VOL.12寄稿者&作品紹介24 武藤充さん
武藤充さんとは拙宅のある東京都町田市の「町田市民文学館 ことばらんど」で知り合いました。ともに同館の運営協議委員を2期務めまして、定例会議の後に「軽く一杯やっていきましょうか」みたいなことも定例になって、町田市の歴史や商店街の変遷について、いろいろ教えてもらったりしました。武藤さんと私は1歳違いなので、昭和のころの町の様子やできごとについて同時代的な思い出も多く、また、共通の知人も少なからずいたりして。また私は1990年に実家を出て(町田から見た)「多摩川の向こう側」で生活、盆暮GWくらいしか町田に帰らぬまま約四半世紀が過ぎ、2013年に出戻り。この空白の二十数年のあいだに町田は大きく変貌して、わからないことが多いのです。しかし、武藤さんはご家業を継承しておられまして、文学館通り沿いのサウスフロントタワー町田内にある(株)武藤興業の経営者。私からすると「町田のことは何でも知っている」頼もしい先輩であります。でっ、そんな武藤さんにお話を伺っていると、歴史的観点からしても興味深いことがたくさんありまして...当初は武藤さんを誰かが取材して記事にまとめる、みたいな形式も考えたのですが、けっきょく私が持ち前の図々しさで「武藤さんがお原稿を書く、では?」と切り出しまして、多大なご苦労をおかけすることに。ほんとうにありがとうございました!
現在NHKで放映中の「鎌倉殿の13人」で八嶋智人が演じている武田信義(1128〜1186?)。佐殿(源頼朝)とは微妙な関係ですが、もともとは清和源氏の流れを汲んだ「甲斐武田の祖」と言われる人物で、誰もが知っている戦国時代の武田信玄のご先祖様。武藤さんの今号寄稿作には《我が家は、山梨(甲斐国)から落ち、東京都町田市の原町田地区を開拓して、四百五十年続く武藤三家の一つで、「日向武藤」家と呼ばれている》という一文がありまして...そうか、武藤さんの「武」の字は甲斐の虎に由来するのか! ちなみに小栗旬演じる北条義時の「北条」は元弘の乱で滅亡するので、作中で《武田と北条は同盟関係から一転敵対し、再び同盟を結ぶという目まぐるしい関係にあった》のところの「北条」は、北条早雲を祖とする、いわゆる「後北条」ですね。
町田の市街地には浄運寺と勝楽寺という2つの寺がありますが、武藤さんの寄稿作を読むとそれぞれの由来もわかります。そして歴史の話だけではなく、作中に散りばめられた先祖や家族、近しい人への慎み深さなどもお人柄から自然と滲み出たもの。「何事も、パッパッと決まってしまわないことがあるのは、逆に良いことだ」というお考えにも、real estateを生業になさっているかたが、良い意味でのspiritualityにも知悉していて深いものを感じ取りました。みなさま、ぜひご一読ほどよろしくお願い申し上げます。
永禄十二年。町田からそう遠くはない神奈川県愛甲郡で、武田と北条の「三増峠の戦」があった。この戦以降も、武田家は小田原北条攻めを模索していた。ひょっとすると、武藤三家は北条凋落の命を受けて原町田に来たのかも知れない。
凋落の命を受けた部隊は、北条支配の弱い地域に多く送り込まれた。しかし、元亀四年に信玄が亡くなると武田家本体は弱体化し、部隊は故郷に戻る、或いは帰農し地域に根付くなど、散々なことになってしまったという。
〜ウィッチンケア第12号〈日向武藤家の話〉(P140〜P142)より引用〜
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