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「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」新作発表・演奏会について(「新作都々逸」の感想)

「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」
新作発表・演奏会「声と機械」
2009年12月20日東京大学駒場キャンパス18号館ホール

研究報告・プレゼンテーション:フォルマント兄弟(三輪眞弘・佐近田展康)
コメンテーター:嵯峨山茂樹
演奏会:フォルマント兄弟(三輪眞弘・佐近田展康)「新作都々逸」(キーボード:岡野勇仁、三弦:田中悠美子)

「機械じかけの音楽」は日本学術振興会科学研究費補助金プロジェクト「音楽文化における機械の役割‐その歴史・現状に関する多面的分析と展望」(研究代表:ヘルマン・ゴチェフスキ)が 主催する展示・演奏会・シンポジウムであり、2007年12月には東京大学駒場キャンパスにて駒場博物館での展示と併せた催しがあり、その感想を記したことがある。今回の催しはプロジェクトの 最後の企画ということで、三輪さんの提案に基づきマーチン・リッチズが製作したThinking Machineの展示、ここで報告しようとしている演奏会、そして演奏会に続けて行われたシンポジウムで 構成されていた。前回は博物館の展示があったせいかキャンパス内外での事前告知があったようだが、今回は私の見聞きする限りではそうしたことは為されなかったようだ。もっとも、にも関わらず演奏会を 訪れた人数は企画サイドも含めて約60人程度であり、前回と同程度であったから、その限りではコスト・パフォーマンスを考えれば最適化が図られていたということなのかも知れない。裏返せば、前回も今回も、 例えば三輪さんのWebページの告知でそれを知って訪れた人間(例えば私)を除けば、いわゆる「口コミ」で集まった人々のための催しに事実上なっていたということでもある。学術的な活動の一環と して見れば、寧ろこうした一般公開の催しがあること自体、評価さるべきスタンスなのかも知れないが、何となく、Thinking Machineと作品発表(前回は三輪さんの、今回はフォルマント兄弟名義で 三輪さん・佐近田さん共作の)があればこそ、という感も無きにしも非ずで、プロジェクトの「業績」(この言葉は、会場でようやく入手できた今回の企画のパンフレットで用いられていたのをここで借りて いるのだが)として他に一体何があるのか、外部の人間には分かりづらくなっているのは否み難い。もっともこれは決して批判ではなく、目に見えない成果を見せることの難しさを、分野も立場も 異なるけれども常日頃我が事として感じている人間であるためか、大きなお世話かも知れないが、ここでもまた感じたというに過ぎない。プロジェクト全体の評価は然るべき文脈で為されるべきであって、 私如きが能く容喙する如きものではないのだから。いずれにしても本来は外部への公開などせずに研究成果をまとめてよしとする選択肢もある中、このような公開の催しを企画され、実行されたことに 対して、ここで敬意を表しておきたい。なお、個人的なスケジュールの都合で、当日の企画のうち最後のシンポジウムは参加できなかったので、ここではフォルマント兄弟の新作発表・演奏会のみに ついて記すことになる。

