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「三輪眞弘 Golden Nica 受賞記念報告会」に参加して

「三輪眞弘 Golden Nica 受賞記念報告会」
2007年10月21日ZAIM(財団法人横浜市芸術文化振興財団) 別館2Fホール(Sound & Vision, インド文化交流協会 共催イベント)

三輪眞弘さんがArs Electronica 2007でGolden Nicaを受賞されたことは本Webページでも速報(といっても、1行告知を出してアンカーをつけた だけだが)した。受賞対象は、「逆シミュレーション音楽」のコンセプトそのものということで、これはこの種の賞の対象としては些か異例のことかも 知れないが、三輪さんの活動アプローチを顧みれば、至って自然なことに違いない。今回参加した催しもまた、三輪作品の演奏ではなく、 その Ars Electronica 2007に三輪さんが参加されたドキュメントビデオ、応募時の「逆シミュレーション音楽」の紹介ビデオに、今年7月に、 台風4号の中で行われた三宅島での手順派合同際「極東の架空の島の唄」を素材にした前田真二郎さんの「ビデオスケッチ」の3本の上映を 中心としたプログラムであったが、こうした催しに「きちんと」参加したのは初めてということもあり、色々と感じ、考えさせられたので、印象を書き残しておきたい。

実は当初は、当日感じたことを細大漏らさず書こうとしてみたが、一旦書きかかって、自分の書いた文章を読み直してみて止めることにした。一つには、 参加した直後は、開始時刻のこと、当日現地について初めて知った参加費のこと、それよりも何よりも、ゲストとして予告されていた草原真知子さんが、 遅れてくるどころか結局最後まで現れず、しかもそれに関して主催者に連絡すらない様子だったこと(恐らく開始時刻の変更の原因だったのだろう)など、 私が普段生活している社会集団の規範からすると「ハプニング」と感じられることが幾つかあり、それに関連して、その場で感じた違和感を書き留めて おくことに意味があるように思えたからなのだが、結局のところ、三輪さんのお話や上映された映像の印象に関連すること以外はどうでも良くなってしまった。 ロラン・バルトではないが、Il ne nie jamais rien : « Je détournerai mon regard, ce sera désormais ma seule négation. »である。どうせ書くなら 三輪さんのお話に関連して感じた疑問や懐疑について書いたほうが余程自分にとって意味のあることで、それ以外のことは結局自分にとっては 取るに足らないことなのだから、違和感を感じようが反撥を覚えようが、無視してしまうに限るのだ。私には大した能力もないし、時間も有限である。 もともと「マルチメディア・アート」なるものがどうなろうと自分には関心がなかったし、それに携わる人がどんな人で、何を考えているかについても同様だった。 そしてこの催しに参加しても別にその点では変化はなく、寧ろそうした判断を追認しただけだったとも言えるのだ。

この催しはSound & Visionという、マルチメディア・アート作品の(2回目の)展示会の一環として企画されたもので、それゆえ、コーディネータは Sound & Visionの企画をされた川崎義博さん、そしてプログラムの一部に、Sound & Visionにも出展しているChristophe Charlesさんの音響 作品の演奏が含まれていた。

会場となったZAIMというのは、横浜スタジアムのすぐ手前、中区役所の隣の、かつては官庁として用いられていたと思しき建物で、ホールといっても、 それは面積が広い一室に過ぎない。映像は、白い壁の一面に映される。その手前の脇、映写機を妨げない位置に折りたたみ机と椅子を 置いて三輪さんの席をつくり、三輪さんの席と映写のための空間を囲むように椅子を並べ、そこに参加者が坐って、ビデオを視聴し、 三輪さんの話を聴くという按配になっている。席が幾つ用意されていたかを正確に数えたわけではないが、100は無かっただろう。参加者は いわゆる主催者側のスタッフなどを含めても、50人はいなかったように思う。
ちなみに上の3階、4階の両フロアでは、件のSound & Visionの展示が行われていた。

