分かは 社会的なものの反映に違いないのである。また、いわゆる「伝統的な形式」なるものがどのように作曲をする個人なり音楽を 享受する個人に到来し、どのような力を及ぼすのかを考えれば、それは社会的な存在であることは確かなことだ。 だがそれは認めた上で、合理性・合目的性、直線的な時間進行、進歩的な歴史観を一方と結びつけ、ある作品なり作曲家なりを それから逸脱した存在であるという図式の個別的な適用をマーラーに対して行うことには違和感を感ぜずにはいられない。 ここでは歴史的な視点が明確であるとはいえ、そうした論法自体は結局のところ、例えばマーラーを否定した同時代の批評のそれと 変わるところがないように感じられる。こうした反応そのものが渡辺さんから見れば、ポストモダン的な聴取を無自覚に行うことにより 時代というものを結局のところ反映していることの証拠になるのかも知れないが、自己の聴体験に忠実な言い方をすれば、 寧ろマーラーの音楽の論理なり形式なりに違和感を感じるような聴取のあり方というのが私にはできないのである。私にとっては事情は 逆で、寧ろここでは「伝統」の側に分類されている音楽を聴くことがどんどん困難になってきているのを感じるほどなのだ。勿論それは そうした音楽が非論理的で非形式的だということではなく、あえて言えばそうした形式そのものが、もしかしたらそこに含まれている何かを私が受容することを反って妨げているような気さえするのである。もっとも、そうした何かが本当にそこにあるのか自体を懐疑してみることもできるだろう。いずれにしても私には能力的にも時間的にもキャパシティが不足していて、もうそうした問題を考えることすら自分には 許されていないように感じられてならない。マーラー一人ですら手におえかねている、そしてそうした感じは歳をとるごとに寧ろ強まっていて、 Webページで取り上げている十数人の作曲家に対して等しく対峙することが不可能なことは最早明らかで、辛うじて視界の縁に 入れておくのが精一杯のところなのだから、自分にとって疎遠なものについて考えているゆとりなどあるはずがないのだ。

その一方で、マーラーに対するそうした受け止め方が所謂時代の遠近法に忠実であるわけでもないことについては既に触れたとおりである。Webで言及している顔ぶれを一瞥すれば明らかな通り、マーラー以降の音楽に対する親近感は寧ろ先細りで、「現代音楽」に共感しているわけではないし、同時代性は私にとってごく稀な例外を除けばそうした距離感とは無関係であって、従って一般的な意味合いでの相関はない。そしてそれは狭義の「現代音楽」というジャンルが抱えている聴取の疎外といったような問題に由来しているわけではない。一般的な「現代音楽」の動向にも興味はないけれど、能楽や義太夫節といった日本の伝統音楽以外には他のジャンルの音楽を聴くことも全くないから、そういう観点では寧ろ私は同時代のものとしては「現代音楽」に分類されるほんの数人の作曲家の音楽を除けば、積極的に聴く意欲を全く感じないのである。

つまり歴史的なパースペクティブ自体、自分の聴取の傾向を裏切ってしまっているのだ。だいたいマーラーが流行しているかどうかとか、 マーラーの今日における意義のような一般的な視点には私は全く興味がないし、マーラーが「新しい」かどうかという論点自体、 私にはどうでもいいことなのだ。それならば渡辺さんのようなアプローチについて言及すること自体とんだ見当違いということに なるのかも知れないが、一方でかくも自然で違和感のないマーラーが過去の異郷の音楽であり、その人が自分とは幾重もの 意味合いでほとんど接点のない生き方をしたのも確かなことであり、その音楽が同時代の産物として受け止められるとは さすがに感じていない。自分が惹き付けられた音楽を完全に歴史的な視点に還元することには抵抗を感じる一方で、 音楽を単純に時代と文化を超えた普遍的なものであるなどと思い込むのもまた、到底できようはずがない。それゆえ距離感を測り、 自分にとってより適切な立ち位置を確認する上で、渡辺さんのような視点がまたとない重要な視点を与えてくれるのは確かなことに思えるのである。