時間は14:00から16:00までで、最初に今年のArs Electronicaで Honorary Mentionを受賞した 「フレディーの墓/インターナショナル」の演奏、その後フォルマント兄弟、 主としてプロジェクト後期のメンバーである佐近田さんによる報告があり、その中で「兄弟deピザ注文」の映像も紹介された。 その後、工学的なアプローチから音声・音響処理、音楽情報処理など広範な分野で研究をされている嵯峨山先生のコメントがあり、ステージの設定の準備時間のための10分間の休憩の後、 最後に「新作都々逸」の演奏といった順序で行われた。ほぼ予定通りのスケジュールで進んだが、個人的には、嵯峨山先生のコメントはそれを展開して討議すべき 内容を多々含んでいたように思われ、時間の制約のためにそれが為されなかったことが残念に思われた。今回のプロジェクトのテーマからは逸脱してしまうのかも知れないが、私個人の展望から すれば、必要でありながら困難さゆえに充分にはなされていない対話が成立する条件が備わっている場と感じられただけに一層そうした感じを強くする。一昨年のシンポジウムの時も感じたことだが、 予め場が一方通行にしかならないように設定されているような気がしてならない。後半のシンポジウムは聴いていないので断定は慎むべきだろうが、そこで予告されているパネリストはすべて音楽学者であり、 前回のシンポジウムでは存在した作曲の現場と音楽学という対比すら欠いている。個人的にはパネリストの先生は、マーラーの音楽に関する研究や論説などを通して私のような市井の愛好家ですら 名前を良く知っている方々で、 だからテーマがテーマなら聞き逃せないのだけれど、マーラーならともかく、今回のテーマ「音楽文化における機械の役割」を考えるにあたって、音楽を美学的、社会学的な視点で分析・研究する方向から のみの知見で充分とは思われない。 音楽がテクノロジーに囲繞され、侵食されているというのは通時的には別段、現在だけの事象ではないのだろうが、それでも現在の状況の固有性というのはあるに違いないし、リアルタイムの創造の現場からの成果が プロジェクトの中で生まれているのであれば、それを扱うのには音楽が置かれている状況を外から眺める視点の介入と、それに対する音楽や音楽学の立場からの反応こそ私のような外部の人間には不可欠と 感じられてならないのである。そんなことをしたら議論が発散してしまってシンポジウムの場が有益なものとなりえないという反論に対しては、前回のシンポジウムのコヒーレンスを辛うじて維持していたのは他ならぬ Thinking Machineであり、Thinking Machineを軸とした様々な立場からの見解の交錯こそが興味深いもので、立場を同じくするはずの音楽学者の議論の方が寧ろ発散気味であったように私には 感じられたという事例をもって応えたい。今回のコメント中で嵯峨山先生はThinking Machineについてのコメントもされており、それは寧ろ前回のシンポジウムの場におかれていれば、と感じられ、 今回のような一方通行のコメントで終わってしまうことが残念に思われた。 最初に書いたように、作曲や制作の成果物はアピールしやすいから、 ややもするとアリバイみたいなことになりかねない。研究は研究として、公開の場ではいっそのことThinking Machineなり、フォルマント兄弟の新作なりに的を絞って、そのかわりじっくりと多角的に分析した 方がインパクトはあったのではないかという気がする。時間の都合もあって止むを得ない部分もあると思うけれども、せめてコメントに対するフォルマント兄弟の応答を聞きたかった。恐らくはフォルマント兄弟自身に とっては、嵯峨山先生のコメントのチュートリアル的な側面は既知の事実であったに違いないが、テクノロジーの到達点からの展望にフォルマント兄弟が採用している技術を定位する作業自体は無意味ではないし、 とりわけ「現場」の事情を身をもって経験しているわけではない人々(恐らくその場にもいたであろうと推量される)に対しては必要なことであったのではないかと私には思われる。その一方で、アートの立場と自己の立場を 峻別されて話をされた嵯峨山先生の姿勢がアートとテクノロジーの擦れ違いを象徴していたという見方も出来ようが、それは無いものねだりなのではないかという感じも否みがたい。仮にアートを抜きにしたとして、 テクノロジーはテクノロジーでそれが社会的・倫理的な側面に与えるインパクトについての責任に思いを致していくのは、人工知能研究の歴史で生じたそうしたリアクションの例(イライザの 開発者であるワイゼンバウムや、SHRDLUの開発者であるウィノグラードを思い浮かべていただければ良い)からも窺うことができるだろう。こう言ったからといってアートの持つ力を些かも軽視しているわけではなく、 この点ではヘーゲル的な同一性に対して主観的直接性を擁護しようとしたキルケゴールにおける3段階の序列に異議を唱え、美的意識を擁護したアドルノの立場が最も共感できると感じているのだし、 フォルマント兄弟の活動は狭義での美的なものには囚われていないのであってみれば、寧ろここにこそ可能性があると考えているのだが。

