まぶちさん
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まぶちさん

 いまあるマフラーの半分は捨ててしまおう。と、
 そんなことを駅の白洋舎から戻る道すがらふと考えていた。持っていくまえに思いつけばよかった、ほんとうなら。でもいろんなことが自分のなかで決まる瞬間になんて、たいていは時宜を逃した、やや切羽詰まったあたりで出くわすものだ。僕は有機溶剤でお浄めした薄いビニール袋をソファに投げ出して左右に振り分けていく。クリーニング代は賽銭と得心すれば、そんなに惜しかったとも思えない。
 ひとりの部屋でフィジカルには単純な作業を続け、つまらない感傷が何度となく波立つうちに夕暮れて、今日はこれから出かけなくちゃいけないんだった。ネクタイ必須の仕事からネクタイのいらない仕事になってしばらく経ったけれど、ここ数年の僕の生活はまあ、ろくなもんじゃない。
 背筋の寒気を手のひらで擦り、カーテンを閉めると「世界に一つだけの花」がダイニングでわんわんと響いた。しばらく放っておいたが、平坦なリフレインは却って気を滅入らせる。子機を耳にあてると案の定の相手で、それでも僕が今日言葉を交わしたのは白洋舎の新しい店員だけ。少し、喋りたい。
 はいはい、福富さまのお宅でございますよ/申し訳ないんですが富花さまはご在宅ではいらっしゃらないんです/ふだんは何時ごろご在宅なのかって? そんなことオレが知るかよ、だって昨年末福井の実家に帰省したまま戻ってこないんだから/あの人は姓が変わると富の字がかぶっちゃうって最後まで嫌がってましたから、いまごろさばさばしてるんじゃないかな/ええ、もう判子押した書類も送ってよこして/それで、あの人は来月にはクアラルンプールにある環境保護団体で働き始めるんだと/はいクアラルンプール、マレーシアの、サイバージャヤとかいう/まったくなんだったんでしょうかね、オレとの三年半、ってアウトバウンド頑張ってるあなたは知りたくもないんでしょうが/あっ、余計なものを買うカネなんてもう全然ないよ/そんなことよりあなたはいまどこにいるの?/マイナーな県の離島の港湾事務所とか、それとも大連とか……そもそもあんた日本人?
 切られた。お客様との会話中になんてことを!
「あなたに絶望したから、これからは未来のあるこどもと動物と地球に優しくしてあげる」
 富花の最後の肉声を思い出しながら僕は煙草に火を点ける。ベランダから帰還したゴージャスな灰皿はむかし京都の女にもらったもので、もう二度と室外機の上に追いやったりはしないよ。って、そんなことを僕がいまごろ誓っても、あの女はちっとも嬉しくないだろうし。いまどこでなにをしてるのかも知らないんだし。とにかく、家の電話なんてちかごろは相手の事情でしか鳴らないんだから、いい機会だから解約だ、解約。
 クローゼットから白いスプリングコートを選び、桜散る夜の緑道を歩いて椿さんに指定された店へと向かう。海のフルーツがおいしい手軽なビストロなんだとか。メールチェックのついでに店名を確認すると長ったらしいこと、てんで覚えられない。青白いディスプレイが薄紫に染まっている。僕は靴先への視線を動かし、夜空を遮るように揺れる黒い枝を仰ぐ。こいつら、まるで生き物。香港の女にもらったマフラーで鼻まで覆い、たいそうな住宅街へと続く坂道を急いで旧山手通りを渡る。
 少し遅れたことを詫びながらコートとマフラーを店員に預け、僕は椿さんの斜め向かいに座った。知った顔は椿さんを囲んだ竹中さんと江口さんだけで、あとはたぶん椿さんの事務所スタッフなんだろう。