それではマーラーの音楽を伝統からの逸脱といったそれ自体依然として歴史的な視点からではなく語ることはいかにして可能なのだろうか。 例えば第1交響曲の第1楽章、最終的にはマーラー自身がソナタ形式でいう提示部に相当する部分に繰り返しを指定することで マーラー自身がソナタ形式を下敷きにしていることは明らかであるにも関わらず、ソナタとして聴こうとすれば長すぎる序奏や 極端に圧縮された再現部といったバランスの悪さや、その再現部の手前にあるアドルノの言う「突破」の瞬間により、聞こえてくる音楽の 脈絡が図式を裏切っているように受け止められるといった事態を別の仕方で語ることは可能なのだろうか。 それは可能でなくてはならない。私がこの音楽を聴く時、バランスの観点からその序奏を長すぎると感じたことはないし、再現部の 圧縮に不均衡を感じたこともない。確かに「突破」は独特の強い印象をもたらすが、それが音楽を聴く時に妨げになることなどない。 マーラーの音楽がすっかり普及した近年では、寧ろこの曲はマーラーの熱心な聴き手からは距離感をもたれている感じすらあるが、 私にとっては最初にマーラーと出遭ったこの音楽が疎遠になることはないようだ。勿論30年前との間に聴き方の変化がないといえば嘘になるが、 少なくとも上記のような図式からの逸脱という視点から、その音楽に否定的な判断を下したり、逆にその点をもってこの音楽に意義を見出したり、 という聴き方は私にはとうとう無縁なままになりそうに思えてきた。私にとってマーラーの音楽はそうした知的な聴き方とは無縁のところで 強い魅力を持っているようなのである。

別の言い方を見出すことが私に出来たわけでもないし、いつか出来る見込みがあるわけでもない。そしてアドルノの内容形式論的な 意味あいでの論理なり形式なりが、その別の言い方と違ったものなのかも判然としない。実際、アドルノの指摘は音楽の具体的な実質に 関わる部分では納得できる、つまり自分の聴経験を裏切らないものも多いのである。一方で、他の作曲家と比べた場合にマーラーについての 際立った特徴を為すと思われる精神分析的なアプローチは、その具体的な個別の解釈を受け入れることは大抵の場合困難に思えても、 村井さんの言う「夢の論理」がマーラーの音楽の独特の論理なり形式なりにとって重要な意味合いを持っているという指摘の方は抵抗感がなく、「夢の論理」がくだんの「別の言い方」にとっての有力な手がかりになるのは確かに思える。少なくとも狭義の精神分析よりも 範囲を広めに考えれば、精神療法や心理学などの知見は、マーラーの音楽の独自性に迫るのに欠かせないように思える。その一方で「夢の論理」をもって 「意識の流れ」に置き換えることが可能になるとも思わない。そもそも「意識の流れ」においては意識は常に能動的なものとして捉えられている わけではないから、それが「夢の論理」に従うこともありえるだろうし、その一方で意識の働きを全く否定してしまうのはそれはそれで マーラーの音楽に限れば極論であると思える。他方において「意識」の能動的な働きを、伝統的な意味合いでの作品の構造や形式と短絡させるのは 既に述べたとおりあまりにも粗雑な見方だと思う。伝統的な意味合いでの作品の構造や形式は寧ろ、作品を編み上げる際の素材に近いのだ。 更に言えば、作品を編み上げる作業は、身体化された高度な技能の習得を前提としつつ、それ自体極めて自覚的で知的な側面を含んでいる。 霊感にまかせて一気に音楽を書き上げる天才のイメージによってそうした技能の習得と知的な作業の両方の側面を等閑視するのはあまりに現実から 乖離した聴き手の空想に過ぎない。ここでもアドルノの「小説」を書く作業とのアナロジーは、意識・無意識の全ての動員した極めて複雑な処理である 音楽作品の制作をあまりに単純化して考えることなく、マーラーの音楽の独自性を言い当てている点で説得力のある見方だと思う。 同様に楽曲分析における、二次的なパラメータの機能のマーラーの作品における重要性の指摘そのものは、別の言い方をするための重要でかつ 基本的な出発点に違いない。マーラーの音楽について「空間性」への言及が多いこともまた、それが比喩に過ぎないのかどうかよりも、仮にそれを 比喩と見做すなら見做すで、二次的なパラメータの重視がそのような比喩を可能にするのかとか、マーラー自身の空間的な比喩の使用や、これまた 際立って特徴的な歌詞の扱いとの関係の問題、こちらは比喩ではない作品演奏上の空間の利用とどのような関係にあるかの様相を 具体的に確認していくことの方がより興味深いのではないか。