「フレディーの墓/インターナショナル」はこれまでYouTubeなどを通じ、編集された作品を再生する形態で接することができたのだが、今回はそれとは異なって、岡野さんがキーボードを演奏することに よりリアルタイムで音声合成を行う形態でのリアリゼーションであった。フォルマント兄弟名義の活動の最も際立った特徴の一つがリアルタイム性(お望みなら現前性と言い換えて、「声と現象」の デリダなどへの補助線を引いても構わないが)であり、キーボードに日本語の音素をマップする規格(「兄弟式日本語鍵盤音素変換標準規格」)といった、見方によっては特許出願が似つかわしいような 「発明」も、そうしたリアルタイム性の要請を「発明の母」をしている。鍵盤の右手の音域にピッチ、左手の音域に音素というように別々の機能を与えるのは、例えば中世のオルガンにおける音栓分割にも通じる 現場の知恵的な工夫で、私は奇妙なレトロ感を抱いたが、そもそもがフォルマント合成自体、嵯峨山先生も指摘されていたように、現在の工学的な音声合成技術ではほとんど用いられないことを 考えれば、フォルマント兄弟の活動自体が意図的であるかを問わず、アナクロニー(デリダがお好きな方はこれをレヴィナスの用語法に絡めた上で、更に「差延」に関連づけても結構)を孕んでいると考えられる。 これは実用的な技術が最先端の技術と一致しないといった、私が職業としている領域でしばしば起きる事態とは必ずしも同じではない。寧ろ(嵯峨山先生は、両者に共通性があることを示唆されていたと 記憶するが)Thinking Machineにも通じる、実用的な観点(安定性や操作・調整・保守等の容易性など)とは異なった理由に基づく、意図的な素材(としての技術:ここでは「素材」をアドルノ的に拡大された 意味合いで用いる)の選択と感じられたのである。 「フレディーの墓/インターナショナル」で合成された音声が、「実物」とどれくらい類似しているかを評価することが私にはできないことは別のところに書いたが、それをおいても、いわば「お化粧」を 施された編集済みバージョンとは異なって、リアルタイムに合成された音声には、特に子音の調音や音のわたりなどに機械特有のぎこちなさが否応なく感じられ、それもレトロ感の増幅に寄与しているのは間違いない。 寧ろ私にはそれは、現時点では積極的に「機械らしさ」の記号となっているようにすら感じられるのである。無視してはならないのは、技術的には(リアルタイムという条件をおいてもなお)より「自然な」合成音声による 歌唱の実現が可能に違いないという現実であり、その中に、フォルマント兄弟の試みをどう位置づけるかが問題なのではないのかと私には思われてならない。

