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研究における数学史の重要性に就いて

友人と話していて、次のような質問が話題に上がった。

問い:数学を研究する現場において、数学史はどのような影響を持つであろうか?(その必要性および重要性について)

この問いに対して、どのように答えようか。

まず話の前提として、確認しておくべき事柄が二つほどある。
一つ目は、岡潔の世界が描く独特の数学(ここでは「情緒の数学」と呼ぶ)と、いわゆる現代数学(ここでは「空虚の数学」と呼ぶ)の異なる数学世界の相剋が認められる、という点について。上記の問いを考えていくとき、情緒の数学に関してならば答えは肯定的であり、一方で空虚の数学に関してならば答えは否定的になるため、どちらの数学に関して考えるかで結論が全く正反対のものになる。
この記事ではもちろん、情緒の数学に関する答えを記述していくことになるから、その上で数学史が研究に与える良い影響について議論を進めていく。

ここで読者は、情緒の数学と空虚の数学は具体的にどう違うのか、その差異について聞きたくなるであろう。そこで一つ目に関連する二つ目の前提について述べよう。

二つ目は、数学をどのように見るか?という数学に対する自覚と認識に深く根差す問題で、具体的には数学に二種類の異なる視座がありうることを指摘したい。それは、数学をいわゆる科学(サイエンス)の一種と見るか、それとも芸術の一種と見るか、という視座の違いである。

対応関係の図式を描くと、

情緒の数学ー数学を芸術の一種と見る視座
or
空虚の数学ー数学を科学の一種と見る視座

と整理する事ができる。

数学を科学(サイエンス)の一種と見ると云うことは、数学とはさまざまな問題を解決する技術の集積システムとして、抽象的な解法装置機械のようなもので、そのアルゴリズムは論理的に構築されている。数学をこのように見ると、数学の研究とは数学という機械をより強固な(=普遍性の高い)ものに厳密性を持ってアップデートしていくことを意味し、解法が有効な範囲をどんどんと広げていくことが目指されている。
技術は時代と共に衰えることはなく、集積を重ねて単調進歩していく。精神を高めるとか、情緒を清めるといった類とは無縁であり、むしろそのような主観性は排除して冷徹なシステムに徹している。空虚な数学には構想も目的もなく、システムの形式的な拡大のみが追求されている。このようは事情を指して、サイエンス側の数学を空虚な数学と呼んだのである。
単調進歩主義に支配された現代数学にとって、今ある数学が史上最高に発展している道理であり、古典を振り返る必要など何処にもない。古典に流れる流動的な精神と情緒の働き、その生命感に溢れる数学は古めかしい過去の遺産としか見做されず、ただ過去は過去として現代とは切り離して研究を進める。
だが、過去を背負わない数学が果たして未来への扉を開く力を持ちうるだろうか?技術の発展が必ずしも文化を進めるとは限らず、数学もまた例外ではない。そして、現代の文化が危機に瀕しているのと同様に、数学もまた一つの文化として重大な危機に瀕している。こう考えていくと、読者は段々と最初の問いへの糸口が掴めてくるのではないだろうか。

さて、では情緒の数学とは何かと言うと、いま述べた空虚の数学とは全く正反対の性格を有する数学の世界である。

数学を芸術の一種と見ると云うことは、数学とは『無から有を生む創造の働き』によって成り立つ”文化の理想が実現されてゆく流れ”として考えることを意味し、空虚の数学が失った精神と情緒の流動的な働きが縦横無尽に充満している。
個々の人が抱いた構想と目的が古典(オリジナルの源流というくらいの意味)には隅々まで行き渡っており、岡潔ならばリーマンを直接的に継承しようと欲して、多変数の代数関数論を建設しようという究極の目的を元に(これは未完成で現在も行き詰まったまま)ハルトークスの逆問題(擬凸状領域は解析関数の自然存在域となるか?という問題)を解決する構想を立て、グザンの問題やルンゲの問題を含めて「上空移行の原理」という卓抜なアイデアの発見を主柱に(有限不分岐多葉域という限定的な条件下で)これを見事に解決した。

ここで重要なのは、岡潔は数学史というヨーロッパに息づくラテン文化の流れを踏まえて、リーマンのつづきをやらなければ解析学の大道は此処に窮まる(岡潔の言葉)と自覚して、適切に数学的自然の情景を認識し、ハルトークスの逆問題という独創的な問題を造形することに成功した、という一事である。
岡潔より以前に確立されていた問題を解決したというのではなく、適切な問題を造形するという事それ自体がすでに偉大な数学的発見なのであり、その問題は岡潔が造形したものでありながら、尚且つ、大いなるラテン文化の流れが個々の人の精神と情緒の働きを通して顕現する数学的自然の意思が勧んで岡潔に作用して出来たものであり、ゆえに問題の出来かたには必然性が伴っている。

人が勝手に人工的な問題を作ったのではなく、流れそのものがそうさせたのである。

この流れなしに問題を造形しようとしても、一個人の力の範疇を出ない。我流でなんとかなるほど、一つの文化の底は浅くないのである。芸術としての数学が持つ『無から有を生む働き』は、個々の人を裏で操っている超越的な数学的自然という存在それ自体にある。ここまで来れば、最初の問いに対する答えはもはや明確であろう。

つまり、簡潔にまとめると

「数学史を吸収することによって、その人はラテン文化の流れに自らを溶け込ませること、および数学的自然を認識する目を開くことを可能ならしめ、研究においては『適切な問題を造形すること』それ自体に大きな影響を及ぼす。」

と答えることができる。

「無から有を生む」という言葉を何度か用いたが、そこで生むものは問題であり、解法のアルゴリズムではない事にくれぐれも留意して欲しい。

数学の現場においては、何か難しい問題が解決されたことにスポットライトが当たる傾向がある。先ほど岡潔のところで触れたように、個々の人の構想と目的は解決することもあれば、未完成のまま後世に残されることもありうる。だからこそ、バトンリレーのように人から人へと数学は継承されてゆき、精神と情緒が時空を超えて結びつく事によって、流動的な”文化の流れ”となって数学という芸術作品は結晶化する。

ゆえに、数学の真の価値は難しい問題を解いた解法のアルゴリズムよりも、常に開かれた問題の造形運動それ自体にあると言える。するとこれは、情緒の数学と空虚な数学とでは価値の判断基準が反転していることになる。

情緒の数学ー【問題が主、解法は従。】
or
空虚の数学ー【解法が主、問題は従。】

繰り返しになるが、空虚の数学にとっては数学史は無縁であり必要性も重要性も皆無であるが、情緒の数学にとっては数学史は本質的な意味を持つ。それが最も顕著になるのは、問題を造形するという場面に於いてである。

個々の数学者ではなく、数学的自然それ自体を師とせよ。

岡潔は後世の数学者にそう呼び掛けている。

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