見出し画像

しおり〜高野山【1泊2日】


【1日目】

5:50 新大阪駅

新大阪 → なんば:OsakaMetro御堂筋線にて約15分
なんば駅から南海電鉄難波駅:徒歩にて移動(約5-10分)
難波 → 極楽橋:南海高野線(橋本まで急行、乗換)にて約1時間35分
極楽橋駅から高野山ケーブル極楽橋駅:徒歩にて移動(約3分)
極楽橋 → 高野山:高野山ケーブルにて約5分

8:15 高野山ケーブル 高野山駅

高野山 → 奥の院口:バスにて約15分

8:40 奥之院弘法大師御廟

見学:約1時間10分

左に見える一の橋をわたって入ります
一の橋は御殿川に架かる橋であり
ここからが霊域となるということです
弘法大師御廟まで続く参道には
樹齢数百年の杉木立の中に諸大名を始め数多くの墓標や
石灯籠が立ち並びその数およそ20万基といわれています
武田信玄・勝頼墓所
歴史にifはありませんが
もし武田信玄を病が襲わなければ
その後の世界はどうなっていただろうかと
想像したりします
薩摩島津家初代家久二代光久・綱久墓所
石田三成墓所
石田三成もただただ豊臣秀吉の命令に
忠実に従って仕事をした超優秀な部下
だっただけなのに・・・気の毒なことです
参道は清々しい空気に満ちています
中の橋は金河に架かる橋です
山伏は死ぬことを「金になる」ということから
「金河」は「死の河」、つまり三途の川のような存在であり
中の橋は現世と死の世界の境界線だとされています
天をつく勢いでまっすぐ伸びる杉の木(しかも三幹!)に
圧倒されます
豊臣家墓所
豊臣秀吉も天下人となってみんなにかしずかれたら
ご多分に漏れず暴君的ムーブをとってしまいましたよね・・・
だからそういう立場になっても必ず誰かのアドバイスを
聞かないといけない仕組みを構築し厳格に運用
しないといけないのでしょうね・・・
織田信長墓所
この後御廟橋を渡ると聖域中の聖域となり御廟へ至ります
835年3月21日御年62歳で、予言通り弘法大師は入定され
その後お弟子たちにより御廟が建立されました
弘法大師は今もここで永久の瞑想を続けているとされています
御廟内は薄暗く読経の低い声が響き実に厳かな空間でありました
心身ともに清められ満たされた気持ちで
来た道とは違う道を戻ります
どちらかというと空海という名前の方がしっくりきますが
弘法大師という名前は921年醍醐天皇より賜った諡号だと
いうことです
さまざまな企業の慰霊碑が点在しており
個性的なデザインのものもあるので
興味深く眺めながら歩くことができました
また来たいなと思います

バスにて移動:約5分

10:15 金剛峯寺

見学:約30分

金剛峯寺という名称は空海が
「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経
(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」
というお経より名付けたと伝えられているそうです
紅葉が始まっていました
正門
1593年に築かれたこの門を正面から出入りできるのは
天皇・皇族、高野山の重職だけだったそうです
鐘楼(左)
金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼だそうで
1860年に大火で類焼後、1864年に再建されたものと
考えられているとのことです
主殿 大玄関
正門と同じく天皇・皇族や高野山重職だけが
出入りされたということです
高野山は816年に嵯峨天皇から空海が下賜され
修禅の道場として開いた聖地であり
元来は高野山全体と金剛峯寺は同義であった
ということです
空海は俗名佐伯 眞魚(さえきのまお)
774年讃岐国の郡司(地方豪族)の家に生まれ
小さい頃から神童と言われ周囲から期待されていたそうです
788年平城京へ上り論語などを勉強した後
792年(18歳)大学寮(国家官僚育成機関)へ入ったのですが
793年(19歳)頃から山岳仏教に関心を持ち
山林での修行に入った頃に虚空蔵求聞持法
(虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えるとあらゆる経典を
記憶できる力が得られるとされる厳しい修行)
に出会ったということです
室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき口に明星が飛び込んで
きてその瞬間悟りを開いたと伝わっています
当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり
洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため
空海と名乗ったということです
蟠龍庭
主殿から渡り廊下を抜けた場所にある
日本国内最大の石庭で
1984年に作庭されました
京都の白川砂が雲海を
四国の花崗岩が龍を表しているそうです