だが、こうした姿勢は少なくとも、フォルマント兄弟が 「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブという「論考」(以下「論考」と略する)で要請しているような姿勢でないことは確かだろう。だが、それを言い出せば、リアルタイム演奏での音声合成による、 その場にはいない人間の音声の模倣のパフォーマンス自体(私には岡野さんがキーボードを弾き、まるで聴き取ってもらえないことを恐れる最近の「官製」の日本の伝統芸能のようにスクリーンに映し出された 歌詞とともに国際音声字母が単調に表示されるのが見える)が、「随伴性」「事後性」とどう関係するのかは自明なこととは言えまい。 勿論、作曲やパフォーマンスがそれを産み出す母体となったコンセプトとぴったり一致する必要はないし、 寧ろ、そうであれば退屈な技術プレゼンテーションになってしまうだろうが、この催しが研究成果の発表であるという立場をとれば、私にはそこには混乱があるように思われてならない。仮に、既に作者の視点は 「論考」の時点から移動していて、ここでは「死体なき幽霊」は最早どうでも良いのであればそれでもいいが、であればそれを明示しなければ、作品としてはともかくも、研究発表としては一貫しないのではないか。 「論考」は当日、会場で配布されたが、前世紀のある時期に流行し、ミームが蔓延ったフランス現代思想への参照を持ったこの文章、それ自体は興味深い内容を持つ文章と、これまたそれ自体は興味深い、 その場で行われたフォルマント合成技術に基づく、リアルタイム音声合成によるパフォーマンスの整合を主張するのであれば、 それがどこまで達成されたかを測定する作業は別途なされなくてはならないのではないか、というのが私の率直な印象である。(上のように書いたからといって論考もまたレトロな装いを持っていると 言いたい訳でもない。引用文献の一つ、2006年に書かれた「象徴の貧困 ハイパーインドストリアル時代」の著者、ベルナール・スティグレールは、その場に「現前」していたようでもあるし、、、) ついでに言えば、「ご一緒に」というテロップが会場の笑いを誘っていたが、その一方でそう指示されて一緒に歌う人はいなかったけれど、このことはどう受け止めたものか。まさに過去のある時期には 皆が一緒に歌っていたらしい「インターナショナル」を今、フレディーの声を模した合成音声にリアルタイムに歌わせることは、「論考」で言われる2つの身体=死体の亡霊化と、あるいは「歴史=物語」の亡霊化と どう関わっているのだろう。論考には「われわれの《現在=現前》を亡霊化しようとする企て」という言い回しがあるが、端的に言って、その場で起きたことは、「論考」のパースペクティブとはかなり異なった 事態ではなかっただろうか。

このように書けば随分と否定的な評価を下しているように受け止められるかも知れないが、フォルマント兄弟名義のパフォーマンスそのものは、まさにそれが「音楽」とどう関わるかという点も含めて、 極めて刺激的な試みであり、問いを投げかけ、挑発することについては申し分ない力を備えている。例えば「兄弟deピザ注文」について三輪さんは、音楽に付随して、史上初の経済活動を 行ったとコメントし、会場の笑いを誘ったが、一方でその笑いは至極正当であると同時に、他方でそれをフモールをもって指し示すことができる芸術(という制度‐というのも、ここでは美的なものという カテゴリや超越は問題になっておらず、どういう社会的コンテクストで行われているかという点に関与の重心があるように思われるので)の力を用いて、 契約行為の前提となる法的な人格がここでは問いに付されているという点で、笑って済ますことができない側面を含んでいる。技能の習得に関連して政治的なものに言及していた点も同様である。 だが「フレディーの墓/インターナショナル」において、フォルマント兄弟の活動における作曲と思索は整合しているだろうか。哲学的・美学的・音楽的・技術的という4つの側面(私はまたもや、会場にあった パンフレットに記載されたプロフィールの文章を参照しているのだが)の関係はどうなっているのか。「死体なき幽霊」を問題にするなら、ここで「録楽」ではなくライブ・パフォーマンスにおける音声合成であるのは 何故なのか。あるいは技術的には、フォルマント合成に拘らずに、より完全なフェイクを捏造することにしなかったのは何故なのか。私には率直に言ってよくわからないのである。音声合成の研究者なら逆に、 現時点での音声合成技術ではまだまだ到底「チューリング・テスト」(の音声版)にパスしないことを認めるだろう。それ故日常的な場面で使われる合成音声は録音接続方式を採用するのが実用的な解決 であったりするわけだ。そのアナロジーでいけば「死体なき幽霊」などとんでもない、それなら別の技術的手段があるだろう、ということになってしまいそうなのだが、、、誤解のないように重ねて補足すれば、 これはパフォーマンスとしての出来とは独立の問題であり、寧ろ私は、別のものが提起されているように捉えたということである。