催しの構成について言えば、最初に述べたようなハプニングもあって、当初予定されていたアジェンダのタイムテーブル通りには進行はしなかったが、 結果的には、ドキュメントビデオをじっくり見られて、三輪さんのお話を聴く時間が充分にとれたことになったので、その点に不満はなかった。

最後のコンサートに到達するまでのプログラムは、三輪さんの解説つきの3本のビデオ上映の後、川崎さんと三輪さんのディスカッションと、 会場からの質疑に対する応答という構成になった。ビデオのうち、Ars Electrotica のドキュメントは、40分にも及ぶ長いものだったし、 川崎さんとの対談では、旧「方法」同人の方を含む3名へアンケート結果が披露されたりと盛りだくさんな内容で、寧ろ些か 消化不良の感じがするくらい充実したものだった。

最初は「逆シミュレーション音楽」の紹介ビデオ。私は「弦楽のための369」しか実演に接していないので、一部、三輪さんのWebページで 見ることのできる映像を除くと、初めてのものが多くて新鮮だった。特に印象的だったのは、2本目、3本目のビデオにもそれぞれ登場する 「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」と「蝉の法」。「逆シミュレーション音楽」だと、もはやCDではなくDVDが適切なフォーマットかも知れないが、 この2曲は、音だけでもいいので、是非、全曲を聴いてみたい。

Ars Electronica 2007のドキュメントは、現地で演奏された「またりさま」と「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」の本番までのプロセスが 中心になっている。とりわけ、リンツ・ブルックナー・オーケストラによる「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」の演奏は、オーケストラの楽員の サボタージュや指揮者も含めた取り組み方の問題から、あわやキャンセルという事態にまでなってしまうという、当事者ならずとも 見るのがちょっとしんどい経過を辿る。私が親しんでいる音楽では、古くは度重なる演奏拒否、サボタージュによるフィアスコを経験しなくては ならなかったブルックナー(その名を冠するオーケストラが相手だったのは、思えば皮肉にさえ思われる)がいるし、ヴェーベルンは、 ―指揮者として彼自身もキャンセル事件を起こしたりしているが―自作の演奏で、しばしば奏者のボイコットにあったり、 演奏会がスキャンダルとなったりしている。あるいはまた、クセナキスだったらMetastaseisのドナウ・エッシンゲンでの初演がスキャンダルだったり、 最近では、ラッヘンマンのStaubが、現代音楽を弾きなれている筈のドイツのさる放送交響楽団にボイコットされてしまうという具合に、 知識としてはそういうトラブルが絶えないのは知ってはいたし、三輪さんの「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」については、実はカイロでの初演は、 やはり充分とは到底言えない演奏だったと伺っているが、実際にその経緯をドキュメントで知れば、目の当たりにする作曲者の苦衷の大きさに言葉もない。

この点では享受する側は実に無責任で気楽なもので、そうしたスキャンダルを後世から眺めて、まるでその音楽の先進性を証明する「勲章」で あるかのように見做してしまう傾向がある。否、それはそれで間違いではないのだろうし、「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」が後世、 そのように語られる作品であると考えればいいのだろうとは思うが、それはそれ、それが現場で作曲者が蒙った傷を無かったことにすることはないのだ。 そういう意味では、「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」が、作曲者の満足するレベルで繰り返し再演されることを強く願わずにはいられない。

その一方で、「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」という作品そのもののつくりや、「逆シミュレーション音楽」のコンセプト自体が持つある側面を 考えると、―恐らく三輪さんご自身もその点ははっきりと認識し、大げさにいえば「覚悟」されていることだと思うが―、今回のリンツの オーケストラの反応の原因が、作品自体やコンセプトそのものに内在しているという点もまた、否定し難いだろう。 3分音の使用や、楽譜の特殊なノーテーション、「規則に従って」、つまり楽譜通りに演奏すべきだが、結果的に生じるずれは許容する という姿勢、プロのオーケストラの楽員の持つ極めて高い技能を否定し、新たな身体への造り替えを強制する暴力に対して、 そのオーケストラのスキルが高ければ高いほど、そして自己の伝統に対する誇りや信頼感が強ければ強いほど 抵抗が大きくなるのは、或る意味では当然のことなのだろうと思う。

