ようは、嬉しいのだ。そしてまだ囚われる。

ベビーカーとベビーシートを丸洗いして、隅々までクリーニングしてた。母の日に母と。
いろんなことが追いついてないせいで、母の日は来週と思い込んでいた。
2月の誕生日プレゼントを買っておいたのでそれを渡す。
面と向かって感謝を伝えるってことはやっぱりできない感じだ。
感謝してるにしても、母の日なんかに号令かけられてやりたくはない。

夫がランニングに出て、子が昼寝してる2時間半。
なんやら話があるとかいうので、何かしながらの方が話しやすいかなと思い、なんとなく片付けを一緒にしていたのだが。

土埃やらで汚れていて、洗わなきゃなーのままだったベビーカーを解体しはじめたので、数日中にやるべきだったベビーチェアのクリーニング(こういう類のものを、いつも面倒くさがって先送りしてしまう)

面倒な作業部分やってもらえそうだから、やってしまおうと思える。解体してると、発泡スチロールのモールドが出てきて笑ってしまった。
これに命を預けてるのか。いやまあ、こういうものなんだろうけど。

ベビーカーとベビーシートのクッションを、じゃぶじゃぶ、風呂の湯船につけて黒い水が出る。
話ってのは、2日間出し惜しみされた割には大したことではなかった。
というか悪くない話だった。コロナの影響で仕事が半分になるが、補償はされるというような話だ。
当面の家賃支払いがまずいみたいな話と、少し時間ができるからもっと来れるかもというような。
母にはこういう、変な切り出し方をする癖がある。
まあそもそも、家賃払えない的な話に慣れきってる私もどうなのか。だが。

つい憎まれ口を叩いてしまう「時間ができてボケしちゃうんじゃない。暇でさみしくてパチンコ行きたくなるんじゃない」というような。失礼ね!ボケないわよ。とのことだが、つい言ってしまうんだよな。

湯船の中を見つめながら、いろいろあった親子にとって、
ベビーカー一緒に掃除する日がくるとはなあとふとよぎってしまい、
少し涙が出た。ようは嬉しいのだ。
別にいろいろは過去のものでもなくて、薄れてきてるという感覚だ。

夜ご飯は、前日の夜ご飯につくったらしいおすそ分けの蕪のそぼろあんかけがいつも通り美味しかった。
夫が、料理上手の秘訣を聞いているのが遠まきに耳に入る。
聞かれたことが嬉しいのか前のめりで「母が何も料理できない人だったから、中学生くらいの頃から。。。」
などと答えている。あーそうだ、祖母は、料理ができない人だった。

できないなりに、すればよかったんだろうが、プライド高い人だったしよくわからない。
祖母はほんとに不器用だったなと思う。いつも不機嫌そうにしてた。
九州の田舎で末の方に生まれればそうなるのかと、かわいそうだという気持ちもいまあはる。
でももう分からない。母の日になにか思うこともあったんだろうか母は。

親だから感謝しなきゃいけない、感謝を表現しなきゃいけないなんてことはない。
LINEで、いつもありがとう。を送るとカーネーションをプレゼントする絵文字が現れる。
これならできるな、やっとこ、と思えて、グループで義母と母に送ってみた。私に続く人はいない。家族愛祭なんてしたくないからこれでいい。

感謝を伝えるツールが増えてありがたいが、実のところの気持ちなんて画面では分からない。
でも実のところの気持ちってじゃあなんだろうという気にもなる。
母の母の母の名を知らない。みんなそんなもんか。でも私は、そんなことにも意味を見出そうとしてしまう。
ずっと囚われてきた、家族というもののなにか。
まだ、やり残しがある気がしてしまい、目をそらしていることに気づかされ、こうやって残すしかない。

GW中に、宇多田ヒカルのSONGSスペシャルの録画をみた。みるの2回目だが、素晴らしかった。「花束を君に」の歌詞がかすめる。死んでから、あの歌は絶対響くだろうなと予感があり、あじゃあいまどうすればいいんだろう。

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