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氣を科学的に分析する方法は存在しない

はじめに

数学では「存在しない」ことを示す命題を証明することがしばしばある。最も有名なのは「次数が5以上の代数方程式には解の公式が存在しない」という命題であろう。これは『アーベルの定理』と呼ばれる命題である。通常、この命題は抽象的なガロア理論(体の拡大をガロア群により統制する理論)による証明が紹介されることが多く、アーベルの定理という名称とは裏腹に当のアーベル本人の証明が紹介されることは皆無である。しかし、私は断然アーベルの証明が好きであり、また数学として極めて正統な道と歩んでいるもの(証明)のように思われる。アーベルの証明は『可解代数方程式の根の形状を悉く手にしたい』と云うガウスに端を発するドイツ数学史の香り高いロマンチシズムの美しいメロディーが響いている『数学的な意志と理想』がはっきりと見て取れるものであり、アーベルは「仮に代数方程式が完全に一般的に解けるとしたら、その根の形状が満たすべき必要な状況を調べ、そのようなことはあり得ないこと」を証明した。すなわち、帰謬法(背理法)による証明である。私たちが議論したいことも、この帰謬法を用いる。

前置き

私たち日本の国は、海外から異国の文化を輸入するはるか以前から、自国の非常に独創的な文化を持っていた。例えば、ホツマツタヱに代表される言霊思想がある。そこでは、神や霊、そして氣という考え方・世界観がごく身近に息づいており、暮らしの中に溶け込んで生活していたであろうことは想像に難くない。私の魂振りセッションも、神とつながり氣を用いて霊に働きかけると云うことを行っている類の一種であるゆえ、日本の最古層に今もなお潜在する世界観に極めて共感するところが多く、考え方についても例えばホツマツタヱの考え方はスッと頭に入ってくる内容がとても多い。
一方で、私は数学の研究者でもある。そこで、このような(神・霊・氣などの)考え方や世界観について、片や自国の文化として内側の視点から考察し、片や異国の文化として外側の視点からも考察すること、その両輪によって新たな視点を確立することを運命づけられている。少なくともまずは、現状の(神・霊・氣などの)考え方や世界観についての雑然とした混沌としている状況をいくぶんでも整理・緩和したいと思っている。というのも、【自国文化=内側視点】と【異国文化=外側視点】が分離していて交流することがあまり出来ていないように思う。ここを緩和・融合することが、私たちが目指す宇宙和楽の使命にとって重要であると考えている。
そこで、数学者の岡潔(1901-1978)が晩年に熱弁していたように、自然科学について検討することがポイントになる。今回のnoteブログでお話したいのは、まさにその点にある。自然科学は物質科学とも言うが、ここでは簡潔に「科学」と言うことにする。そして、神や霊については(難しい話題のため)今回は触れず、特に"氣"に焦点を絞って吟味していく。
ただ、ここでは神や霊と言ったものについて語るときに岡潔の独創的な造語である≪情緒≫がとても深く関わってくることがわかっている(岡潔は数学者であると共に晩年は独自に古神道の研究をしていた)、ということだけ指摘しておきたいと思う。では、本題に入る。

本題

このnoteブログでお話したいのは、タイトルにある通り「氣を科学的に分析する方法は存在しない」という命題について皆さんと一緒に吟味したい。

まず、氣を分析・研究しようとする際にそもそも存在することを吟味しなければなりませんが、氣の存在を科学的に証明することはできないことを指摘しておきたいと思います。これは問題を近似的に変形して数学に話を移すと問題が簡明になるのですが、数学では自然数(1、2、3、・・・)の存在を証明することができません。現在の数学では、自然数が存在すると仮定することから始めて、それが数体系に無矛盾であることから自然数の存在が保証されることになっています。 