結局のところ渡辺さんの言う括弧付きの「論理」に限って言えば、マーラーの音楽が非論理的であるという言い方に間違いがあるわけではない。 けれども、それを非論理的と形容してしまった瞬間に、視点に2つの拘束を抱え込んでしまうように思えてならないというのが、最初に述べた私の 蟠りの原因なのだろう。その2つとは、一方では展望は逆転し、更には自律美学の制約から自由に、社会的な環境と音楽との関係を視野に 含めたとしても、結局は歴史的な視点の裡にその音楽の独自性を還元してしまい、同時代の他の音楽ではなく、他ならぬマーラーの音楽が 持っている特質を見失ってしまう危険を冒すという制約であり、もう一方で、その音楽の持つ独自の論理(それを渡辺さんが否定していることは なく、寧ろ重視していることは強調しておくべきだろうが)を具体的に突き止めていくよりは、皮相な受容のあり方の説明に留まってしまうという 制約である。勿論、それで今日におけるマーラーの「流行」の一因を説明できれば渡辺さんの立場では充分であって、寧ろそれこそが狙いなのかも 知れないが、残念なことに私にとってはそれはマーラーの音楽そのものの魅力の説明たり得ない。「人と作品」パラダイムは確かに近代的な美学の 産物かも知れないが、マーラーの音楽はまさに同時代の音楽の多くがそうであるような、単純な構造しか持たなかったり、あるいは構造的なものを 否定するような類のものではない。渡辺さんの言い方では、それはマーラーが結局近代人であるからだということになるのかも知れないが、 現代に生きる私にとってマーラーが魅力的なのは、寧ろその独特の、「別の言い方」を見つけることそのものが困難な、際立って複雑な論理であり 構造故なのだ。「人と作品」で足らないのは確かだが、それはマーラーの音楽が複雑だからで、「人と作品」では説明できない部分だけを取り上げたのでは、 現代のマーラー受容の様相の側しか浮び上がってこない。マーラーブームの中で書かれたこの「文化史のなかのマーラー」という著作の中で、「現代人の 中のマーラー」と題された第2部が、(一見、客観的な分析の方法に基づいているように見える演奏史の分析を含めて)、20年近くが経過した現時点では それ自体過去の記録のように感じられるのが、果たしてその部分に集められた文章の成功を物語っているのか、あるいはその逆なのかを私は 判断することができないでいる。私がはっきりと言えるのは、とりわけその部分が私にとっては蟠りを生じさせるものであり、そして「今ようやくマーラーの 時代は来た」という後書きにおける宣言が、あの思い出したくもない異様なブームのある側面を後世に対して証言することに図らずもなっているように 感じられるということである。