ほとんど演奏不能な超絶技巧であっても、それが名人芸の延長にある限り、優秀な奏者は困難を克服してしまうだろう。 だが、ここで起きているのは寧ろ名人芸の端的な否定に近い。例えばラッヘンマンの楽器法がしばしばそうした側面を持っていることが、 その作品構造の観点から見たときの保守性にも関わらず(もっともそれには勿論戦略的な側面があって、それは丁度三輪さんの作品における 「架空の伝承」に近い機能を果たしていると考えることができる。ただしそのアブローチはある意味ではストレートであり歴史主義的だ)、 そして結果として生じる音響の未聞の美しさにも関わらず、演奏者にとって依然としてその音楽を挑発的なものにしている点が思い出されるし、 一方では、クセナキスの音楽がいわゆる伝統的な楽理を全く無視したものであるため、私を含めた多くの日本人にとっては印象主義の極限とでも いうべき、或る種の親近性を感じさせる、全く自然な音楽として受容できるにも関わらず、特にヨーロッパを中心に、未だにその作品がレパートリーと して定着できない状態にあることも思い出される。三輪さんと似て、その方法論のラディカリスムと或る種の合理主義が疑いなくヨーロッパの伝統に 連なるものであること感じさせながら、やはりクセナキスの音楽もまた、別の身体を要求しているのだ、と言えるのではないか。

こうした比較に大した意味は無いのかも知れないが、それでも今回、日本の国内の賞ではなく、ヨーロッパで「逆シミュレーション音楽」が 受賞したことを考えるとき、そうした点が検討の手ががりになるというのもまた、否定し難いように思われる。 要するに、一体彼らは何を見て「逆シミュレーション音楽」に賞を与えることにしたのかは、実はそれほど自明なことではないように感じられるのである。

勿論、私は三輪さんの音楽に対して、同時代の音楽としては例外的と自分でも言わざるを得ない関心を持っているから、 その音楽が受賞したことは自体はとても喜ばしいことなのだが、すでに別のところでも書いているように、一面ではモダニスムの極限とも見做せるような、 一見したところ、日本よりはむしろ彼の地での方が受け容れられ易い側面を認めつつも、同時に三輪さんの音楽に日本人的な感覚を 強く感じていることもあり、ヨーロッパで三輪さんの音楽がどのように受け止められたのか、もしそこに誤解やずれがあるとしたら、それはどのようなものなのか、 という点は看過できない点なのである。もし仮に誤解があったとしても、その内容によっては、必ずしも三輪さんの音楽に誤ったイメージを 押し付けることにはならず、寧ろ、より深い理解の契機になる可能性すらあるのだ。

オーケストラは無理解だったが、Ars Electronicaの審査員は違う、と果たして単純に言ってしまっていいものかどうかについては 慎重であるべきではないか。それこそ傍観者だからこんな気楽なことを言っていられると批判されそうだが、それでもなお、 抵抗を示したオーケストラの方が、三輪さんの音楽の含みもつ、ある側面を敏感に感じ取っていた故に、そうした反応が起きたのではないか。

そして実は、三輪さんもお話の中で、自分がきちんと理解されて受賞したのかについて疑念を持っていたことをはっきりと述べられていて、 私はその発言に寧ろ強い共感を覚え、大いに意を強くしたのであった。そして、講評を読んで、誤解の上にたった受賞でないことを 確認できて嬉しかったとおっしゃっていたのが印象的だった。

ちなみに、その講評は抜粋の邦訳のかたちで参考資料として当日配布されたが、私もまたとりわけその末尾近くの、 例えば以下の部分を読んで、今回の受賞を非常に喜ばしいことだと感じたのである。

