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「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」再訪記(2)

マーチン・リッチズ/三輪眞弘 Thinking Machineについて
2007年11月26日東京大学駒場博物館

はじめに

以下の文章をお読みになる方に、予想される誤解を未然に防ぐべく、幾つかお断りをしておきたい。本来ならこんな前書きをつける くらいなら、誤解がないように本文の改訂をすべきかも知れないのだが、今回については、今のところ本文は初稿のままの形態を 残しておくことにした。

  1. まず、タイトルではリッチズ/三輪の共同制作と書いておきながら、本文中では、専ら作者がリッチズであるかのような書き方になっている点。
    共同制作であることは、パンフレットにも謳われており、三輪さんのWebページでもそのように紹介されている。だがその一方で、会場に 備え付けのFAQが記載された資料は、リッチズの署名しかなく、三輪さんは専らアイデアの提供者として紹介されている。また、この作品は 他のリッチズの作品と一緒に展示されているのである。私が以下に記した反応が、FAQやその他のリッチズの作品という文脈の影響を 強く受けていることを否定するつもりはない。そして、その前提の上で、私はThinking Machineを第一義的にはリッチズの音楽機械作品と 受け取ったのである。例えば以下の記述のうちどれだけがThinking Machine固有のものかを改めて考えると、その点が一層明確になる。 つまり、以下の印象はThinking Machine固有のものというよりは、他の作品も含めた全体的な印象と言っても良いのだ。本文でも書いたが、 それは「何ものにも奉仕しない」ように見えて、でも少しも匿名ではない。リッチズの署名がされているように感じられたのである。

  2. リッチズと三輪さんに対して私が持っている情報の量には圧倒的な不均衡が存在する点。
    私はリッチズについて、上述した以上の文脈は一切持っていない。三輪さんについては、一定量の情報を持っていて、誤解を 含んでいるにせよ、自分なりの了解が存在する。この情報量の不均衡が以下の記述に反映するのは避け難く、ことThinking Machineに 話を限定すれば、どうしても違和感の原因を、リッチズの側に投影してしまうことになっているのは否定し難い。
    だが、裏を返せば、そこに投影があったとしても、それは結局、リッチズの他の作品やFAQでの彼の言葉に強く条件づけされたものであり、 上記のように、それをリッチズの作品の感想と考える限りでは、以下の内容について基本的に修正する必要性は感じていない。

  3. ということは、三輪さんの側から、しかも共作者としての三輪さんの側からの展望は、また異なったものである筈だという点。
    実は私は以下の文章を書いた時、全く不当なことに、この視点を全く欠いていた。この点については三輪さんにお詫びしなくてはならないと 感じている。ヴィジョンを持つものにとって、それが具体化されることの持つ意味、自分のコンセプトが実際に動くのを見ること、しかも、 他の人の作品に、自分のアイデアが埋め込まれて実現されることの意義を見失ってはならなかった。それは、もっと平凡なものしか つくることができない私のような人間でも、そしてその対象が遥かにつまらないものでも、我が事になれば感じるのは間違いない筈のことなのに、 そうした想像力が私には欠如していたのだ。三輪さんにとっては、このプロジェクトはその点をもって「成功」と呼べるものだったということを 反省の念とともに、ここに補っておきたい。(2007.11.30補記)


三輪眞弘/入鹿山剛堂作品に触れるべく東京大学駒場博物館を再訪したおり、併せて「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」の 展示を見てきた。展示の中では、何といっても今回の目玉のマーチン・リッチズの「考える機械」(Thinking Machine)がお目当てだったのだが、 会場のスタッフの方に実演もしていただき、興味深い経験ができたので、これを中心にその感想をまとめたい。

