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山崎与次兵衛アーカイブ:グスタフ・マーラー

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これまで30年に亘りWebページ、Blog記事、コンサートプログラムへの寄稿などの形で公開してきたグスタフ・マーラーについての文章をアーカイブ。
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語録:ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:アッター湖畔シュタインバッハ1895年夏の章に出てくる交響曲についてのマーラーの言葉

引用した最初の文が、アドルノのマーラー論を始めとして、これまた至る所で引用されるマーラーの交響曲についての言葉である。 これはマーラーが第3交響曲について語っている文脈で出てきた言葉であるが、まさに第3交響曲こそ、この定義に相応しい作品であることは 衆目の一致するところだろう。ところで私は、それに続く言葉もまた、とても重要だと思う。まさに内容が形式を産み出す点にこそ、マーラーの音楽の 比類ない力が在るのだと感じているからであり、マーラーは終生、ここでの発言の最後の部分に忠実で

主観性の擁護について:「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2012」公式ガイドブックにおけるマーラーに対する言及を読んで

「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」という音楽祭が丁度毎年ゴールデン・ウィークの時期に開催されるようになったのは何時頃のことからだったか。 コンサートが課する時間的・体力的・精神的な制約に耐えるだけのキャパシティを欠いていることから、私はごく一部の例外を除けばコンサートに 足を運ぶことがない。ゴールデン・ウィークとて同様だから「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」もまた例外ではなく、そういう催しの存在は 知っていても、それに参加することはそもそも選択肢にすらならないのではあ

近藤譲を通して見たマーラー

近藤譲が武満徹について書いた文章でマーラーに触れている。それはマーラーをジェスチュアの音楽の典型として捉えるという見解であって、 そういう視点では武満の音楽もまた、マーラーと同じ範疇に属するというような主張ではなかったか。私個人としてはその文章での主題であった はずの武満の音楽に関する当否よりも、マーラーの音楽の捉え方の方に関心を覚えたのを記憶している。 一つにはその指摘は大筋において正しく、それをジェスチュアという言葉に端的に集約した鮮やかさのためであり、それと同時に、実は

マーラーの音楽の特性を巡る覚書

行進曲、カッコウの鳴き声、ファンファーレ、聖歌は記号として、そしてそれ以上に文脈を引き込むものとしてアトラクタの様なものとして、存在する。単なる記号ではないのは、それが実際に行進、野原、祈りという「内容」を形作るからで、単に~をあらわす記号、~というものをピンで留めている訳ではないからだ。 それは多分、音楽の「意味」といってしまって良い。意味の領野が成立しうる様な音楽、自我の音楽。 意味は目的であったり、方向であったりしなくても良い。意味と前意味のあわい、記号の持つ意味とは

マーラーの音楽が私に語ること:「時の逆流」について

マーラーの音楽を聴く時、一体何が起きているのだろうか。マーラーの音楽が私に語ることは何か。 現前している楽音の内に、先行する楽音が留置されることをフッサールは第一次過去把持と呼ぶ。 かくして保持された先行する楽音の直接的記憶は次の楽音への期待を産み出す。 こちらはフッサールの内的時間意識の現象学の枠組みでは未来把持と呼ばれる。 第一次過去把持が知覚の現在の内部構造であるのに対し、想像力に属し、過去を(再)構成 するのが第二次過去把持である。第二次過去把持により所謂「記憶」の