三輪氏の方法は始めから審査員の注目を引き付けた。審査員の何人かは「逆シミュレーション音楽」という手法が、 デジタルプロセスをその中心に置くことによって、従来の音楽的「現実」に風穴を開けたことを賞賛した。(中略)
また一方では、イデオロギー的な理由で強烈な異議を唱えた審査員もいた。三輪の方法は、ほとんどファシズムに見られるような 制御を設けて自律性を否定し、全く廃れたポストヒューマンの概念を持ち出してきたと言うのである。審査員の決議は全員一致の 決定に至らなかったが、この作品をめぐる活発な議論が審査室を越えて継続することを期待して、この作品にゴールデンニカ賞が 与えられた。紛れもなくこの作品は今年提出された提案の中で最も急進的でパラダイムシフトを促すものだった。

(Golden Nica 講評抜粋:ジェームズ・ラッソ訳)

私見では、審査員の意見が割れ、活発な議論が起きたこと、そしてそうした議論を引き起こした急進性と、パラダイムという根本的な 部分に関わるという二重の意味での三輪さんのコンセプトのラディカルさに賞が授与された点を、とりわけ大変に素晴らしいことであると 感じた。それとともに、あくまで私見だが、賛成意見よりも反対意見の方にそのラディカルさに対する鋭敏な反応が見られたことが 興味深く思われたのである。実際に、私もまた、「逆シミュレーション音楽」における身体の扱いについて、別のところですでに若干の 疑念を記したことがあるし、そして未だに「逆シミュレーション音楽」について懐疑の念を拭えないでいるのである。

そういうこともあり、3本目のビデオの主題となった三宅島での「手順派合同祭」の映像と音は、そうした疑念を一層深める一方で、 拒絶し、否定することの困難な点があることを明らかにしてくれたように私には感じられた。

私見では、「ほとんどファシズム」というのは間違っていないと思うが、だからといって、それをもって イデオロギー的に反対するのは、些か単純化した捉え方に思えてならない。超越的なものに対する姿勢にしてもそうだが、 三輪さんのスタンスは、そうしたものの両義性を逃さず、そのためにネガティブなものを抱え込む危険を自覚的に引き受ける という点が明確であり、それだけに実現された作品は強いインパクトを持つようになっていると思われたのである。 「架空の」というヴァーチャリティは、醒めて反省的な意識を必要とする。 その意識が(ヨーロッパの言葉においてはまさに字義通り)良心を担保するのだ。

いずれにせよ、ここでのポイントは、そうした議論を惹き起こすようなコンセプトを提唱し、実際にそれを作品として実現することは、 それ自体が稀有なことだということで、そういう意味で今回の受賞の理由には些かの異論もない。それにしても、意見が割れた 対象に賞を与えるというところに、ヨーロッパらしさ、ヨーロッパの伝統の美質や強さを見るというのは考えすぎだろうか? 私もまた、三輪さんの作品が彼の地で活発な議論を呼んで、賛成・反対の交錯するなか、演奏され、検討されというプロセスが 進展していくことを強く期待したい。

「手順派合同祭」の映像を見て明らかになったと感じられた、拒絶し、否定することの困難な点というのは、端的に言えば、 例えば優れた能楽師、狂言師、あるいは文楽の人形遣いの舞台ではほとんど自明のことと思われる、修練し、身体化された 技能の持つ有無を言わせぬ力の存在である。もちろんそれは、クラシック音楽の演奏者についてだって同じことで、 「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」はだめでも、リンツ・ブルックナーオーケストラは、例えばブルックナーの交響曲であれば そうした力を聴き手に印象づけるような演奏をしたかも知れないのである。

