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山崎与次兵衛アーカイブ:作曲家論集

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これまでWebページ、Blog記事として公開してきた、クラシック・現代音楽の作曲家の人と作品についての文章をアーカイブ。
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#アドルノ

アントン・ヴェーベルン(1883-1945):指揮者としてのヴェーベルン

現在ではヴェーベルンは間違いなく歴史上重要な位置を占める作曲家であろう。だが、ヴェーベルンの場合にはそれは寧ろ死後の名声であった。それでは生前の彼は一体何であったかと言えば、指揮者であった、というのが恐らく妥当なところではないかと思う。 指揮者としてのヴェーベルンに触れることができる資料として、SONYのヴェーベルン全集に収められたシューベルトのドイツ舞曲のヴェーベルン自身による編曲の演奏があった。また、指揮者ヴェーベルンについての証言としてすぐに思い浮かぶのが、アドルノや

バルビローリのシベリウス:第6交響曲 ハレ管弦楽団(1970)

他の演奏と比較した時、第1楽章のゆっくりとしたテンポが印象的。 ゆっくりした流れの向こう側から立ち上ってくるものを感じる。 個人的に最もシベリウスらしいと思っている曲。音を秩序づける主観をほとんど感じさせない、 無人の音楽。シベリウスの沈黙は、音楽を構築してしまうこと、 音の「自然」に対する主観の暴力への抵抗ではなかったか? そんな自然がどこにあるかという問いは、例えばこの曲を聴くと空しく思える。 音楽が湧き出てくる少し手前に間違いなく存在しているように感じられるから。

ジェルジ・リゲティ

リゲティの音楽は、恰も時間性を放棄して別の次元を探求しているかのように見えるかも知れない。だがこの言い方は正確さを欠いているだろう。まずもって音楽が時間性そのものを放棄することはできない(瞬間の美学も、永遠の美学も時間性自体の放棄ではない)し、リゲティの音楽の時間性は、一言でいえば時間の結晶化、時間のオブジェ化とでも形容するのが適切だろうから。けれどもそれが、前の世代までの音楽と、時間性の探求において異なる方向を目指していて、従来の意味における時間性を放棄しているということは

モリス・ラヴェル

いつもそんなに身近に感じているわけでもない。ある時期にその音楽に熱中し、そればかりを聴いていたということもない。にもかかわらず、ふと振り返ってみると随分と長いこと、しかもコンスタントに聴き続けている。しかもその作品のかなりの部分をくまなく聴いていて、その割合たるや数少ないお気に入りの作曲家に比べて勝るとも劣らない。私にとってはラヴェルの音楽はまさにこうした例外的な位置を占めている。 それだけではなく、ラヴェルの人と音楽との関わりに対する関心はますます大きくなっていて、これまで