少し話が難しくなってしまったかも知れませんが、要するに数学のような極めて理知的に思える世界でさえ、その最も基本的な構成要素である自然数の存在を純論理的に導くことはできない、ということを知っていただければ充分です。すると、自然数の存在を人に与えているものは科学の範疇内にはないことになります。すなわち、科学に扱える自然数は抽象的な「記号としての自然数」であり、自然数の内容(存在)に言及する力は持たず、扱えるのはただ自然数の形式(計算)に過ぎません。岡潔が計算や論理は数学の本体ではないと言った所以です。そして、自然数の内容(存在)がわかるのは自然数を具象的な「情緒としての自然数」とみているからであり、つまり自然数を対象化せずに自分自身の情緒の一片としてそこにみているのであり、すると自然数の存在を与えているものは『氣の動き・流れをみる』と云う、人が本来持っている力によるものであることがわかります。それは超越的な力ではなく、素朴で体感的な力であり、日本民族は元々優れて得意とする力です。身体の同調作用と言ってもよいかと思います。

ここまでのところをまとめると、科学は「自然数の形式(計算)=記号としての自然数」を扱うことはできるが、『自然数の内容(存在)=情緒としての自然数』を扱うことはできません。すなわち、自然数の本質は純論理的なものに支えられているのではなく⦅素朴で体感的な力⦆に支えられています。その力を扱う方法は氣の流れ・動きをみると云う非科学的な方法であり、すると情緒としての自然数は氣の一種であることがわかります。

もう一歩踏み込んで考えてみよう。仮に氣の存在を否定すると、情緒としての自然数を否定することになり、すると数学の内容がなくなって数学は空虚なものになる(*これを私は空虚の数学と呼んでいる。空虚の数学については私のnoteブログを参照)。特に、空虚の数学にとって自然数は単なる形式的な記号に過ぎない。ところが、数学史でガウス(1777-1855)を一人挙げただけでも、そのような数学はあり得ない。数学を創造する働きは純論理的な構造を明らかに超えている(数学者のポアンカレ(1854-1912)がこの類の研究をしており[*ポアンカレ著:科学と方法]この研究は岡潔にも影響を与えている)。氣の存在を否定することは情緒を否定することであり、それは数学史の否定である。数学が歴史的に生成されてきた文化形態の運動をまるごと否定することである(構造主義的な空虚の数学の成立)。明らかに空虚の数学は形式としてはあり得ても、人を抜きにした数学であり、生命の線を逸している。最早そんなものは数学ではない。よって、数学が培ってきた歴史と文化がある以上、氣は明らかに存在する

さて、その上で「氣を科学的に分析する方法は存在しない」ことについて吟味しましょう。科学的に分析するとはどういうことでしょうか。物理学では近年ダークマター(暗黒物質)という概念が考えられています。なぜダーク(暗黒)と言うのかというと、電磁波を発生も反射もせず、ゆえに科学的な観測ができないからです。
科学的な観測に掛かるものは科学の研究対象になり、科学的な分析を適用することができます。身の回りのものは科学の対象になりえます。みえるからです。なぜみえるのか?これについても科学は何も答えることはできません。科学者は「それは電磁波を通して・・・」と言うかも知れませんが、それはどうやってみえるのか?というメカニズムであって、しかもその科学的な説明はみえるということについての直接的な事象についてではなく、常にそのモデル(模型)を扱っています。その模型の中で無矛盾にうまく組み立てた理論を採用しているだけのことで、なぜ?という類の問題は不問にしています。科学的な方法は以上の「観測と模型」の二柱によって構成されています。
その特徴は、第一に分析に適応する前提として「対象化」する必要があるということ。第二に模型はあくまで抽象的な観念の産物であるということ。第三に科学は観測すること(広義な意味で”みえる”こと)それ自体には無力であり、常に観測されたものを研究しているため、それは存在ではなく映像に過ぎないということ。
総合すると、科学は「観測(映像)と模型(観念)」によって構成されており、存在に触れることは決してないと云う特徴を有している。実際、科学への数学の使われ方をみていても、数学を記号として形式的な部分を抜き出して使っている様子が明らかである。改めて考えてみると、科学がコップというとき、コップの内容(存在)をそのままみているのではなく、すでにコップという一つの記号を(コップを「対象化」することによって)みている。コップの形式をみているのだから、その構造を分析したり計算したりすることが可能なのであって、しかもコップが「観測と模型」という方法を適用できる範疇に属するから科学で扱える。しかし、科学の内部からでさえダークマター(暗黒物質)として科学の範疇に属さない(=「観測と模型」という枠組みを破る)ものが現れてきている。つまり、電磁波を通しての観測に掛からない(=科学的ゲシュタルトが崩壊する)事象が実際に現れてきており、そのため模型だけが先行して【観念の暴走】が起こっているのが現状なのではないかと思う。私の言う空虚の数学と先端の素粒子論はとても相性が良い。空虚の数学は情緒なき形式の暴走、先端の素粒子論は存在なき観念の暴走。この二大暴走が科学の内部で進行しており、科学の自壊を誘導するのではないかと思う。

