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伸縮する生命

 本日は出雲大神宮へ参拝。今日は身体の伸縮性について思索をしていた。ぼくは自らに「身体は肉体に閉じているか?」と問い、直ちに「否」と返ってくる答えに対して、根拠を探して出雲大神宮を歩き回った。これはその細やかな記録である。

綺麗な紅葉(壮観!)
緑の奥に垣間見える紅葉
どんぐりケーキがモチーフの作品

 今回、御神体と心気(manaki)で同調している時に色々なインスピレーションが湧いてきた。身体についての論考である。以下にその詳細を記しておく。

身体の伸縮性について

 身体の『 伸縮性 』というテーマ。これが、今回ぼくが興味を持ったことである。まず思ったのは、この世には「肉体」という言葉と「身体」という言葉が別々にある。これらは同じものだろうか?素朴な疑問だが、立ち入って考えてみたい気がする。さて、どうだろうか。

 肉体という言葉はわかるので、問題となるのは身体という言葉である。そこで、疑問は「身体は肉体に閉じているか?」と問うことに近い。もし閉じているならば、身体とは所詮肉体のことなのだから、考察する意義は余りない。ところが、やはり「身体」という言葉は深い意味を持っている。例えば、身体と言えば肉体のような物理的な対象のみを指すのではなく、気(エネルギー)という非物理的な作用を併せ持っていたり、感受性という心の働きが身体にとって重要な意味を持っていたりする。

 このように、身体を肉体のような単なる物理的な存在に帰着させることは到底できそうに無い。ゆえに、疑問に対しては「否、身体は肉体に開いている」と答えよう。身体は肉体を含みつつ、さらに大きな広がりを持つものと考えてみるのだ。では、身体をいかなる視点で捉えたらよいであろうか?これはまた随分と大きな問いである。そこで無謀なのは承知の上で『伸縮性』という視点に立って考えてみよう。

 ぼくは施術をしているのだが、これは施術にとても関係してくるところである。施術に於いては、そこに「他者」が居て、「空間」が在るわけなのだが、この「他者」や「空間」と、自分との関係はどのようになっているのだろうか?もし身体が肉体に閉じているとするならば、自分にとって「他者」や「空間」は【外部】として認識される。文字通り、" 施す " 術となる。自分が居て、そして外部に居る他者に対して何らかの事を施す。そこには、自他対立の構造が前提とされている。そのような術として行うという意識が、施術という字には反映されているのではないだろうか。しかし、身体が肉体に開かれているという視点に立つと、それとは別の考えが出てくる。

 本来、身体にとって「他者」や「空間」は自分の【延長】として関係しているのではないか。他者とは、肉体よりひと回り伸びた身体であると考えてみてはどうか。身体は自分(の肉体)に縮んだり、他者を延長として含むところまで伸びたりできる存在なのではないか。つまり、身体は『伸縮性』を持つと云う視点に立ってみる。すると、他者からさらにもうひと回り伸びた身体が即ち「空間」であり、さらに伸びると「宇宙」になると捉えられる。そして身体は、肉体でも他者でも空間でも宇宙でも、どれでもない。伸びる先は無限に続くが、身体はそのどれでもなく、それらを総て合わせたものでもない。身体は変幻自在にそれら全てを伸びたり縮んだりしている存在(トポス=背景空間)と考えられるのだから、どれでもないと云うことはどれでもあると云うこと。

 つまり、人間とは《伸縮する生命》であると定義したいと思う。人間は身体を持っているが、その身体は肉体に閉じたものではなく、肉体を含んだ多様なグラデーションの中で他者や空間、宇宙などを変幻自在に伸縮している。そのとき、施術の在り方も人間観や身体観によって変わって来るだろうし、きっと施術という言葉もより自然な表現に変わって行くと思う。外部に施す術ではなく、他者を自分の【延長】として、つまり相手を(伸縮する生命としての)人間として認識した状態で『身体』を交じり合わせることが、ぼくの目指す次なる段階なのだと思う。人間の身体というものは、個体性を超えた存在なのだという認識と実感が具体的なそれである。

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