見出し画像

「夢のガラクタ市」システム改訂版初演を聴いて

篠崎史子 ハープの個展XI ハープとエレクトロニクスの作品を集めて
2009年11月10日 サントリーホール ブルーローズ(小ホール)

三輪眞弘:「夢のガラクタ市」前奏曲とリート(1990/2009)システム改訂版 Trödelmarkt der Träume - Vorspiel und Lied -
ハープ:篠崎史子、エレクトロニクス:有馬純寿

「夢のガラクタ市」が作曲されてからもう20年近い時間が経過しているけれど、この作品はCD「赤ずきんちゃん伴奏器」に収録されているから、私はこれをこれまで 専ら「録楽」として聴いてきた。それが再演されるということで、会社から直接、今にも雨が降り出しそうな気配の空気の中、サントリーホールに向かう。大ホールの公演と 重なっていて、30分前にならなければ扉が開かないホールの前の空間はごったがえしている。あわてて、かつて(やはり20年程前のことだ)そこに職場があった森ビルの中に 避難するが、中の様子も変わってしまっていて、開場時間を確かめずに移動して、やや早めについてしまったことを些か後悔する。この前サントリーホールに来たのは 何時のことだったか、仕事で近くまで来ることはちょくちょくあるのだが、などと考えているうちに開場となり、これは初めての小ホールに席を確保(自由席だったので)して少しほっとする。

ハープ奏者の篠崎さんの個展形式のコンサートは11回目、しかも篠崎さんは三輪さんのハープのための「すべての時間」の初演者(第8回の2001年10月19日東京文化会館 での個展で初演)なのだが、コンサートが苦手な私が実演に接するのは初めてである。今回はハープとエレクトロニクスの作品を集めてということで、 いわゆる「現代音楽」のコンサートということになるのだろう。エレクトロニクスは有馬純寿さんが担当されていて、これは伝統的な意味での「楽器」ではなく、 従って「演奏者」ではないのだろうが、実質的には2人の協同作業であった。 プログラムはすべて作曲者の異なる6曲から構成され、休憩を挟んだ前半が前世紀の作品、後半が2つの委嘱新作初演を含んだ最近の作品が年代順に排列されて いて、「夢のガラクタ市」は前半の最後であった。

6月に聴いた「虹機械第2番」を含む井上郷子さんのコンサートもそうであったように、今回もまた奏者の篠崎さんの技量の高さと作品に対する姿勢に瞠目する一方で、 ハープとエレクトロニクスの作品ということで集められた6曲のそれぞれの実質のあまりの違いの大きさに再び驚かされた。繰り返しになるが、 「メディア」といい「エレクトロニクス」といい、伝統的な意味での個別の「楽器」でないのは勿論のことだが、それだけに一層、技術的な利用の可能性の巨大さに対峙するには とてつもない想像力、構想力を要求されるように思われる。人間の奏者が介在しない作品であっても、聴き手である人間との間の関係が問題になるが、ここでは 人間の奏者と、人間が演奏するハープという楽器との間の関係をも引き受けなければならない。勿論、立場はそれぞれで、ハープという楽器を変容させて別の楽器を 作り出そうとする行きかたもあれば、音に対する様々な操作の可能性の拡張をある意味では素直に使いきろうとする立場もあるだろう。こうした状況下で、奏者は伝統的な 作品の演奏では遭遇しないような立場(自分の場所が実は存在していない、という状況も含めて)に置かれることになるのだが、2つの委嘱新作が含まれるにも関わらず、 自分の位置を的確に把握し、作品の持つ可能性をリアライズしていく篠崎さんの演奏には圧倒的なものがあった。勿論、演奏者がどのように感じ、考えて作品に向かって いるのか、演奏をしている最中に何が起きているのかを聴き手が直接知ることはできず、リアライズされた「音楽」を通して想像するしかない。けれども、演奏者と作品との 関係が聴き手に影響を及ぼすのは確かなことで、とりわけCD等の媒体に記録された「録楽」ではなく、実演に接する場合には、そうしたことが一層はっきりと感じ取れるようだ。 一般には聴き手は作品を外部から眺めることになっていると考えられているのかも知れないが、その構造は絶対的・必然的なものではない。稀ではあるが、聴き手もまた 作品が構築する世界の中の項として位置づけられているように感じられる瞬間というのがないわけではないのだ。「夢のガラクタ市」を聴いて私が感じたのは、まさにそうした 感覚だったように思える。