徒歩にて移動:約10分

797年(24歳)で「聾瞽指帰(のちの三教指帰)」を著した
ということです
儒教と道教との比較において仏教が最も優れている
という内容を説いた宗教的寓意小説だったそうです
大日経(密教の経典)と出会って
「この全てを理解するためには唐に行くしかない!」と考え
実際に803年遣唐使の長期留学僧として唐に渡るあたり
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう:三蔵法師)と似ていますね
当時唐に渡るのは宇宙に行くのと同じくらい困難だったそうで
空海が乗船した第1船、最澄が乗船した第2船はなんとか
唐にたどり着きましたが第3船、第4船は遭難したとの
ことでした
804年8月10日目的地を大きく外れた福州に漂着
海賊の嫌疑をかけられたところ漢語・書字に秀でた
空海が嘆願書を代筆し遣唐使と認められ
同年12月23日に長安に入ったということです

10:55 高野山霊宝館

見学:約25分

高野山霊宝館は
国宝21件、重要文化財148件
和歌山県指定文化財17件、重要美術品2件
合計182件、約2万8千点弱を収蔵しているとのことです
上で触れた聾瞽指帰(国宝)もありました

徒歩にて移動:約5分

空海は長安でサンスクリット語を3ヶ月でマスターし
805年5月密教の第七祖である恵果和尚を訪ねたところ
恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを見抜き
即座に一子相伝である密教の奥義伝授を開始し
同年12月15日入寂までに伝授が完了したということです
806年10月空海は20年の留学期間を2年で切り上げ
帰国したということです

11:25 壇上伽藍; 中門、金堂、大塔の鐘、根本大塔

見学:約15分

中門
819年創建
1843年に焼失後2014年再建、2015年4月2日落慶
旧・中門には持国天・多聞天が安置されていたが難をのがれ
根本大塔内に保管されていたものを仏師松本明慶が修理をし
増長天・広目天像も新造して四天王像を安置する
四天門として甦ったということです
金堂
高野山の総本堂
初代の堂は空海が819年から造営
838年に完成したと伝わっています
現在(7代目)の堂は1932年に完成したものだそうです
大塔の鐘
現在の銅鐘は1547年に完成したものだそうです
直径2.12m重さ約6tの大鐘で日本で4番目に大きな鐘であった
ことから高野四郎と呼ばれるようになったとのことです
根本大塔
真言密教の根本道場(修行の中心地)として高野山開創当初から
着工され887年に日本最初の多宝塔として完成し
現在の塔は1937年に再建されたものだそうで
堂内そのものが立体曼荼羅として構成されているとのことです

徒歩にて移動:約15分

平安時代、病気を治したり怨霊を鎮めるため
呪術は国家にとって大変重要であり
呪術を扱う密教は最先端の学問であったようです
それを修めた空海が重用されたことは
想像に難くありません

11:55 大門

見学:約10分

大門
高野山の表玄関であり高野山の総門
現在の建物は1705年に再建
五間三戸の二階二層門で
高さは25.1mあるそうです
大門の仁王像(金剛力士立像)はその大きさからすると
奈良の東大寺南大門の仁王像に次ぐ我が国2番目の巨像といわれ
向かって右の阿形像は康意が、吽形像は運長が造立したと
いうことです
不世出の天才であり運も時代も味方につけながら
真言宗を開いた空海を思いながらの高野山観光は
大変充実した時間でした

大門 → 高野山駅;バスにて約20分

12:50 高野山駅

高野山 → 極楽橋;高野山ケーブルにて約5分
極楽橋 → 橋本;南海高野線にて約40分
橋本 → 笠田;JR和歌山線にて約20分
宿からお迎え(無料): 約15分

15:00 チェックイン

18:30 夕食


【2日目】

8:00 朝食

10:50 チェックアウト

お宿の車にて移動:約50分

11:40 JR和歌山駅

JR和歌山 → 新大阪;JR阪和線 特急くろしおにて約1時間

13:00 新大阪駅


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?