最初に三輪さんのWebサイトで、「考える機械」(Thinking Machine)という命名を知った時に私が反射的に思い浮かべたのは、 「人工知能」の生みの親の一人であるマーヴィン・ミンスキーが創立した超並列コンピュータの会社名だった。 今はすっかり「人工知能」という言葉もアウラを喪ってしまったが、 コンピュータの黎明期には、コンピュータそのものが「電子頭脳」と呼ばれた時代だってあったし、「人工知能」華やかなりし頃は、 コンピュータが「人間のように考える」ことが近い将来に可能であるかの如き幻想がふりまかれたこともあったようだ。 日本では、最近亡くなられた淵一博さんを中心とした「新世代コンピュータ技術開発機構(ICOT)」が組織され、 「第五世代コンピュータ」の研究・開発が国家プロジェクトとして行われた。 人工知能研究は世間的には失敗した、あるいは控えめに言っても行き詰ったと思われているようだが、そうした判断の適否は おくとしても、コンピュータのハードウェアが凄まじい勢いで高機能化した一方で、「考える機械」の方は逃げ水のように捉え難いもので あり続けているのは確かなようだ。人工知能研究が世間的には退潮していくのと入れ替わるように、脳科学、神経科学の成果が 世間を賑わすようになり、ちょっとした「脳」ブームといった様相さえ呈したのは記憶に新しい。そして、その一方で―これは相対的には 日本固有の現象ではないかと思うのだが―「アイボ」「アシモ」あたりから始まって、「ロボット」がちょっとしたブームで、ロボット同士の 競技会の類が数多く催されてきたし、あるいは今現在でも、ロボットの博覧会が行われていたりもする。

だが会場の展示内容は、上記のような私の連想とはさしあたっては無関係で、それは西洋における自動演奏機械の歴史と、 自動演奏機械にまつわる思考の伝統を辿るというものだった。ピタゴラス派の天球の音楽から、アタナシウス・キルヒャーの ような新プラトン主義的な音楽観を経て、20世紀初頭のプレイヤーズ・ピアノに至るまでの流れが概観できるようになっている。

そしてそれと「背中合わせ」のように、マーチン・リッチズの音楽機械が、ダダ(デュシャン)や未来派(ルッソロ)に縁取られて 並べられている。「考える機械」(Thinking Machine)はそのうちの一つである。「背中合わせ」というのは、私にはリッチズの 音楽機械と他の展示との間に何となく乖離したものを感じたからだ。勿論、その間の連続性を主張するのは容易だし、 それを認めるに吝かではないのだが、何となく後付けで2つのアイデアを無理やり同居させたような感覚は拭い難い。 別にそれがいけないというわけではなく、考え方によっては共通のテーマのもと、少し違ったテイストの企画を2つ見れて お得だと言えないこともないのだが。

その異質感を私はまだ端的に言語化できないのだが、その由来については何となく思い当たることがないこともない。 まず、リッチズの機械は、実用性とか、それによって可能になる音響の一般的な意味での音楽的な価値とは無縁のものであろうとしているように思える。 一方でそれは、古の音楽機械、あるいは例えば音楽時計が持っていたコスミックな、より大きな秩序への情熱とも無縁のようだ。 音楽時計は時を告げるという役割があって、その機能こそが大きな秩序への通路なのだし、プレイヤーズ・ピアノはその機構自体は 「汎用的」に出来ている。あるいはまた、自動化というのはテクノロジーの追求といった側面があって、別に人工知能を持ち出さずとも、 とりわけ今日の音楽は、私個人にとっては中心的ではあっても、全体のなかではほんの一部を占めるに過ぎない伝統的な音楽を除けば、 まさにテクノロジーの上に成り立っているのだ。現代音楽でも、最先端のライヴ・エレクトロニクス技術を用いた作品が作られるかと 思えば、今やPC上で作曲や編曲、そして視覚的なメディアとの融合が可能な時代になっており、先日の自動ピアノのコンサートでも そうした作品の一つが演奏された。リッチズの機械は―実際には、コンピュータの支援を受けて動いているのだが、それでも「本体」の 動作機構自体をとれば―単に「ローテク」なだけではなく、「決められたこと」のみをやるようにできている。後述のように、それが オートマトンで、実際に生成される音の系列は見かけほど単純ではないにしても、そのアルゴリズム自体はいわばハード・コードされているし、 一方で生物が備えているような可塑性を全く欠いている。

