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山崎与次兵衛アーカイブ:グスタフ・マーラー

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これまで30年に亘りWebページ、Blog記事、コンサートプログラムへの寄稿などの形で公開してきたグスタフ・マーラーについての文章をアーカイブ。
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#シェーンベルク

証言:シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より

シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より(邦訳:酒田健一編,『マーラー頌』, 白水社, 1980 所収, p.118。 ただしこの邦訳は抄訳であり、全訳はアーノルド・シェーンベルク「グスタフ・マーラー」,『シェーンベルク音楽論選 様式と思想』, 上田昭訳, ちくま学芸文庫, 2019, p.115以降に「グスタフ・マーラー」というタイトルで所収。) すでにこの講演で第9交響曲について述べた有名な言葉については紹介済だが、ここで上に引用したのは講演全体の冒頭

証言:第9交響曲について:シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より

第9交響曲について:シェーンベルクのプラハでの講演(1912年3月25日)より(邦訳:酒田健一編,『マーラー頌』, 白水社, 1980 所収, p.124。ただしこの邦訳は抄訳であり、全訳はアーノルド・シェーンベルク「グスタフ・マーラー」,『シェーンベルク音楽論選 様式と思想』, 上田昭訳, ちくま学芸文庫, 2019, p.115以降に「グスタフ・マーラー」というタイトルで所収。) これもまた大変有名な言葉。プラハ講演にはこれ以外にも、第6交響曲アンダンテの主題に関しての

証言:ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーとの出会いの回想

ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーとの出会いの回想(原書1981年Noetzel Taschenbuch版pp.17,18, 邦訳pp.14,15) この文章の特に冒頭部分、即ち、ヴァルターがマーラーその人と初めて知己を得た際の印象は様々な文献に引かれていて著名なものであろう。 別のところでも述べたとおり、ヴァルターの「マーラー」がマーラーを直接知る自身もまた高名な指揮者の証言として大きな影響力を持っているのは疑いない。 そしてその結果、流布するマーラー像の形成に良かれ

語録:アルマの「回想と手紙」にある自分の墓と葬儀についてのマーラーの言葉

アルマの「回想と手紙」にある自分の墓と葬儀についてのマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.226, 白水社版邦訳(酒田健一訳)p.228) 最後のマーラー自身が言ったものとして記録された言葉は有名だろう。ご存知の方も多いと思われるが、墓石についての彼の希望は入れられ、 分離派のヨーゼフ・ホフマンのデザインによる墓石には、彼の名前のみが刻まれている。行列と弔辞の方はどうだったろうか? マーラーがここで拒絶したのは、 ウィーンでは伝統のある、大勢の市民が行列

第7交響曲の内的プログラムは破綻しているか?

本当に久しぶりに出来た「使い途の決まっていない時間」に、ふとしたきっかけでバルビローリが指揮したマーラーの第7交響曲の録音を聴き始める。 1960年10月20日だから私が生まれる前に、マンチェスターで行われた演奏会のライブ録音である。客席のざわめき、咳の音も生々しいし、 このコンサートのために編成されたのであろう、BBCノーザン交響楽団とハレ管弦楽団の混成オーケストラの一期一会の演奏の緊張感も きっちりと伝わってくる。1960年といえばマーラー生誕100年のアニヴァーサリーの

マーラーにおける「対話」についての素描

マーラーの音楽の基本的な発想の一つの側面として、対位法的な発想があることについては概ね異論はなかろう。 いわゆる概説書の類でも、一例を挙げればマイケル・ケネディがそのような指摘をしているし、アドルノもまた、マーラーに 関するモノグラフの中で、かなりの重点を置いて取り上げている。 マーラー自身の証言における「対位法」についての言及についていえば、バウアー・レヒナーの「回想」にある有名な 件をまず挙げるべきなのだろう。ただしこの言及は、マーラーの音楽における(マーラーの生きた時

マーラーと永遠性についてのメモ

永遠を欲するのは、作品自体でもある。マーラーの時代、録音・録画の技術はまだその黎明期にあったから、 彼の指揮者としての営みは、エフェメールなものであるという宿命を帯びていた。恐らくマーラー自身、そのことに自覚的だっただろう。 では作曲はどうなのか? マーラー自身は自身の担体としての有限性に自覚的であったし、それだけになお一層、自分を介して生まれてくる作品が、 自分の死後も残ることに拘っていたように思える。そして、実際、永遠を欲するのは人間だけではない。 ミームとしての作品も

マーラーの音楽の時間性についてのメモ

音楽は時間の組織化、構造化である。それは生物的な、感覚受容や身体的事象へ反応といった体験の時間とは異質の、非日常的に、人工的に編まれた時間の結晶体である。音楽的時間の経験は、様々な時間経験の一種に過ぎないが、それは高度な意識を持つ生物種である人間ならではの社会的・文化的な歴史の沈殿物の摂取であり、或る種の意識経験の様態を自分の中に(変形しつつ)移植することである。 叙事的、ロマン的(アドルノ)と形容される時間の流れを、その複雑さを毀損することなく捉えようとしたとき、充分に意識

備忘:mathesis singularisとしての「マーラー学」?―アドルノのモノグラフを手掛かりにして―

 私がマーラーと出会って間もない子供の頃のとりとめのない、ぼんやりとした夢想の一つに、マーラーに纏わる情報を集約したアーカイブのようなものを作りたいというものがあった。マーラーがまだ今日のようにコンサートのプログラムの主要作品となる以前の、学校の音楽の教科書にも名前の載っていない、未だ評価の定まらない、否、寧ろどちらかといえば批判がついてまわる作曲家であった頃のこと、生誕百年が過ぎて相次いで出版されるようになった文献の邦訳が出始め、ポレミックな存在として取り上げられることも増