そのような意味合いにおいて、最後に行われた「新作都々逸」はパフォーマンスとして非常に成功していたと感じられた。舞台には畳が敷かれ、都々逸のお稽古風景が上演されるのだが、如何にも伝統芸能の お稽古に相応しい恰好の岡野さん自身が「お弟子」なのではなく、彼が演奏するキーボードが発する合成音声が「お弟子」なのである。(ちなみに私はこれを見て、2007年のシンポジウムで演奏された 「思考する機械と古代の竪琴のための逆コンピュータ音楽「箜篌蛇居拳」公案番号十七」でも、三輪さんは同じようなことを意図していたのではないか、文字通り、その場でThinking Machineと 西さんの合奏を実現したかったに違いないと確信した。)キーボードは都々逸を呻るだけではない。お師匠である 田中さんの言葉に対して、受け応えもするのである。(もっとも単語は「はい」一語きりだが。)技術的には17音平均律とそれに対応したキー配置(同時にキーを押すことでその半音の間に存在する 17平均律の音階中の音程が生成されるという規則を含む)によって、邦楽に見られる西欧音楽とは異なる音程や 奏法の実現を試みたもので、17音平均律にしても、邦楽の音程についても、それぞれ独立には研究されてはいても、その両者をこのように結びつけた例は寡聞にして私は知らない。 そうした着想の巧みさとともに、ここではパフォーマンスにおけるリアルタイム性を 利用して、わざわざ「下手な弟子」という設定にしてみたり、「デジタル」という言葉を用いた些か(作曲者の立場からすれば)自虐的な科白のやりとりなどの工夫もあって、 テクニカルな限界がアーティスティックにはうまくクリアされていて、非常に面白い実演になっていた感じられた。 こうなってしまえば字幕も気にはならないけれど、皮肉にも都々逸の節回しの方が日本語の歌詞にとって自然なためか、あるいは掛け言葉の妙といった側面に重点が 置かれ、正確な字義通りの意味を把握することが第一義的なわけではないためか、日本語訳で歌われた「インターナショナル」よりも寧ろこちらの方が聴き取りやすく感じられた程であり、試みとしては充分に 成功したように思われた。勿論、この成功には演奏者の技量が大きく寄与しているのは間違いなく、キーボードを弾くことにおいては訓練された身体を備えてはいても、キーを抑えたり離したりする身体の動きに 割付られた機能が異なり、結果として音響的な実現は普段とは異なるという条件にも関わらず、見事に都々逸らしきものを生成させることに成功していた岡野さんもそうだし、都々逸に三味線をつけること だけではなく、その合間に義太夫節などの語りや手を交え、弟子に突っ込む科白もこなすことによってパフォーマンスを成立させた田中さんもそうであり、パフォーマンス全体としてみた場合、三輪さんの 最近の主張である「新調性主義」の作品演奏と同様、演奏者の技量を引き出し、それを利用することに成功していたと思う。

勿論、こうした私個人の印象を普遍的、一般的なものであると主張するつもりは全くない。寧ろ逆に、私が感じたのは、「フレディーの墓/インターナショナル」といい、「新作都々逸」といい、 こうしたリアルタイム音声合成を中心としたパフォーマンスが如何に聴き手に文脈を要求するかということだった。別のところに書いたように、フレディーを知らず、その声を知らない人間、あるいはまた「インターナショナル」 という歌の持つコンテキストから切り離された人間にとって、「フレディーの墓/インターナショナル」が期待した効果を得るのは困難ではなかろうか。また私は都々逸こそ知らないが、義太夫節や能楽には比較的 馴染みが深く、田中さんが途中で義太夫節の有名なサワリを語ったのに反応する程度には文脈があり、更には自分でやったことはなくても伝統芸能のお稽古の様子を見聞きして知っていることが、 「新作都々逸」のパフォーマンスを楽しめた大きな理由であることは間違いないだろう。私は音声合成や音声認識の専門家ではないけれど、その方面の研究者が身近にいたこともあって基本的な 技術背景の知識は若干持っており、だから嵯峨山先生のお話にもついていけないことはないというのも文脈の一つだろうし、レヴィナスの研究を3年ほどやったこともあって、周辺のフランス現代思想について、 かなり皮相ではあるけれど知識がないこともないというのもそうだろう。「兄弟deピザ注文」が面白いのは、ピザを注文するという(ロジャー・シャンク風に言えば)「スクリプト」を共有しているからだし、それだけでなく それが食物の購買という商行為の一環であることを共有する文化的・生物学的基盤があればこそなのだ。そして、こうした幾層もの連なりのどこにでも「機械」は顔を出しうるのだ。ただしどこに現れるかによって その相貌は異なってくるだろうが。