一方でリッチズの作品は(自動楽器であることをおけばパーチを連想する人がいても おかしくないだろうが)、この世に一つしかないものだし、何かの役割を与えられているわけではない。 博物館でも美術館でもいいが、そこに置かれ観賞されるために作られていて、しかも別に存在する音楽作品を再生する媒体ではなく、 それ自体が作品たることを主張している。勿論、実現される音響について全く無頓着ではないのはわかるが、実現される音響に接すれば、 例えばそれをオルゴール替りに使う人はいないだろう。例えば音が鳴る間隔の長さは、ベルを鳴らすボールが転がる軌道の長さと傾斜、 それからベルを鳴らしたボールに再び位置エネルギーを与えるべく持ち上げる車輪の回転速度に規定されるが、それはまさに設計による 選択の産物の筈である。意図された退屈さ。あるいは観賞する人間を選別しようとするかのような、 愛想の悪さ。それはコンサートホールで演奏される作品が無意識のうちに備えてしまう、あのどことなくキャッチーな傾向から身を 離そうとしているかのようだ。さりとてそれが、人間を超えた秩序を志向しているというわけでもなさそうなのである。

私にはどちらかと言えば、現代美術にしばしば見られる、音の出るオブジェの類に近いように思える。 概ね木で作られたそれは、精巧にできているけれど、それだけにかえって繊細で、頼りなげでエフェメールなものにすら感じられる。 「美術品」に相応しく、Don't touchと注意書きがされ、見る人から隔離され、会場のスタッフの人のみが操作することを許された存在。 触れたら壊れてしまうのだろうか?―少なくとも頑健性は考慮されていないのだろう。操作には熟練が必要なのだろうか?― この作品に限定していえばそういうことはないだろう。でも、ウニカートな機械に熟練が必要だとしたら、何とコストのかかることか、、、。

永遠の秩序とは逆の、ヴァニタスすら思わせるような、目的を持たない機械。 野外で風雨にさらされることは想定されていないだろう、湿度や温度の変動に対する耐性はどうだろう、 どの程度の精度で作られているのかわからないが、「うまく動かない」こともありそうだし、 「楽器」「機械」としての耐用年数はどれくらいか、ウニカートであるゆえ、故障したらどうなるのか、などということの方が気になる。 初期値を与えたら永遠に動き続けるというのはプラトン主義的な理念の世界のことで、現実には機械は 人間のケアなしに動き続けることはないのである。それともDon't touchを、実は西欧の伝統において特別な意味を 持つ、あの「我に触れるな(Noli me tangere)」のように読み替えろとでも言うのか?

そしてこれは多分瑣末なことではない。「機械仕掛け」「自動」は勿論偽りではないが、だが、それは事態全体の半面にしか過ぎないように思われるのだ。 リッチズがわざわざ手作りの機械に拘る意図の所在は私の容喙するところではないが、こんなところで「手作りの良さ」を主張されても当惑するだけだし、 一方で、実はテクノロジー批判が秘められているのだとしても、それが作品に対して感じた疎遠な印象を救うことにはならない。 さらにまた、音楽時計もプレイヤーズ・ピアノも、恐らく制作コスト、耐用年数、故障率、維持管理コストなどなどといった尺度を適用することが できるし、また適切な対象だ。否、自動演奏機械だけではない。人間が演奏する楽器とてそういう点では変わるところはないだろう。 だが多分、リッチズの機械はそうした尺度からは自由なのだ。そしてその理由はといえば、それはこの機械が何ものにも奉仕しないから ではないか?

