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ハゲマス会「第8回狂言の会」を観て

「柿山伏」山本東次郎・山本則俊
「那須」山本則俊
「木六駄」山本則俊・山本東次郎・山本則直・山本泰太郎
小舞「暁の明星」山本則直
小舞「蛸」山本東次郎
「六地蔵」山本則重・山本則秀・山本則孝・遠藤博義

麻生文化センターを会場とするハゲマス会主催の大蔵流山本家による狂言の会は、第7回を一昨年拝見している。 1月29日の第8回の番組にお誘いを受けて出かけた。番組は「柿山伏」、「那須」、「木六駄」、「六地蔵」に、小舞二曲と いう盛りだくさんなもの。

「柿山伏」は一見、物まねの演技を見せるという他愛のない話だが、拝見していて興味深いのは、柿を山伏に 盗み食いされているのを見つけた持ち主の心の方だ。山伏をからかった挙句、木から落ちた山伏を見て 気が済んだのか、いい気なもので介抱を強要する山伏を相手にせずに、そのまま帰ってしまおうとする。 山伏が祈ると、祈りが効いたのか、引き戻され、仕方なく介抱をしてやろうと言うものの、やはり心変わりして、 もう一度、今度は背負った自分の背中から山伏を落として帰ってゆく。
色々な読み方ができそうだが、引き戻されるところは、素直に祈りが効いたように見えた。勿論、 心のどこかに「介抱してやってもいいかな」という気持ちがあればこそ祈りが効いた、で良いように思える。 引き戻されるところの山本則俊さんの演技の見事さは、いつもながら本当に感嘆してしまう。 そして、その型の美しさがあればこそ、こころもちの移り変わりの一瞬の表出が一層鮮やかに感じられるのだと思う。 東次郎さんの山伏の、気まずさと開き直りの対比も見事だと感じた。

「那須」は本来ワキの僧の求めに応じて浦人が仕方話に語って聞かせるという趣向なのだが、そこの部分は 略して直接話を始めたこともあり、あまりの迫真の演技にそうした背景はどこかに飛んでしまった。 登場人物の語り分けと、情景の描写とをやっていくのだが、ちょっとすると落ち着かなく、ばたばたしそうな ところも、そうしたところは微塵も無い。(以前、他の演者のアイでそういう感じをもってがっかりしたことがある。 与一も、義経も若いのだけれども、だからといって売り出し中の若手がやればいい、というものでも ないのだな、と感じたものだ。)とりわけ印象的なのは、与一が馬に乗り、海に乗り入れていく部分から、 矢を放つまで。馬が海に足を踏み入れ、腹まで水につかる様子、風が強く、波に揺られて小舟もろとも 扇の的が揺れる様子、祈る与一。素晴らしい緊張感で、この語りが特別扱いされるのがようやくわかったように 思えた。

だが今回もっとも印象に残ったのは、やはり「木六駄」だろうか。最も印象的なのは、大雪の中、牛を追って 峠の茶屋に着いた場面だった。外の雪の激しさ、寒さの厳しさ、そして孤独と、それらに対する茶屋の中のぬくもり、 そして茶屋の主人との会話の間のコントラストの大きさである。それが頂点に達するのは、「あなたが行き倒れたら お酒が残っても仕方ない、だから飲めばいいではないか」という茶屋の主人の言葉を太郎冠者が聞いた 瞬間だろう。この瞬間の則俊さんの太郎冠者がとにかく素晴らしかった。或る種の臨界というべきか、その瞬間に 何かがどっと堰をきったように太郎冠者のこころもちに質的な変化が起きたのが手にとるようにわかったのである。 大げさな言い方かも知れないが、こういう瞬間に立ち会えることこそ観客にとっては何よりの得難い経験だと思う。 そして、諸白を飲むときのおいしそうな様子、手足に温もりが戻ってくる様子、太郎冠者のこころとからだの内側で 起きていることが、そのまま我がことのように感じられる、実に感動的なひとときだった。もともと酔っているだけなら 外でだって酔っていたわけだから、この変化は酔いによるものではない、少なくとも、山本家の台本はそのような主張を 持っているように感じられる。太郎冠者のこころを溶かしたもの、度を越した大盤振る舞いに及んでしまった原因は、 単なる酒の飲みすぎではないに違いないのである。
東次郎さんの茶屋の主人は、則俊さんの太郎冠者がどんどん酔っていくのに調子を合わせている割には どこか冷静で、何となく、もともと太郎冠者を騙すつもりでいたのでは、もしかしたら、酒の用意はなく 茶しか出せないというところから、既にそのつもりではなかったのか、というようにも感じられた。伯父を 迎えたあと、雪の中から木六駄とともに現れた太郎冠者を見て、ぴんと来たのではないだろうか。 ここも色々ととりようはあるのだろうが、そういう想像をさせるところが東次郎さんの演技の巧みさなのに違いない。
この曲は一度拝見したかった曲なのだが、予想に違わぬ面白さで大変に満足できた。

小舞では「暁の明星」の艶っぽさも印象的だったが、特に「蛸」が面白かった。修羅能のパロディということだが、 この曲の場合にはもとの能が廃曲になっているのでパロディを直接楽しむことはできない。 だが拝見して、蛸をシテにもってくる狂言のセンスというか、知性に感心してしまった。 こうなると是非、「通円」を拝見したくなってしまう。是非取り上げていただきたいと願っている。

最後の「六地蔵」は初めて拝見したが、これはこちらは不思議と何度も拝見している「仏師」と同工異曲であるようだ。 山本家の若手の方は型も言葉もきちんとした様式感があって、拝見していて気持ち良い。特に見事だと感じたのは、 則重さんのすっぱが六地蔵についての説明や分業システムについて滔々と語るところ。ここが生き生きとしていればこそ、 田舎者も騙されるのである。最後の部分も決してただのドタバタにならず、滑稽さが舞台の品を損なうことないのは見事で、 改めて山本家の狂言の手応えの確かさのようなものを感じた。この感覚があればこそ「狂言」を拝見していると感じられるのであって、 これがなければ単に歴史的な台本に基づく滑稽な演劇になってしまうに違いない。

最後に東次郎さんのお話がついて3時間弱、とても充実した時間を過ごすことができた。うかがうところによれば、 次回はまた来年催されるとのこと、是非、また足を運びたいと思う。

(2006.1.31, 2024.7.21 noteにて公開)

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