 トナカイみたいだな、と竹中さんがペティヤンを注いでくれながら笑う。いかにも竹中さんらしい年季の入った言いまわしだと思った。風邪こじらせて、と受け流してグラスを口にし、親指でそっと鼻翼の端に触れてみる。長い夜道ですっかり冷えていたが、なに、じきに室温と馴染んできますよ。そんなことより竹中さん、ピロリ菌を退治してから胃の調子どうですか? なんかまたおいしい仕事あったら、ぜひご一緒させてください。
 ぼんやりと会話に混ざりながら、僕は出がけに捨てたマフラーのことを思い出していた。こどもじゃあるまいし擦り切れるまでマフラーを使い倒すことなんて、この先もうない。半分もあれば未来の冬を過ごしていくにはじゅうぶんだ。
「めんどくさいんで、やっぱりタクシー」
 以前にも何度か聞いたことを椿さんが喋っていた。さっきまで花畑牧場とかPerfumeとか石油の暫定税率失効とかっていう言葉が聞こえていたけれど、たぶん、江口さんがじょうずに話題を振ったんだろう。江口さんともずいぶんおひさしぶりで、ほんと、こういう会のとき江口さんいてくれると、みんな助かります。
 椿さんのマンションは環八に近くて、地下駐車場にあるアストンマーティンの走行距離は5000キロにも満たない。たまの休日は玉川高島屋で生活まわりの雑事をまとめてかたづける。食料品、洗濯物、さらにネイルケア、エアフローがセットのPMTC、英国式リフレクソロジーなんかまでやっていると半日潰れるそうで、でもパーキングでの出し入れがめんどうなので出かけるときはついやっぱりタクシー、なのだそうだ。
 僕は笑顔をなんとか保ったまま、香港で暮らしていたころのことを思い出している。蜂蜜で煮た雲南ハム、踏み倒した借金、HMVで買ったウルフギャング・プレスとオールドランド・モンタノとナパーム・デス、火星の香りがする灣仔の古い茶房、雇い主や女とは最悪の結末で、身ひとつで逃げ帰ってきた。眼前で銃口をちらつかされるなんて、人生で何回もある体験じゃない。
 ほどほどの時間で会が開き、もう一軒という竹中さんの誘いを断ってタクシーで帰宅し、郵便箱を確かめると市井からなにか届いていた。僕は踵を返して収集所から市井を救出する。ビニールを引き裂いて市井からもらったマフラーを顎で鋏み、形代に香港の女のマフラーをボックスに落として蓋を閉めた。
 市井とは去年の秋に一度会ったけれど、心がおたがいの近くにあったのはもうずいぶんまえのことだ。マルイの地下にできたヴァージン・メガストアーズで待ち合わせて、明治通り沿いのライヴハウスにいったあたりまで。たしかあれは「病気の恋人のそばにいたい」とかいう理由で来日をドタキャンしたミュージシャンの仕切り直しコンサートだった。
 部屋に戻って厚紙の封を切ると透明なケースに入ったDVDが出てきた。テレビで再生すると派手なロングキャミとレギンスの市井がよくある健康器具に跨がって商品特性を説明していた。その動画がテレビを録ったものなのか、あるいは販促物やネット上のどこかにあるものなのかはわからない。そして僕は市井を知っているので好意的に観賞できたけれど、もう若くもない女がはしゃいでいるさまをまっさらな目で見た人がどう感じるのかも、ちょっとわからない。まあ、とにかく、市井は元気そうなのでよかった。
 ソファで五分ほどの映像を繰り返し何度か見た。シーリングライトを消し横になって地上波に切り替えてしばらく眺めていると徳井義実が北白川の話を始めてすごくおもしろいのにいつのまにか眠ってしまった。朝になってとくに代わり映えのしない一日をやり過ごして、そんな日々がふつふつと積み重なって北京オリンピックで上野由岐子が超人のような活躍をした夏も過ぎ去って、僕は「あなたとは違うんです」と吐き捨てる総理大臣を到着が遅れたボーイング747のシートで眺めていた。またか、とは思った。リーマンショック当日のバラエティでタレントたちが「株価が気になって番組どころじゃない」と口走り、M-1グランプリでオードリーが2位になっても、僕の部屋のクローゼットにはまだビニールも破っていないマフラーが何枚か入っている。