否、非常に示唆的な情報を満載した第1部もまた、時代の中にマーラーその人を位置づけることには成功し、 その作品から人物に関するイメージを不当に外挿してしまいがちな私のような素朴なファンにとって、そうした臆断から距離を置くのに欠かせないものではあるけれど、 そこに現れるマーラーは、今度は時代にうまく収まり過ぎている感じもある。優秀な才能を持った人材を求めていた転換期の歌劇場の需要に 応えることができたマーラーは、間違いなく成功した当時の花形指揮者であり、ウィーン宮廷歌劇場監督としてのマーラーはどちらかといえば体制派側に 属するウィーンの名士であったことは事実だろうが、その事実を踏まえてなお、時代に対する個人のスタンスは決して一様ではなく、マーラーが 色々な側面でアウトサイダーであり、かつ或る種のアナクロニズムを抱えていたことが見失われてはならない。それは体制派側から前衛に 徐々に肩入れしていったという軌跡の問題とはまた別であって、かつては強調され過ぎた嫌いはあったものの、マーラーにおける時代に対する疎外を 今度は軽視することになれば、それはそれでバランスを欠くことになる。更に言えばそれによって作品の方が見えなくなってしまっては、少なくとも私にとっては 本末転倒ということになる。私がマーラーの人間に惹かれるのは、あのような音楽を作曲したからであって、決して逆ではないし、もっと言えば私は マーラーに関心があるのであって、マーラーが生きた時代そのものに関心があるわけではないし、そこに魅力を感じているわけではない。 そういう意味では渡辺さんの視点は、マーラーの受容のされ方も含めて今の時代に違和感を感じている私も、時代の寵児ではあっても疎外感を 抱き続けていたマーラーも素通りして、現代とマーラーの生きた時代を結び付けているようにさえ見える。個人に対する社会の拘束力の大きさを 重視し、ややもすれば作品を時代の鏡と見做し、作者の意図や個性の反映のような視点を軽視する嫌いさえあるアドルノでさえ、 マーラーの音楽に個人と社会との間の軋轢を、個体の疎外を読み取っているというのに、ここではそうした批判的な契機すら危ういものになっている。 アドルノがマーラーを取り上げたのはまさにそうした契機によってであり、アドルノは自己のマーラー経験に対しては最後で忠実であったように 思われる(それは例えば一見批判的に扱われているように見える第8交響曲に対するアドルノの奇妙な逡巡にはっきりと顕れていると思う)のに対し、 ここではマーラーは、マーラーを生み出した時代であれ、マーラーを受け入れ、消費する時代であれ、いずれにしても時代を特徴付ける徴候に 過ぎないかのようだ。大地の歌の中国趣味は、アドルノにおいてはかつての歌詞選択におけるアナクロニズムと同様、仮晶と見做されるが、 ここではそれは時代の最先端の流行ということになる。マーラーと同時代の他の作曲家との間の差異はどこかに行ってしまったかのようだが、 私見ではマーラーの魅力はその差異にこそあるのだ。CMに取り上げられるマーラーの通俗性は、それが存在することは事実だとしても、 マーラーの音楽の総体が通俗的であることと同じではないし、マーラーの魅力は通俗性そのものに存しているのではないだろう。勿論そうした 事情が等閑視されているとまでは思わないが、そこに今日まで繋がる力点の変化、或る種のすり替えのようなものを感じずにはいられない。

それではその後「マーラーの時代」は続いているのだろうか?あるいはブームとともに過ぎ去ったのだろうか? 今やそういう問いが発せされることすらなくなったようだ。恐らくは生誕150年、没後100年という節目の年には、またちょっとしたブームが 到来することになるのだろうし、その時にはまた何かコピーが流布するのかも知れないが、それらは結局、流行それ自身のために存在しているのだろう。 そしてそれもまたミームの存続の一つの戦略なのだろう。自分がその只中にいることを忘れてはならないだろうが、だからといって自分にとっての 謎なり課題なりは、結局自分なりの「別の言い方」を見出すことによってしか解決されない、という認識が変化するわけではない。 そして当のマーラーの音楽そのものが、彼自身のそうした実践の成果であるという見方も変わることはないだろう。その音楽が、その音楽の独自の論理を 言い当てることを通して、他ならぬ自分の論理を見つけ出すことへと誘っているように私は感じられる。それがどんなに稚拙なもので、他人からみたら 非論理的なものと思われようとも。

(2008.5.18、マーラーの命日に、第10交響曲のクック版を聴きながら。2024.7.8 noteにて公開)

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