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屈葬

※ほぼ日記
 

 深夜2時。熱帯夜。街灯だけが道を照らす中で、ぽつりと、俺の部屋の白いLEDはともる。静止した世界で、衣擦れの音はあまりにくっきりして、見えない誰かに聞こえてしまわないように、俺はゆっくりと動き出す。普段汗はそれほどかかないのだが、この暑さ、肌はじっとりと気持ち悪い。

「いい加減風呂に入るか」

湯を貯め始める。俺はスマホを持ったまま、小さなユニットバスに、膝を抱えるようにして入った。スマホは最高だ。脳を溶かしてくれる。現実逃避する上で、これ程最適な道具はない。SNSは危険な麻薬だと誰かが言ったが、全くその通り。頭を空っぽにして、誰かの作ったコンテンツを、垂れ流すように見る。しっかり受け止めなくていい。同調したり、反対したり。結局のところ自分事じゃない。感情の起伏が大事なんだ。脳に思考する余計な時間を与えないことが、現実逃避のコツだ。合法薬物バンザイ。

    どのくらいだったろう。ふと見ると、残り充電5%。ダメだ、あと少し。先に充電しとけば良かった。画面をなぞる指が速くなる。3%。イヤだ。2%。ここから少し時間が伸びた気がして、1%。不意にスマホは小さく震え、電源が落ちる。

    途端に、視野は広がる。薄暗いオレンジ色の光の中、下半身だけ浸かっている俺の体は、痩せ細って、酷くみすぼらしく見える。ふやけてシワだらけになった手足。数十センチ四方を囲む壁。剥き出しの水道管。目線にほど近い、少し汚れた便器。俺のため息と、僅かな水音だけが反響している。陰鬱だ。誰もが寝静まる中で、言い知れぬ孤独感がまとわりつく。

 浴槽は、ある種の拷問器具に似ていると思う。狭い箱の中で、一定の姿勢を強制される。膝を抱え、背を丸めれば、自然と目線は下がってしまう。体育座りは、かつての奴隷達が、奴隷船の底でさせられていた座り方だと聞いたことがある。ずっとそんな体勢を続けたためか、体は痺れて動かしづらい。もはや少し冷たいくらいのお湯は、入った頃よりも質量を増して、拘束されているように感じられる。

 またあるいは、かつての葬儀方法。俺は縄文時代の墓の写真を見るとき、いつも湯船の中の自分を思い出す。約3000年前の祖先たちは、死後、故人が悪霊として甦り、祟らぬよう、手足を折り曲げ、壺に入れて埋めたそうだ。遺した人々に恐れられて、身動き出来ない形で埋められた彼らは、はたして、幸せにあの世に逝けたのだろうか。いつか来る俺の死は、一体どんな形だろう。やっぱり、孤独に死んでしまうんだろうか。これから、愛し愛されるような関係を築き、最期には多くの人に看取ってもらえる。そんな未来、なぜだか、どうしても現実味がない。未来を写す青いフィルムは、先の方で少しづつ黒く滲んで、腐り落ちて、途中で途切れる。

 あぁ、ダメだ。思考が沈み続ける。浴槽から抜け出せない。いつもこうだ。端からこうなることはわかってたんだ。でもどうしようもない。鬱々とした時間だけがすぎてゆく。おそらく、1時間はこうしている。結局、俺は風呂が嫌いだが、好きなんだ。確かに思考は沈み続ける。でも、この狭くて薄暗い空間は、外と隔絶されて、現実は襲ってこない。外界の見えないハリケーンから、身を守るバスタブ。俺だけのシェルター。逃走と停滞、自己嫌悪と奇妙な安心の中で、思考は淀む。浴槽で動けない俺こそ、こびりつく澱のようだ。はられた湯はもはや冷たくなって、体中に鳥肌がたっている。

「はぁ…ヒュッ!げほっけほっ!」

 喉に軽い痛みが走る。喉の渇きを意識した。何か飲みたかった。今風呂から出て飲む水は、きっと相当うまいんだろうな。今日は、水を飲むために、風呂から出よう。体なんて、明日の朝洗えばいい。そうだ。そうしよう。目線を上げ、ゆっくりと立ち上がる。痺れた腕を、無理やり動かす。俺を捉えていた水が、体をなぞるようにして、滴り落ちていった。

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