そしてそれは、いわゆる「ロボット」であろうとしているわけでもない。別に動物や人間のようなかたちをしているものだけがロボットではなく、 実際には工場のラインにはたくさんの産業用ロボットが活躍しているわけだが、仮にリッチズの機械が「オートマトン=自動人形」の実装の一形態で あったとしても、人がそれを「ロボット」と呼ぶための何かが、リッチズの演奏機械には決定的に欠けているのだ。 (何にも奉仕しない、という属性から、あるいは人はアシモフのロボット三原則を思い浮かべるかもしれない。あるいはロボットという言葉の 由来であるチャペックのチェコ語の原義に思いを致すかもしれない。そう、そういう意味合いにおいても、確かにこれはロボットではないのだろう。)


もっとも、こうした視点はそもそも「機械じかけの音楽」をテーマとしたこの展示にはお門違いなのだろう。音楽絡みということなら、 トヨタに頼んでトランペットを吹くロボットくらい連れてくるかと思ったのだが、このプロジェクトの関心はそちらにはないらしい。 まあ、歴史については「西欧の」という範囲限定があるらしいので、まずもって日本のロボットはそもそも対象外なのだろうが。 そしてこの点はリッチズの作品とその他の展示の対象に共通することかも知れないが、ここでは機械とは人間とは異なるもの、 端的に人間とは異なるものなのだ。しかもそれは例えば鳥のような人間とは異なる「被造物」とも違って、あくまでも人工物なのだ。


まるで出来上がったものよりも、そのようなものを設計し、組み立てることの方が大事であるかのように。 確かに完成した作品は、視覚的にも聴覚的にも観賞できるものになっているかも知れない。だが、機械がそのように動くことは 設計や製造の延長線にあって、それが「人の手を離れる」ことはない。設計したものは意図どおりに動かなくてはならないし、 精巧な仕掛けは、それを観賞する人を作り手、作者に送り返す。これはこれで「自動」であるかも知れないが、「自律」と呼ぶのは 躊躇われる。あるいは「自律」という言葉の捉え方に深い溝のようなものがある、というべきかも知れない。

私見では、マーチン・リッチズの楽器製作そのものは結局のところ「考える」というメタファーとはあまり関係がない。 「考える機械」(Thinking Machine)の命名者はどうやら三輪さんのようで、アルゴリズムも三輪さんの「蛇居拳算」で、 それを使うことを提案したのも三輪さんのようだ。命名に対する三輪さんの説明、要するにこれが「再生装置」ではなく、 「生成器」であるというのは間違いではないけれど、そういう意味では「考える機械」(Thinking Machine)という名称は、 リッチズの機械の独占物ではありえないだろう。「またりさま人形」がまず思い浮かぶし、例えば手順派による 逆シミュレーション音楽の実演は、その全体が「考える機械」(Thinking Machine)ではないのか?(どうでもいいが、 これはどことなく、意識のアポリアの問題ではお馴染みの、中国人によるニューロンのシミュレーションの思考実験を思わせる。) 勿論、逆シミュレーション音楽に「知性」を感じるのは無理な話で、その点では結論だけ見ればリッチズの機械と変わるところはないのだが、 いわば分散・協調型のシステムである「またりさま」に比べて、リッチズの作品は孤独で、どことなく自閉的な印象を覚える。 ひとりジャンケンみたいなもので、何が面白いの?という感じが付き纏うのである。いっそのこと音楽時計のような「再生装置」で、 素晴らしい音楽でも奏でれば、もっと長時間人の足を止めることもできるだろうが、リッチズの機械の奏でる「音楽」とは、 ずばり「機械のたてる音」なのだ。

機械のたてる音、機械化された工場がかつて持ちえたインパクトについては、未来派などの潮流や、有名なところでは例えば ラヴェルの「ボレロ」などにその痕跡が記録されているが、それとて端的な音響に対する驚きではなく、 機械の「正確さ」「自律性」を可能にするテクノロジーのアウラあってのものだったに違いない。 一方、リッチズの機械の方はと言えば、例えば水車小屋のたてる音、あるいはきっかけを与えると暫くは慣性で動き続ける 様々な機械やおもちゃの類の立てる音と大きく違うところはないように思われる。