というわけで今回の催しも私にとっては非常に刺激的、挑発的なものであったけれど、残念ながら興味深く思われた点は必ずしも作者の注文通りではないように思う。その場で思いついたことを思い出すままに 書けば、例えば17音平均律では都々逸のような歌の要素が強いものはできても、義太夫節のような語りの要素が強いものは一層の困難が伴うのではないか、ということがある。能の謡でもいわゆるツヨ吟は 困難なのではないか。お仕舞を舞うロボットというのは魅力的だが、実現は難しいだろう。むしろ12音平均律により、「人間離れした」均質な発声に価値がおかれる西欧音楽の方が取り組み易いのではなかろうか。 また、「録楽」の問題については、既に触れたようにリアルタイムでの生成とはベクトルは合致しないだろうが、ではリアルタイム合成で聴く「それ」は一体何なのかという問題まで無効になるわけではないだろう。 「新作都々逸」のパフォーマンスが示している状況において弟子なのはやはり岡野さんであり、リアルタイム音声合成鍵盤という「新しい楽器」の習得のための訓練をしているのだと考えてしまえばいいように思われる。 だが、本当にそれでおしまいなのだろうか。そもそも伝統的な西欧音楽においても人間の声は独特の、ある種特権的な地位を占めていた。それは「主体に最も近い」「最もエモーショナル」といった規定と 対応したものだろう。ではその「新しい楽器」、別の器官を介し、別の身体を通じて発せされるそれは、まだ「声」なのだろうか。聴き手にとっては?奏者にとっては?それは「誰の」声なのか?あるいはまた、 「エモーション」の根拠は、音楽にあるのか、それともそれが「誰かの」声であるという状況によるのか?例えば留守番電話の応答用に録音された音声の主が最早この世の人ではなくなった場合を考えよ。 あるいは自分がどんな声をしているかを知ることが困難で、録音された自分の声は自分が発していると思っている声とは全く異なることを考えよ。そもそも録音された自分の声は、本当に自分の声と言えるのか? 自分の声をそのように聴くこと、時間の遅れと、空間のずれを伴って、あたかも他者であるかのように自分の声を聴くことは、テクノロジー無しには不可能だ。現前性とその神話を問題にするなら、 寧ろこちらを問題にすべきではないのか?(実際、「フレディーの墓/インターナショナル」に関連した別の対談で、三輪さんはこのことに触れた発言をしているのだ。)

こうした問いは幾らでも続けることができそうだ。残念ながら、こうした問いの全てが自分にとって等しく重要というわけではないけれど、これだけ多くの問題提起が為される経験は他にないし、それぞれが一見したところ整然とした問いになっていなくても、各々が少しずつ自分の関心の領域のそこかしこに影を落としているのは間違いなく、寧ろそれらを結びつけるのは受け手たる自分の側の課題だろう。 意図してのことかどうかはおくとして、フォルマント兄弟の活動は、すでに「論考」とは別の地点に進んでいて、別のパーステクティブを提示しているように私には思われる。 それゆえ今後のフォルマント兄弟の活動にも引き続き注目していきたいと思う。私は恐らくフォルマント兄弟の「良い」リスナーではないのだろうが、そういう私にすら、 フォルマント兄弟の提示するパースペクティブはかくも興味深いものなのである。

(2009.12.26初稿, 12.31加筆修正, 2024.6.25 noteにて公開)

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