魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(21)
21.
だが、それと同時に、ジッドがもしかしたら気付かなかった位相があることを見過ごすわけにはいかないだろう。 ここでは盲目性が問題になっており、聴覚による視覚への代補が問題になっている。 一方で、タイトルにさえなっている「田園交響楽」は、聴覚に障害を負ってしまい、遺書までしたためた人間の書いた音楽なのだ。 ベートーヴェンは自分の中を流れる音楽と外界に鳴り響く音の間に横たわる深淵を覗き込んで、その上でこの作品を書いたのだ。 ジッドの研究サイドでは、どうしてこの点を取り上げないのか。
いや、それ以前にそもそも、ジッドは盲目性そのものをまずきちんと扱えているのかどうかを まず問うべきだろう。器質的な視覚のハンディキャップに対する無理解は、そのままイエスの奇跡の意義や重みに対する(それこそ、ジッドと 牧師お気に入りの、頭で考えたのではない)受け止め方の限界と結びついているのではないかという点を問うべきだろう。端的に言えば ここでは文章で表現をする人間の、書き手の依拠する媒体に制約された限界を、認識の限界を、己の器官の可視領域と解像度に基づく歪みを 忘れて、恰も対象自体の状態がそうであるかに読み手に受け取られてしまいかねない点が問題なのだ。厳密に言えば、言葉の媒介を介して 視覚に翻訳可能である限りのジェルトリュードは恰も存在していないかの如くなのであり、自分の認識の盲点に勝手にタブララサを、 ルソー的な自然状態を仮構しているに過ぎないのではないか。否、牧師が最初に手帖を書こうと思った動機は、まさに、恩寵を記録し、遺すことで あったのであって、最初の意図は正しかったのだ。では、どこがいけなかったのか?どこから過誤が入り込んだのか?実は問うべきはその部分に あるのではないか?作者ジッドの次元においても、もともとの若き日の執筆動機は何で、それが何の力によってどう歪められていったのかを 追跡し、だがこのように遺され、読み継がれている事実を、そうした力学の中で記述してやらなくてはならないのではないか?
こうした観点から映画化された作品とジッドの原作の違いをもう一度検討してみると、媒体の相違に起因するものは、物語自体が内容的に視覚・聴覚といった 感覚を素材としているが故に、他の作品の映画化よりも本質的なものとなっていると考えるべきであるという点がすぐさま明らかになる。 映画は言語を媒介することなく、直接、視覚と聴覚を利用することができる一方で、触覚はそれを一般には視覚、遥かに限定された仕方での聴覚を 経由した間接的な仕方でしか表現できない。ドラノワの映画は、オーリックの音楽を用いることで、ベートーヴェンへの参照を避ける一方(だからヌーシャテルの 「田園交響楽」のコンサートは全く登場しないし、モノクロ映画という制約ゆえか、色彩と音色の共感覚もまた取り上げられない)、物語中の会話は 聴覚によって普通に再現されてしまう(それが盲人との対話であることに聴いているだけでは気付かない)から、ジェルトリュードの視覚のハンディキャップを 視覚的に提示せざるを得ない。だが他方で、彼女が聴覚をどのように代補として用いているのかの提示を映画がすることは困難だ。 せいぜいが、目ではなく耳を注意の対象に向ける様の提示くらいしか手段は用意されていない。そこで前面に出るのは、触覚による代補の側面となる。 原作にはない、躓きながら外を歩く場面もそうだが、最も決定的なのは、視覚を獲得した彼女が、同じ年頃の女性の友人達に囲まれて、相手を同定するように求められたとき、 それまで用いていた触覚に頼って正確に同定してみせるという、原作には全くない、だが科学的には全く妥当なシーンだろう。勿論、視覚を獲得する以前において、彼女を 原点においた展望を提示するショットは注意深く避けられるから、いきおい作品のほとんどにおいて、彼女は外部の視点からのみもっぱら写されることになる。
更には、視覚を奪われた人間にとっては、そもそも映画という媒体そのものが意味を成さなくなる点にも留意しよう。要するに、映画というのは本質的に、 ジェルトリュードの立場に立った世界の展望を映し出すことが不可能な媒体なのである。視覚を獲得する以前のジェルトリュード自身が映画を見ることは、 文字通り不可能であり、聴覚的な伝達は可能であっても、触覚による代補は媒体の制約上不可能であって、映画という媒体の方が、ハンディキャップを 負っているという言い方すらできるだろう。
だがそれでは、ジッドの物語の方はどうか?点字の書物であれば、ジェルトリュード自身が、この牧師の日記を読むことはできる。実際、映画には 指先で字を追うジェルトリュードを写すショットもきちんと用意されているのだ。だが、にも関わらず、ジッドの作品は、聴覚との共感覚という脆弱な媒介に 依拠した想像上の視覚の世界にばかり夢中になっていて、ジェルトリュードの現実には関心がないかのようだ。牧師は(そして作者ジッドは)、最初に そう宣言してみたものの、実際にはジェルトリュードの成長の記録にはほとんど興味がないかのようで、成長の過程は、それが他の事例と比べて変わる ところがないという理由であっさり割愛されてしまう。映画では「手帖」は何冊にもなり、彼女の成長の同時的な観察記録として設定されているのに対し、 ジッドの物語の牧師は、雪が降って生じた閑暇によって遅ればせの記録をすべく回想を始めるが、所詮、関心がないものを覚えているわけがない。 ジッド自身、そうした側面には関心がなく、大した取材も調査もしなかったのかも知れない。
勿論、触覚に纏わる描写がないわけではないのだが、実際には アメリーやジャックに対する触覚的・身体的コミュニケーションの方が寧ろクローズアップされているかの印象すら抱きかねないほどで、 ジェルトリュードが盲人であるということが持つであろう、コミュニケーションにおける各感覚の配分や重要性の相違といった点は、全く無視されている。 本当の意味での器質的なハンディキャップなどジッドにとってはどうでも良いことのようにしか見えない。ドラノワの映画は、映画という媒体自体の制限から、 器質的なハンディキャップに対して無力であり、その反面、器質的なハンディキャップを外部から描写することについては寧ろ徹底せざるを得ないのに対し、 ジッドの物語は、器質的なハンディキャップになど関心はなく、主な代補となるはずの触覚は全く無視し、聴覚もそれ自体ではなく、共感覚を経由した 視覚の虚像を文章によって描き出すことにしか関心を示さない。要するにここでは共感覚は、そうしたジッドのいわば偏向の隠れ蓑として利用されている だけに見える。「田園交響楽」と題されてはいても、この物語は視覚の優位を暗黙の前提とした構造を持っていて、視覚の欠如については、 (聖書的な比喩を経由しつつ)ルソー的なパラダイスの状態にすり替えてしまうのだ。ジェルトリュードが語るとされるけばけばしいばかりの虚構の楽園の風景は、 本当に彼女が語ったものなのだろうか。それは牧師がでっちあげ、彼女に押し付けたもの、まさに聖書の恣意的な読解に基づく検閲によって、現実に対する 己の盲目を彼女に押し付けて破滅に追いやった、モラルの上での過失と構造的に対応する、彼が彼女に押し付けた風景ではないのか。
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