勿論、三輪さんの意図が全くの無になることは無いけれど、でもこのレベルでは、結局は状態の数と遷移規則の 種類の問題に過ぎないし、ゆらぎのようなものを肯定的に捉えるにしても、それがこの機械固有のものなわけではないだろう。 二人とも「考える機械」という命名は大袈裟だと書いているが、何か意図したのだが及ばずに名前負けしたというよりは、根本的に ずれている感じがしてならないのである。それは共同制作という形態にまつわる問題なのかも知れないが、丁度、展示の コンセプトが分裂しているように、ここでもリッチズの機械への三輪さんのアイデアの接木は、あまりしっくりいっていない感じがして ならないのだ。例えば、リッチズの機械を、同じアルゴリズムを用いている三輪さんの「逆シミュレーション音楽」のあるヴァージョンと 比較してみるのは興味深い。ここで何が用いられ、何が無視されているか、その選択が何を意味するかを考えてみるべきなのだろう。 アルゴリズミックな方法論を採用することがアプリオリに結果を保証するものではないのは勿論、異なる土壌に移植された コンセプトは、最早同じ価値を持ちえない。三輪さんのコンセプトが孕んでいる毒の部分はここでは解毒されているように見えるが、 それとて歓迎すべきことなのかは疑問だ。洗い桶の水もろとも赤子を流してしまうことにはなっていないのだろうか。独身者の機械? そもそもこれは一体これはまだ「音楽」なのか?これは人間が聴くものなのか?

要するに、三輪さんのWebページの予告を見て私はもの凄く期待をしていたので、率直に言ってひどく拍子抜けしてしまったのだ。 勿論マーチン・リッチズの楽器には価値がない、と言いたいのではない。彼の取り組みに意義を見出す人がいるであろうことは 想像できるのだが、残念ながら私はあんまり興味を持てなかったというだけのことだ。あるいはまた、まさに私が抵抗を感じたその 理由が、別の人にとっては賞賛の理由そのものであるような事態だって考えられる。(実際、この文章を読んだある人は、 「これは、実は反語的に賞賛になっているという読み方もできる」と言ったほどである。)面白くないのか?―しばらくは機械が動くさまを 眺め、間歇的に鳴らされるチューブラー・ベルの音を聴いていたけど、それだけ。でも、お前はそれを見て色々と考えただろう、 それだけ刺激的な作品なんじゃないか、と言われるかも知れないが、率直に言ってあまり「楽しめなかった」のである。展示会 全体としての企画は非常に興味深いものだったけれど、リッチズの音楽機械について言えば、私にとってはそれが何か新しい発見を もたらすようなものではなかったし、温故知新にも、何かに対する相対的・批判的な認識への手がかりになることもなかった。 もっと端的に言えば、それが三輪さんとの共同作業の結果、「考える機械」(Thinking Machine)と名づけられなければ、 興味をひくことはなかったし、ネガティブであれポジティブであれ、あれこれ考えを巡らす対象にはならなかった。 限られた時間を思えば、それは素通りしてしまう多くの事象の側に分類されてしまっただろうと思う。

それにしてもこの違和感の原因は何だろう、と改めて思う。別にそれが、一見したところ時代錯誤な「手作り」でウニカートなもので あることが原因なわけではない。「機械じかけの音楽」に関心がないわけでもない。だが、何か決定的な齟齬があって、 「普通の音楽」、人間が作り、人間が演奏し、そして人間が聴く音楽、そこで使われる楽器の場合に比較して、なお 一層極端なかたちでその齟齬が現れているように感じられる。