「蝉の法」の演奏は、そうした意味では驚異的なものに思われた。というのも、この曲が奏される箜篌と呼ばれる楽器は古代中国の ハープであり、復元楽器であるがゆえに、恐らく、奏法の伝統というものが存在しないこと、そして三輪さんの作曲法もまた、 ―それが全く既存の伝統と独立であるかどうかはわからないし、また、その点についての事実関係にあまり拘泥する必要もないと 思うが―、とりあえずは伝統とは独立のものであるにも関わらず、西さんの奏するその音楽は、単純な演算規則からは想像が できないような類の豊かさを持ったものだったからだ。

もっとも、これについても日本の伝統楽器の多くは手組みという方法で、単純な奏法の組み合わせから、 豊かな音楽を構成することができるようになっていることを思い出すべきかも知れない。多くの場合、どの作品のどの部分で何を 弾くかは厳密に決まっていて、即興の余地はほとんどない。そしてしばしば、全く内容の異なる作品が、音楽上は実際にはほとんど同じと いうことも珍しくない。要するに、デリック・クックが「音楽の言語」で構想したような精神的・心理的な意味論を背景にもつ音楽の統辞論は、 ここでは不可能なのだ。

だが、だからといって、アルゴリズミックな方法論で書かれた音楽は無味乾燥に機械的に演奏されるべきだ、というのは、 およそ根拠のない主張に違いない。アルゴリズムを物象化して、勝手に作り上げたイメージを音楽に擦り付けても仕方あるまい。 そんなことをやるくらいなら、そうしたイメージが介在する余地がないまでに身体化を徹底させるべきなのだ。 能の構えや運びはそれ自体には意味はない。だが、名人上手の構えや運びは、特定の情緒にとどまらない圧倒的な 印象を見る者に与える。演者に、どういう解釈で、どういう気持ちでやっているか聴いても、聴き手が期待するような気の利いた 答えは返ってこない。けれどもそれは「機械的に」演じているのでは断じてないのだ。

伝統的な芸能にあっては、こうした違いは明らかなのだが、恐らくは身体的な技能のレベルでの伝承がないせいで、 「逆シミュレーション音楽」では、演者の側に混乱を感じることがしばしばある。けれども、今回一部を垣間見ることができた演奏では、 上記の「蝉の法」の演奏を含め、突き抜けたものが出現する瞬間を予感させる場面が幾つもあったような気がした点が、 これまでにない収穫だったと思う。

そのことと関連して、やはり同様に否定し難く浮び上がってくるのが、「逆シミュレーション音楽」を含む「芸能」の持つ 祭祀的な性格である。またしても日本の伝統芸能を引き合いに出せば、能にせよ人形浄瑠璃にせよ、 その出自もさることながら現在の形態においてすら、その祭祀的な性格は明らかである。 勿論能楽堂や劇場で観客を前に演じられているし、(私は能の場合は全くやらない習慣だが)観客の方は 演奏に対して拍手をするのが普通ではある。だが、それでも少なくとも私には、そこに作曲・演奏・享受の記号論的 3分法に収まらないものがあることは明らかであるように思われる。かつまた伝統芸能でよく言われる新作の定着の困難さの 原因の一部には、そうした新作が作曲・演奏・享受というフレームの中に閉じ込められていて、古典が実は今でも喪っていない 超越的なものに対する感覚に対して、あまりに無頓着に過ぎるという点があるように思えてならないのである。 例えば、古典芸能の伝承と普及という大変に立派な目的のもとに作られる「子供向けの作品」が多くの場合 陳腐なものになってしまうのは、まさにその目的に縛られて、受容者である子供の能力を過小評価し、その結果、 創作の素材を不要に限定し、演奏解釈を陳腐なものにしてしまうからなのではないか、という気がしてならないのである。