 市井は小さな鞄をかかえて突然訪ねてきた。そのころの僕は乃木坂にある知人の事務所で留守番係のようなことをしていた。事務所といってもほぼ登記法上のもので、マンションの一室で僕がやることは郵便物の整理と数日に何本かの電話への対応くらいだった。
「古い得意いままだ切りたくないんで、もう少しここを維持しなくちゃなんねぇんだ」
 僕にはそう説明して、知人は夏の初めにソウルへと旅立った。盆明けに一度は戻る、と言っていたが、むかしから気まぐれな人なので、まあ、いまごろどこでなにしていることやら。ネクタイを締めなくなった僕は、とりあえずしばらく仕事が繋がったことに感謝している。
 午後二時をまわったころ、携帯電話のディスプレイに見知らぬ数字が並んだ。僕は富花の弁当を食べ終えたばかりだった。茹で野菜と車麩の煮つけと雑穀米だけではものたりなくて、小学校の裏手にあるパン屋まで出かけようとしていた。
「圭でしょ、どうも。いま近くにいるからそっちにいく。ちょっと、お願いがあるんだ。圭にしか頼めないから」
 わかった、と答えて僕は電話を事務机の弁当箱の傍に置いた。十分もしないでインターホンが鳴り、大きなサングラスで前髪をとめた市井を確認してロックをはずす。
 玄関を開けると市井は底高サンダルを無造作に脱ぎ捨てる。ソファを勧めると膝頭を並べて座り、鞄からはみ出したコントレックスを抜いてテーブルに立て、処方薬の袋を開いて「ちょっとごめん」と僕に手のひらを見せた。屈託ない所作で粉末を唇に納める市井を、僕は事務机の椅子で脚を組んで見ていた。抱きたい気持ちと殴りたい気持ちが拮抗して沸き上がり、すぐに引いていった。市井の左肘には小さいささみのような疵痕がいまもくっきり目立って、あの事故の記憶が甦ってくる。
 鞄を閉めた市井が弁当箱を一瞥して、短くもない間を置いて「幸せなんだ」と言った。
「ああ幸福ですよ、といつもはだいたい答えてる」
 市井はとくに反応を示さず、今度は鞄から虹色の電話を出して奇妙な電子音を響かせた。僕は弁当箱をシンクに運び、水道水をコップ半分ほど飲んで戻り、机の電話をジーンズのポケットにしまった。
「ねえ、私の番号、登録した?」
「まだ。あとで気が向いたら」
「気、向けなさいよ」
 わかった、と僕は答えたが、僕が使う「わかった」の意味を市井はわかってくれていると思う。
「あのね、急に軍資金が必要になったんだ」
 うん、と答えて脚を組み直した僕を市井は宵の木兎のように見る。
「なにも訊かないんだ」
「それで了解です。べつに、なにも言わなくていい。ただし、オレにできることなんてちっぽけだよ」
 訊いてもあらかじめ用意してきた使途を聞かされる。事情や背景のわからない僕にはとってつけたようにしか聞こえないだろう。虚実は僕は与り知らない。人が自身で認識するほんとうのことを言葉にしても、あるいはてきとうな嘘を並べたとしても、透けてくる実相はほぼ同質だ。実相が露わになった人の言葉に、ほんとうも嘘もあるものか。人づきあいなんて好き嫌いの感情でほぼことたりる。僕は机に肘をついて脚を組み、市井は数メートルの距離のソファで膝に鞄を乗せている。
 声にはしないが僕は「市井、幸せになれ」とほんとうに思っている。願わくばふたりが向き合うことで、もうかつてのような負の力が醸成されませんように。僕は市井と心が離れたのを機に幸福とか不幸とかいうものさしが無効なところに辿り着けた。居心地は悪いが平穏なところだ。願わくば、このまま僕を静粛に流れるように生き存えさせてください、神様。