上にも書いたのだけれど、これは「音楽」なのか?というのが最も端的な違和感の表明なのかもしれない。 そしてリッチズの作品とその他の展示の間に感じた懸隔もまた、この点に由来しているのではなかろうか。 実際にはそちらの方が中途半端なのだ、という批判はあるかも知れないが、それはさておき、古代以来の「機械じかけの音楽」に対する情熱には、 聴くことに対する人間の欲望が伴っていたように思える。たとえピタゴラス派の天球の音楽が、通常の聴覚では聴き取れないものとされていたとしても、である。 一方で、人間の限界を超えた何ものかに対する憧れというのもあって、その両者は論理的には相容れないものでありながら、 不可分であるかのようにいつも同居していたのだと思う。私見では、例えばクセナキスの音楽も、三輪さんの音楽も、 そうした背反を備えていて、だけれども、それがその営みを「音楽」にしていたのではないかと思う。

ではリッチズの音楽機械はどうなのか?意地悪な言い方をすれば、それは聴く人間の欲望に対しては無頓着だし、 人間の限界を超えるのではなく、その手前に閉じこもろうとしているように感じられた、ということだろう。そして、その両方の契機を 欠いたそれに、私は「音楽」を見出せないのだろう。 言うまでもなく、これは私個人の感じ方で、私がこういったからと言って、リッチズの作品が無価値だということにならないのは 勿論のことである。客観的な立場からの批評は別の問題であって、それはそうした資格と能力のある人の意見を聴けば良いのだ。 あるいはまた、主観的に「面白い」「素晴らしい」と感じる人がいても全く不思議ではない。 だが、私自身としては、客観的にそれが「間違い」であったとしても、そうした印象を偽ることはできない。 とてもがっかりしたのだけれども仕方ない。

ついでに言えば、別にそうした反感が、リッチズの作品が一見したところ時代錯誤な「手作り」でウニカートなものであることが 原因なわけではないことは、先日の自動ピアノコンサートでの経験と照らし合わせてみれば明らかなことのように思われる。 先日の自動ピアノコンサートでは、最新鋭のテクノロジーに支えられたマルチメディア作品―それは、示唆的なことに 「絶対音楽」「絶対イメージ」と命名されていた―がトラブルのために充分にリアライズできなかったが、私にはそうしたトラブルへの 頑健性のようなものも作品の一部に思われた。実際にはこれはひどく不当な態度というべきで、いわゆる「芸術」の世界での 価値観や事情は異なるのだろうと思いつつも、思わず私が普段生きている社会集団でのスタンダードを投影してしまったのである。 それにしても「絶対音楽」「絶対イメージ」って何なのだろう。作品を思い起こし、反芻しても杳として答が得られそうにはない。 そしてリッチズの機械に対しても、思わずそのようなスタンスを持ってしまったのだと思う。あるいはこれもまた一種の「絶対音楽」 なのだろうか?「絶対音楽機械」?なにものにも奉仕しないがゆえに、トラブルに対してアプリオリに無辜な存在?

もっと言えば、これに1200時間かけたというのを読んで絶句してしまった。しかもたった半年で1200時間。一日8時間として 150日である。180日のうち150日。自分の時間をお金に替えて日々の糧を得ることに汲々としている私のような人間にとって、 それはもはや想像の限界を超えている。同じ時間を与えられたって、どうせ私に何かできる訳ではないのだから、 これが不当な感じ方であることは自覚しているけれど、それにしても1200時間は凄い。しかも半年間にそれだけの 時間を投入できるなんて。見る人が見れば、「さすが1200時間かけただけのことはある」「やはり時間をかけなければ 素晴らしい作品は生まれないのだ」ということになるのだろうが、私には溜息しか出ない。強いて言えば、そうした時間の 使い方は、作品がそれに見合った金額で買い取られる保証があるとか、何らかのサポートなしには不可能だろう。 思えばこの展示も、自動ピアノのコンサートも無料なのだ。にも関わらず、受益者である個人に対してカンパを募ったり、 スポンサーを公募したりという話は、寡聞にして聞かない。もっとも、パンフレットを見れば、きちんとスポンサーや協賛企業が 記載されている。つまりそうした仕組みは、享受者とは別のところできちんと整備されているということなのだろう。 コンサートこそ盛況だったけれど、訪問する人間のまばらなこと、自分がそのうちの一人であることを思えば、受益者の 最たるものであろう自分に何かを言う権利などないのかも知れないが。