さて、前に帰謬法(背理法)によって氣の存在について議論したが、私はダークマター(暗黒物質)は氣の存在とは直接的には無関係であると考えている。ではなぜダークマター(暗黒物質)を話に挙げたかというと、「氣を科学的に分析する方法は存在しない」ことを議論する以前に、そもそも科学的な方法そのものが既に自壊していることを念のため指摘しておくためであった。繰り返しになるが、ダークマター(暗黒物質)を観測することは原理的に(=科学的ゲシュタルトの枠組みでは)不可能である。観測できない(=科学的ゲシュタルトが崩壊している)ためいかなる模型を組み立ててその無矛盾を主張しても存在の伴わない空虚な観念体系しか出てこない。その証拠に、近年の科学の模型の理論が用いているのは情緒なき空虚の数学であり、抽象的な記号の羅列を無意味に操作しているに過ぎない。
すると、氣の存在に基盤を与えるのは(大脳の観念理性ではなく)身体の同調作用ですが、仮に氣の存在を科学が認めたとしても、氣を分析しようとすれば「観測と模型」の枠組み(科学的ゲシュタルト)の中で氣を対象化する必要があり、するとダークマター(暗黒物質)と同質・同型の空虚で無意味な理論(=観念妄想)が出来上がるより他にないでしょう。結果はやるまでもなく目にみえています。
これを逆に言うと、仮に氣を科学的に分析する方法が存在すれば、氣を何らかの意味で「観測と模型」の枠組みで対象化する必要があるが、氣はそもそも身体の同調作用に基礎を持っているのであって、大脳の観念理性によって捉えようとすれば氣は存在ではなく映像になってしまう。その映像化された氣がダークマター(暗黒物質)だと思えばよい。それは内容がなくただ形式だけ抽象的に構成されているに過ぎないが、そのような構成は空虚の数学を使えば一応は可能である。しかし、最早これは無意味な観念である。これは科学的ゲシュタルトが既に崩壊していることに原因があり、氣を映像化してダークマター(暗黒物質)のように扱っても氣を扱ったことにはならない。
これを打開するには、壊れた科学的ゲシュタルトから脱して、身体の同調作用に基づいた新しい方法・ゲシュタルトを情緒の数学を用いて構成していくより他にない。これは今度の課題である。

おわりに

はじめに述べたように、【自国文化=内側視点】と【異国文化=外側視点】が現状は分離しているが、その最大の原因は科学的ゲシュタルトの因縁を完全に断ち切ることが出来ていないことにあると私は思う。
すなわち、【自国文化=内側視点】に基づいて【異国文化=外側視点】を西欧近代のものから別の方法・ゲシュタルトに再編成・脱構築する、というアプローチによって両者の溝を緩和・融合できるはずである。

そのとき、私たちは真に物質の世界を超えて≪生命の世界≫に研究の領域を拡大することができると私は信じている。

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