 そうだ、と市井が大きな歯を見せてサングラスをはずした。ふんわりした髪を揺らし、のそのそ四つん這いで僕に近づいてきた。一瞬僕と目を合わせ、鞄から必要なものをとり出すかのようにジーンズのボタンに指をかけた。僕は市井の髪先をざっくり縒ってみる。バイブレーションとともに電話が鳴り出してなんだかとてつもなくばつが悪かったが、しばらく窓に視線を移し自分を放り投げておいた。空豆を焼いて莢でも開くみたいな手順で市井は僕を終わらせ、弾けた瞬間にまた僕を見上げ唇を手のひらで覆った。同じ姿勢のまま市井がソファまで後ずさりしていく。僕は市井の余熱を振り払うように立ち上がり、背中を向けてボタンを留めた。もしまたこんなことがあるのなら、今度は先端から小さな葡萄のつぶでも仕込んでおいて驚かせてやる。
「お礼、っていうか利子の先払い。でした。ははっ、いまはこんなことしか」
「まあ、それより軍資金の調達にいこう」

 僕と市井はマンションを出て赤坂通りを歩いた。TBSの近くのATMに寄ってカード二枚の限度額いっぱいキャッシングする。鞄を両手で胸にかかえた市井と、さらに山王下に向かってみる。
「ちょっと腹が減った。オレはなにか食って戻る」
 僕と市井がこれ以上一緒にいても意味がないことには、ATMの備えつけ封筒を渡した瞬間に気づいていた。
「私も、少し空いてきたかもしれないけど」
 市井の気遣いが虚実にかかわらず嬉しかった。もちろん市井も僕とさらにいることになんの意味も見出さない。僕はあのときの電話の履歴を確認する。むかしちょっといろいろあった京都の女からだった。伝言もあるが聞いたって意味ない。無心されたってない袖は振れない。黒いセンチュリーが三台連なって、乃木坂方面へと走り抜けていった。
 今度また、と手を揺らして僕はエスプラナード赤坂通りに曲がろうとして、でもそれではあまりに悲しいような気もしてきた。腹が減ったからバイバイ、ってなんだそれ? こんなときくらいエールでも送ってみようか、できるだけいまの自分の心情にそぐう言葉で。
「市井、元気で。頑張れよ」
「圭こそ。だってさっき……、あっ、言わないでおこうっと」
 市井が笑顔の底に澱ませてしまった言葉が僕を刳った。じゃあ、といたたまれなくなってひとりで歩き始めたものの、たかだか一時間たらずのあいだに市井が僕から「言えないようななにか」を発見したことにわだかまっている。
 246にぶつかって、一ツ木通りを引き返して空腹のまま事務所に戻った。暗くなるまで市井についていろいろ調べてみた。仕事上の名前で検索すると一万以上のヒットがあって、いくつかの記事や写真は正直、見たくも知りたくもないものだった。たぶん市井も僕と同じようなことをして、日記と称して個人情報を撒き散らしている共通の知人に辿り着いて、連絡をとって、僕の電話番号を知ったのだろう。その日記にはパーティ会場で見かけただけの有名人のフルネームもリンクタグ付きで羅列してある。僕はキーボードでjyusatuと打ち込んでみる。一発で変換できた、呪殺。罰が当たればいいと思う。
 夜になり、僕はまた赤坂通りを歩く。TBSブリタニカの貸し倉庫、ARTスタジオ1000、放置されたホテルニュージャパン。監禁王子事件も遥かむかしのことのように感じる。
 またATMに寄って、さっきと違うカードでキャッシングした。備えつけ封筒をふたつに折ってポケットにしまう。まさかのとき以外には使うまいと心に決める。アマンドはいつまであったんだろう、と懐かしい記憶を思い返しながらみすじ通りをしばらく歩き、薬念が鼻を突く路地を曲がってとあるビルの入り口に立った。
 地下に降りるエレベーターで僕は急に笑い出す。わかってる、こんなところに出入りするようになれば、この先とんでもない目に遭うに決まってる。でも僕はいま変わりたいのだ。まだどこへでも流れていけるし、どこでだってまだ流れは止まらない。
 その店のエントランスは存外に広く、白壁の一角にCONCIERGEという札があるだけで人気はない。札の下に小さな硝子テーブルが置いてあり、甲板にはプリンみたいな古めかしいボタンのついた器械が乗っていた。