そして私としては、こうしたサポートを行う仕組みの方に寧ろ賛嘆の念を覚えるのである。リッチズがその半年で、自分の 思うような作品の創作に打ち込めたのだとしたら、それは無条件で素晴らしいことではないか。リッチズのあの機械、 人もまばらな博物館の中で、ときおり人が訪れる間だけ、スタッフの手によって初期値を与えられては間歇的にベルの 音をたてるあの機械は、その中に1200時間もの時間を閉じ込めているのだ。しかもそれは、いかなるものへの奉仕も求められず、 隔離されて慎重に管理され、なおかつ維持・管理コストや故障率といった尺度から自由な機械なのだ。 改めて「アート」の世界、それを支える社会的・経済的なメカニズムが自分とどんなに疎遠なものかを痛感せずにはいられない。 同じ時代と場所を共有しながら、それは何と自分からは遠く感じられることか、、、

(2007.11.28初稿, 11.29, 12.12加筆・修正)

[付記]

最後にもう何点か、本文で書けなかったことを補足しておきたい。

  1. 色々書いたが、結局、リッチズの機械はちゃんと動いている。「動いてなんぼ」「納期遵守」という観点から言えば、 リッチズの作業は非の打ち所がないことを確認しておきたい。頑健性にしても同じ事で、では私が普段生きている社会集団で それらがきちんと達成できているかを顧みれば、上に書いた言葉は自分に降りかかってくるものになるのは明らかなのである。 自戒の念をこめて追記しておきたいと思う。

  2. Thinking Machineの帰属や存在理由というのは、だが、いずれにしても問題として残るように思われる。例えば私は、こんなことを 考えた。この展示が終わったら一体「考える機械」はどうなってしまうのか?そもそも、それは存在し続けるのか、どこに置かれるのか? 上ではあたかも、それでもそれが「利用」され続けることが前提であるが如くに書いたが、本当はその点は全く自明ではない。 実は既に決まっているのかもしれないが、是非、機械の行く末を知りたいものだと思う。プログラムは保管という点では有利だが、 早晩、ハードウェアの互換性や移植の問題に直面する。その一方で、有体物たる機械は、上述した利用を継続する上での 保守・維持管理の問題もあるし、それが使われなくても、それはそれで保管の問題に突き当たる筈だ。

  3. そしてここで、[はじめに]で言及した問題に戻る。この機械は一体誰のものなのだろう。「Thinking Machineの帰属」と書いたのは、 だから、誰が作ったか、誰のために作ったか、誰が所有するのか、といった幾つかの側面をひっくるめてのことである。 勿論、そこには委嘱、共同制作といった仕組みの問題も含まれる。これも最初に述べた「匿名性」の問題もある。 なんなら知的財産権や所有権といったレベルの存在を思い起こしてもいいのだ。(ちなみに、良く知られているように、 プログラムの世界では、これは非常にクリティカルな問題である。だが芸術作品だって決して例外ではない筈だ。それどころか 第一義的に「機能」や「新規性」ではなく「個性」や「独創性」が重視される世界には、独特の困難があるだろう。)
    実は、別のところにも既に何度か書いているように、「誰のためのものでもない機械」という考えは、私にとっても魅惑的なものなのである。 だが現実には、人間なしに「音楽」が存在し得ないといった議論よりも遥かに手前の水準で、既にそれは御伽噺に過ぎない。 コンピュータネットワーク上のソフトウェアの方が、手作りの巨大な機械に比べたら、まだ可能性が高いのではないかという気がする。 そういう意味では、上に書いた「何にも奉仕しない」というのすら、ある意味で既に作品の土俵に乗った言い方なのである。
    そうしてみると、実は私が今回の展示で感じたのは、そのことに対する幻滅だったのかも知れない。(2007.11.30追記)

(2024.6.23 noteにて公開)

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