「逆シミュレーション音楽」の一部を構成する「架空の伝承」が、この問題に対する答になっているかどうかについての 判断はまだできないが、少なくとも、問題の在り処を探り当てているというのは確かなことだと思う。 そして恐らく重要なことは、架空の伝承の「性格」を誤ってはいけないということだろう。要するに、適当なカバーストーリーが つけば何でもいいというわけではないのだ。定義上はそのような制限は明記されていないが、それは伝統的な和声法、 対位法でも十二音技法でも同じことである。シェーンベルクの言った通り、十二音技法を使えばいいというわけではなく、問題 はどのような作品を創るかなのだ。何よりもカバーストーリーは、超越的なものとの関わり、「奉納」としての演奏という性格に 反するものであってはならないだろう。だが、そういった文脈に予め埋め込まれた芸能が、そこから抜け出すことが容易でないのと 同じくらい、架空のものがそのような性格を帯びることもまた、困難に違いないのである。本物の祭りと祭りの真似事の 違いは歴然としてあって、「逆シミュレーション音楽」についても同じことが言えるはずなのだ。

するとそこから、ある意味では非常に危険な一つの仮定に関連した疑問が生じる。架空をとってしまって、本気になったら どうなのか?という仮定に関するそれである。

三輪さんのトークの中でも最も刺激的だったのは、「逆シミュレーション音楽」を例えば小学校で必修で教えるように ならないだろうかという「希望」だった。教育というのは、結局のところ何某かの暴力性を帯びている、という三輪さんの ことばには説得力がある。そして「逆シミュレーション音楽」は、それが架空であるという前提を持つことによって、 現実のグロテスクとも言える側面を批判的に取り扱っている側面があるように思われる。つまりそれは或る種の戯画の ようなものなのだ。丁度ラッヘンマンの音楽が、少なくともある時期までは、それまでの音楽のネガであることを 積極的な存在意義としていたように。「またりさま」で言えば、アルゴリズム通りになかなかできないことを笑って 楽しんでいるうちは良いのだ。

だがその一方でその作品が、戯画以上のものであろうとしたとき、そこで要求される技能は、それが批判的に模倣していた 伝統そのものになろうとする。今度は自分が新しい伝統になろうとするのだ。そのとき「架空の伝承」という「逆シミュレーション 音楽」の規定はどうなるのだろうか?こうして考えてみると、一見したところ音楽そのものからは最も遠く離れていて、 それゆえ無視されがちな、プログラムノートは、実は一線を越えないための防波堤の役割を果たしているようにさえ 見えてくる。Golden Nicaの講評の反対意見は、必ずしも見当外れなわけではないと思われるのは、こうした理由からである。

けれども今回私が感じたのは、既に述べたように、そうした反対意見はそれはそれで些か事態を単純化しすぎているのでは、 ということだった。西さんの演奏する「蝉の法」、手順派による「またりさま」の演奏の記録の一部を見ながら、単純に「暴力」を 否定することはできない、「暴力」を十把一絡げに捉えるのは問題があって、―これは危うい言い方だが―、言ってみれば 良い暴力と悪い暴力があるのではないか、ということを思わずにはいられなかった。(といっても、それは善悪の判定が可能である、 とか、判定基準が普遍的で曖昧さのない形式で定義できる、ということを必ずしも意味しないのだが。)

そういう意味で、最近の三輪さんがよく使う言葉の中で印象的なのは、「修行」という言葉である。 「修行」が必要だ、「修行」が足りない、という言葉に対して抵抗を感じる人はあまりいないだろう。 少なくとも私個人としては、自分に足らないのはまさに「修行」、つべこべ言わずにじっくりとある課題に徹底して取り組んで、 それを充分に身体化することだと思っているので、個人的な水準に話を限り、なおかつ、「暴力」なり「強制」なりの向きを 自分自身に向けている分には、全く異論はないのである。

否、私のような愚かな人間は、自分でそれに気づくのが往々にして遅すぎる。 つべこべいわずにもっと若い時期にやっておけば良かったと後悔している事のリストは実は結構な分量になる。 親なり先生なりが、その時には「強制的に」やってくれた修練に感謝する一方で、もっと強制されてでもやるべきだったと 思っていることを挙げれば切りがないのだ。「またりさま」なら、うまくできないことを笑っていれば良いが、現実の問題として、 できずに笑って済ませられないこと、今からでも何とかならないかとさえ思うことは、実は山ほどあるのである。