そうした感覚の由来について考えてみるに、それは人間の奏者間の合奏を聴くのとも異なるし、ハープの音を音響的に外から加工・変形したりするのとも異なる。 多重録音で同一の奏者が擬似的な「合奏」を行うのとも異なる。テープに録音された音を聴きながら、それに反応して奏者が楽器を鳴らすのでもないようだ。 その一方で、確定的な記譜に従っているのか、即興なのかといった軸に単純に添っているわけでもなさそうだ。勿論、コンピュータによる自動演奏が無条件にそれを 担保するわけではないのは明らかだが、少なくともここではエレクトロニクス技術によってそれが実現されているのは確実なことだろう。実現された音響だけが問題なのではない、 というのは三輪さんの作品の常ではあるが、逆シミュレーション音楽より以前のこの作品においても明確であり、左右のスピーカーから、ハープの音が聴こえてくることが、 音響の空間的な配置といった効果の次元ではなく、そこにファンタスマとして奏者(の幻影)を浮かび上がらせる点がユニークなのだ。それは能のような伝統芸能の定められた楽器の奏法や シテの所作が状況に応じて様々な意味を帯び、例えば微かに上向いた能面によって仮構された視線の先に、あるいは差し伸べられた指の先に対象が浮かび上がるのに寧ろ近い。

ハープ奏者が歌い始めると、聴き手はそれがエレクトロニクス技術を駆使した「現代音楽」であることなど忘れてしまう。歌詞は未だ書かれてはいない伝承を予告するし、 ハープはまるで箜篌やアングルハープの如き、復元楽器のようだ。三輪さんにはハープや琴など、撥弦楽器の奏者のための作品の系列があるが、この「夢のガラクタ市」は そうした作品の原点に位置しているという見方もできるだろう。確かにまだここでは、コマンドを発して音響の構造を操作するのはハープ奏者であり、実際は独り舞台では ないかという見方もできるかも知れない。だが、少なくとも聴き手であった私にとっては、そのような還元主義的な言い方は自分が経験した「音楽」の実質を損なってしまうものでしかない。 恐らくある一線があって、臨界を超えると手前では奏者の影に過ぎなかったはずのものと奏者の間に相互作用が実際に生じるのではないだろうか。勿論それは虚構との対話なのだが、 そこで起きた相互作用自体は虚構ではない。実際、ハープや琴といった楽器は、古来神のお告げを聴くのに用いられた呪術的な性質を帯びたもので、とりわけ 前奏曲が終わってリートが始まると、そうした印象が一層強まるのを感じずにはいられない。近年の三輪さんは例えば「新調性主義」の文脈で、中世におけるような音楽のあり方に 言及されることが多いが、「夢のガラクタ市」は既にそうした志向を強く備えていた作品であると私には感じられた。ハープのソロのコンサートは初めてなのに既視感がある理由を 探ってみると、何のことはない、アングルハープや箜篌といった復元楽器の演奏には既に接しているからなのであった。

私がこの公演に対して関心を抱いていた理由の一つが、この公演がこれまたある種の復元、すなわちシステム改訂版の初演であることであった。以前別のところにも書いたが、コンピュータ技術の進展の スピードは非常に速く、作品をインプリメントした環境が最早利用不可能になるといった事態が比較的短期間のうちに発生しうる。まさにこの作品の場合がそれにあたり、 20年前に用いた環境から、現在利用できる環境への移植作業が作曲者によって為されたのだが、こうした事態はソフトウェアの世界ではごく当たり前であっても、 音楽作品のあり方としてはまだまだ普通ではないだろう。私にとってとりわけ興味深いのは、移植が必要であるという事態もさることながら、移植が可能であること、そして その移植可能性はアルゴリズムの同一性に依拠しているに違いないということである。もし結果として実現された音響の同一性だけが欲しければ結果を録音したメディアが保存され、それが 再生可能であれば作品自体が保存されたといいうるだろうし、翻って普通の音楽であれば、記譜法が伝承され、解読可能な状態で楽譜があれば、あるいは記譜法は なくても口伝があれば、それが作品の保存と同義ということになっているはずだ(そのことの当否はここでは論じない)。勿論その前提として、奏者である人間が変わらずに 存在し、楽器とその奏法が廃れずに伝承されているという環境があるのだが。ここでは作品の再演の定義自体が移動しているのは明らかで、そういった点でも三輪さんの作品は 異色の存在といいうるのはなかろうか。それが本当に同一であるかは措くとして(否、実際には「同一」であるわけがないが)数百年の昔の「音楽」が今でも継承されているかと 思えば、ほんの数十年前の作品でももはや復元が困難ものがあるに違いない。余計な心配かも知れないが、今回改訂された「夢のガラクタ市」以外の初期の作品は どのような状況にあるのだろうか。あるいは数十年後、もう一度今回の移植のターゲット環境が最早利用できなくなる事態が再現したら、、、

