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日記 '22/11/16

 日付は17日となってしまったが、昨日16日に思索していたことだから16日分の日記として書こう。日々なにかしら考えて生きている訳で、今までは紙のノートにほぼ毎日のように書いていて、それを高校二年生の時のふとしたキッカケから淡々と続けている。改めて思うと、よく続けているな、と思う。それが今回、ちょうど使っていた紙ノートが切れた事を機に、いっそnoteの方に日記を書き綴ってゆこうと気持ちがシフトした。今までずーっとやってきている事だから、今さら大変でもないし、書くことで考えがスッキリしたりまとまったりする。ただ媒体が変わっただけ。そして、ぼくが日々なにを考えて生きているのかに多少とも興味のある方が居たりこれから現れて来たりした時に、垣間見ることができる物があれば良いかもしれないから、noteに書いていくのは割とよい手段なのかもしれないと思い始めている。昨日の夜のように書く余裕がない時もあるが、こうして補完していくことにしよう。紙ノートの時もそうしていた。

独学力と回復力

 昨日は、独学力と回復力の類似について思索していた。大学生の時に、日本で『整体』というものを創始した野口晴哉という人の思想(全生思想という)に触れたことは、今でも大きな影響を受けている。この方によると、医術はますます知能的になってきている傾向があり、さまざまな治療法が編み出され、それが医術の進歩であるが如く勘違いをしているが、果たして知能の医術は人間を丈夫にしたであろうか?と問う。むしろ、そうやって頭でなんとか考えて医術をしていることで、人間は以前よりも脆弱になってきているのではあるまいか?と警告を発しているような方である。こうした現代の医術を軌道修正し、再び「本能の医術に戻らなければならない」と言われ、それが整体の道であると説かれている。これには非常に感銘を受け、当時のぼくは感化された。本能とはわかりにくい言葉だが、具体的に言えば情能のことになるのではないかと思う。すなわち、本能の医術とは【情能の医術】と言うことができると思う。
 つまりは何を言っているのかと云うと、現代人は病院や整骨院などの「甘やかし管理治療」によって、自らの持つ『回復力』を発揮することを忘れてきている、ということである。これは治療への依存であり、患者は病院や整骨院に何度も"頻繁に"繰り返し通うことになる。これが罷り通るのは、ビジネスモデルとして成り立つからである。病院や整骨院は、患者が自ら回復力を発揮するようになると、彼らは通う必要がなくなって来なくなるから、ビジネスとして困るのである。ぼくは短期間ではあるが整骨院のバイトに入ったことがあって、そこでは治療が終わると「次の予約はどうしますか?」という話に必ずなる。つまり、患者が"頻繁に"繰り返し通うことが前提になっていて、それで経営がうまく回るというビジネスモデルを作っている訳である。働いている人も「あの先生には売り上げが敵わない」などの話を平然としている。その様子を見てぼくは「いくらなんでも、これはおかしい」と感じて直ぐに辞めた。現代の医術(=知能の医術)は、患者が回復力を発揮しないように仕向ける「甘やかし管理治療」である。これでは、人間は「病は自分で治すもの」という前提を忘れて、治療は「やってもらうのが当然」という恐ろしい思考に陥ってしまう危険性がある。ぼくも施術をやっている身として、こういう思考の方がやって来られると非常に困ることがある。その際は、ぼくも身を律して適切にその方を本能の医術(=情能の医術)に目覚めるように導き、自らの『回復力』を発揮する方へ、その人の"根本の生き方"を指導する必要がある。それが、野口晴哉が創始した日本の素晴らしき整体の道が求めるところであろうと思う。
 前置きが長くなったが、これは独学力についても全く同様に言えることである、というのが言いたいことである。つまり、現代人は学校や学習塾などの「甘やかし管理教育」によって、自らの持つ『独学力』を発揮することを忘れてきている、ということである。今の子供たちは、勉強というものをどのように捉えているのだろうか?ひょっとすると、勉強は学校や学習塾で"与えられる"ものであると勘違いしている子供も居るかもしれない。教育への依存である。そもそも、独学力を発揮した子供は自分で好奇心の赴くままに学んでいくのだから、学校や学習塾に"頻繁に"繰り返し通う必要がない。すると、彼れらが学校や学習塾に来なくなるから、これもビジネスモデルとして困る訳だ。ぼくは学習塾でも(やはり短期間ではあるが)バイトに入ったことがあり、ここでも悲惨な現実を突き付けられた。
 回復力のところで、多くの人が治療は「やってもらう(=与えられる)のが当然」という思考に陥ってしまうように、独学力でも多くの人(特に子供たち)が教育は「やってもらう(=与えられる)のが当然」という思考に陥ってしまっている。だから、自分で自分を教育する、つまり独学力を発揮するという発想がほとんどない。教科書に書いてあることをわかりやすく解説してもらえば、誰でもある程度の理解には達すると思う。宿題もできる。試験もパスできるだろう。でも、ここには深刻な問題がある。それは、何事かが「わかる"喜び"」が欠如しているという一事である。山登りだって、バスに乗ってただ揺られていれば、誰でも山頂にたどり着ける。現代の教育とは、快適なバスツアーに過ぎない。子供たちは、山登りはバスに乗って居れば後は勝手に運んでくれるという思考になり、教育は「やってもらう(=与えられる)のが当然」と勘違いする。そして、自らの足で山登りをする楽しさや快感に触れる機会は、ますます無くなってゆく。わかる"喜び"がないから、自分で積極的に学ぼうという意欲も湧かないであろう。こうした「甘やかし管理教育」の魔の手は、今後IT化に伴ってますます侵食してくる恐れがある。こうして、大学生や社会人になって独学力を発揮できないクラゲのような人間が量産されてゆくのである。まずは、ビジネスという餌に大人が惑わされてはいけない。そんな家畜のようなクラゲのような生き方で果たしてよいのか。そろそろ目を醒まして頂きたい。患者や子供をビジネスの鴨にするな。目覚めた人から、順に回復力と独学力を発揮してゆき、それを周りに伝えていけばよい。それが目覚めると云うことである。これは精神論(スピリチュアル)ではない。極めて実際的なこと。
 現代の「甘やかし管理治療」と「甘やかし管理教育」の罠から脱却する。回復力と独学力を発揮する。家畜にもクラゲにもならず、人間を生きる。近代社会はおとぎの国。それは夢のようなテーマパーク。そこは楽しいかも知れないけれど、自分がそこにハマっていたことに気づいた瞬間、一切が夢だったことがわかり、どうしようもない儚さを感じると思う。ぼくだってそうだった。号泣した。でも、脱却しなければ人間にはなれず、管理され続けるだけ。それもまた悲しい哉。
 だから、ぼくも文章だけではなく、世へ具体的に働きかけていこうと思っている。クラスとかWSとかコツコツと開いてゆこうと思う。詳細はまた。オンラインでもやりたいことがあるから、順に進めてゆきたいと思う。では、また。

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