というわけで、「逆シミュレーション音楽」については、それが危険な性格を備えているという認識を撤回する必要性は 依然として感じていないものの、その積極的な意義についてもう少し考えてみる必要がありそうだ、というのが 今回参加しての率直な感想である。そしてそれは(もしかしたら三輪さんの意図からは外れてしまっているかも知れないが)、 別に芸術の領域に限定されるものではなく、より広く、人間の営み一般に、従って、自分のように芸術とは無縁の人間に とっても無関係でないように思われた。

その後は既述の通り、川崎さんと三輪さんのディスカッション、事前に行われたアンケートの結果の紹介、そして 会場の参加者との質疑応答になったが、そのうち、アンケート結果と質疑応答について、印象に残った点があるので、 簡単に書きとめておく。

アンケートは基本的にマルチメディア・アートの展示企画の一部という枠に沿ったものだったが、その中で三輪さんを 作曲家とみるかマルチメディア・アーティストとみるかいう質問があり、それに対してすべての回答者が作曲家と見做している ことが印象的だった。

無論こうした反応は一面的、一過的なものであって、所詮、質疑応答に対する感想など、 発言の背後にある真意を理解した上でのものではありえない。してみれば恐らく、私の反応には不当な 部分があるということになるのだが、それはこうした催しの質疑応答ではほとんど避け難いことでもある。 三輪さんの発言に関しては、それでも多少はその背後にある考え方を予め知っている(と自分では 思っている)が、それ以外についてはお手上げである。
この点に関連して言えば、―これは単なる誤解かも知れないが―、質疑応答の質問者がいずれも、 あまり三輪さんの活動や主張について知っているようには見受けられなかったこともまた、 些か意外に感じられた程だったのだが、考えてみればこれも無理からぬことであって、 それを言い出せばこうした催しにおける質疑応答の意義をどう考えるかという話になってしまうのだろう。

いずれにせよ私にとっては、「マルチメディア」というものの広がりの大きさ、意思疎通の難しさ、 アートの世界にいる人間と自分の、同じ対象に対する感じ方の隔たりの大きさ(本当にそれは「同じ」対象なのか、 という問いさえ成り立ちそうだ)などなど、色々なことを感じることができたという点で非常に良い経験になった。 単に、理解できない壁があることを再認して、いささか凹んだだけという見方もできるが、、、

その一方で、三輪さんの活動や考え方に対する違和感の無さというのは、これはこれで貴重なものなの かも知れないと感じもし、と同時に、それが実は勝手な思い込み、錯覚に過ぎず、実は全くわかってないのでは ないかという懐疑の念も抱いた。まあ誤解であろうがなかろうが、同時代の「アート」について 「わかった気になる」こと自体、私の場合は珍しいことだから、主観的に貴重なことには違いないのではあるけれど。

何しろ、わからなければ黙ってやり過ごすしかないのだ。所詮「アート」など自分にとってはその程度の価値しか 持たないということなのかも知れないし、逆に「アート」の側からすれば、私のような人間は不要な存在なのだと いうことだろう。こうした催しに参加した結論がこうした認識であるのは、我ながらうんざりするが、否でも応でも、 それが現実であり、自分の気持ちを偽っても仕方が無い。結局、自分の能力に応じて、選べるものを選ぶしかないのだ。

何か冴えない結論になってしまったが、実際の当日の印象はこの文章の結論程ネガティブなものではなかった。 現実には、非常に大きな刺激を受けて、高揚した気分で帰途についたのである。

この経験は単に消費されておしまいという類のものではなく、今後、吟味をしながら消化していくべき 大切なものが含まれていたのは確かなことだと思う。そしてそれをきちんと消化し、自分なりに生かすことができるかどうかは 最早私自身の問題なのである。

(2007.10.27初稿, 28一部修正, 11.3改訂、公開, 11.4補筆, 11.5修正, 2024.6.23 noteで公開)

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