実は「夢のガラクタ市」について書くのは、私にとって非常に難しい。その理由は私はこの作品が特に好きだからなのだと思う。人は愛するものについて語り損なうと言われるが、 まさにそれが私の場合、この作品について当て嵌まりそうなのである。私はそれまでCDで「録楽」として聴いていてさえ、しばしばこの作品を聴いていて涙が出そうになることがあった。 そして実演で、コンサート会場でもそれが起きてしまった。ハープを弾きながら歌われる歌、異国の言葉で歌われる歌は、けれどもしんしんと心に響き、染み透って来る。自分が「世の成り行き」の中で 忘れかかった何かに引き戻されるような、不思議な懐かしさを伴ったような感覚に捉われる。もしかしたらそれは、エレクトロニクスの力を借りずとも、ハープの演奏と歌に よってだけでも可能なのかも知れない。けれども、ここではコンサートホールの空間に一瞬だけ別の時間と空間が浮かび上がるきっかけを与える魔法の道具となったハープと、 エレクトロニクスによってこれまた仮想的に喚起された2番目、3番目の奏者の幻影が、もう一つ別の世界を成立させ、その世界の中に奏者である篠崎さんを位置づけ、 聴き手である我々を位置づけるのだ。メディアがもたらす「夢」を語るのなら、こうした状況について語るべきなのではないか。勿論それは原理的には悪夢にも転じうるものだし、 その一方では音楽作品がそもそも仮象に過ぎない以上、「夢」でしかありえないのかも知れない(あるいはむしろ「夢」にとどまるべきなのかも知れない)が、そうした「夢」を 見る能力こそが必要なものなのだ。それが「音楽」である以上、「音」の向こうに何が見えて(聴こえて)くるかが問題なのだと思えてならない。それがたとえ夢であっても、幽霊であったとしても。 私には今回の演奏の解釈について云々する資格も能力もないが、私が「夢のガラクタ市」に聴き取りたいと感じていたものは、確かに聴き取れたと思う。そして演奏が終わって拍手が 起き、休憩に入ってしばらくしても、音楽によって引き込まれたモードから抜け出せずにいた。結果として休憩後の音楽の「聴こえ方」がかなり変容してしまったように感じられる。 あるいは休憩の時点で会場を後にすべきだったのかも知れないとも思う。

そうしたわけで、三輪さんの作品の中でもとりわけこの作品について客観的に語ることは私にはできないから、ここではこの作品の移植が成功し、見事に再演されたことに 対するお祝いの気持ちとともに、この作品に実演で接することができたことについて、篠崎さん、有馬さんと、三輪さんに感謝の言葉を述べるだけにしたいが、 最後に一つだけ「すべての時間」の再演も機会があれば是非聴いてみたいと思ったことを聴き手の小さな「夢」として書き添えておきたい。 2001年の初演の際の出来事を「洪水」の三輪眞弘特集号に寄稿された文章の中で木戸敏郎さんが触れておられたが、そこで言及されていた石井真木さんの 批判的なコメントに対して私は一応論理的には納得すると同時に、微妙な、だがはっきりとした違和感が残るのを感じずにはいられなかった。 そして今回の「夢のガラクタ市」の篠崎さんの演奏に接して、実際に自分の耳で確認せずにはいられない気持ちになっている。 能うことならば、木戸さんの復元楽器(各種のアングルハープ)や琴など、「神の楽器」たちのために書かれた音楽の中にそれを位置づけてみたいし、 他方で最近の「新調性主義」の枠組みにハープを位置づけたらどうなるだろうという関心もあって興味は尽きない。

(2009.11.14初稿, 2024.6.24 noteにて公開)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?