 天才なんじゃないだろうか、と僕は妙に感心してしまった。誰が考えたのか知らないけれど、ある意志を秘めてここまでやってきた人間は、なんの説明なしでもこのボタンを押す。引き返すくらいなら入店しないだろうな。自らボタンを押す以外に選択肢のない状況のつくりかたとして、最高の演出だ。もちろん僕も、迷うことなくボタンを押す。
──ようこそおいでくださいました。お好きな椅子に腰掛けて暫しお待ち下さい。
 性別不明の声は背後から聞こえた。一瞬の闇が現れて過ぎると、白壁に沿って色とりどりの椅子が置かれている。僕は大きな肘掛けのついた緑色のものを選んで深々と座る。
──赤坂に御協力願えませんか? どんなに些細でも結構ですので、お客様が御存知の、赤坂に纏わる逸話をお聞かせ下さい。内容に拠っては、僅かでは在りますが弊店から謝礼をお支払いさせて頂きます。
 今度の声は頭上から落ちてきた。まったく今日は、利子とか謝礼とか、そんなのばっかりで。僕は目を閉じて咳払いし、脳裏であかさかあかさかと繰り返してみる。すぐに浮かんだのはAKASAKAは上からでも下からでもあかさか。でもこんなレベルじゃ謝礼をもらえるわけがない。
「僕は赤坂の事情に詳しいふたりの男と会っています。ひとりは、このあたりではむかしからイソジンの嗽液がよく売れると教えてくれました。とても知的でフレンドリーで親切そうな物腰の人でしたが、でも、私はいつも頭のなかで音楽が鳴ってるって真顔で言われちゃってたじろぎました。いや、べつにね、っていうか他人様が言うことの真偽に僕は興味がないんですが、でも初対面の相手にいきなりそんなこと言って、だって僕の頭のなかでだっていつも音楽が鳴ってるけれど、べつに他人には言わないから。ええ、いまはね、オリー・ハルソールのマリエッタのピザの歌が鳴ってます、って言われたらどうよ? まあいいや。それで、もうひとりとは日枝神社のところのホテルのインペリアル・スイートで会いました。金髪オールバックで、ソファに足を投げ出して『ベルビーの近くにある中華屋のホンコンラーメンは食べたほうがいい』って。目玉焼きがトッピングされてるって。『五目焼きそばや回鍋肉飯もいい』って。あっ、でもそれは雑談でのほんの小さな話題で、その人はほとんど、小泉政権がいかに最悪なのかについて語りました。HANG TENのボーダーシャツを着て、茄子型ミラーグラスで葉巻を燻らしながら。まあ、風体はどうでもいいことです。って僕はいまその人の風体をこと細かに説明できたんだからほんとうはどうでもいいことではなかったんですけれど、でもまあどうでもいいこととしておいて、しかし初対面の相手にいきなり政治の話をしますかね。小泉さんはその後もずいぶん長く総理大臣を続けて、ねえ。じつは私が会った男は小泉さん在任中に亡くなったんです」
 僕は声に導かれるまま延々と喋り続けた。きっかけさえあれば自分のなかから制御不能な言葉の群れが溢れる。そんな恐ろしいことに気づかせてくれただけでも、この店にきた甲斐があった。
「福富さん、あのときほんとうに初対面だったっけ?」
 僕はふいに右側から話しかけられた。目を開けると茄子型ミラーグラスの男がいつのまにか座っている。
「これ私がもらっていい?」
 間髪なく左側からも声が聞こえる。ふたつ折りの封筒を開けて紙幣を数えているのはタモリの女じゃないか、駅の白洋舎でこのあいだまで働いてた。いつだったか、ひょんなことで飲み屋で出くわして一緒に飲んで部屋に泊めてもらったことがある。タモリに会った翌日だったから、はっきり覚えている。
「こんなところできみに会っちゃったりしたら、なんていうか、万事休す」
──お客様、そろそろ閉店の時間で御座います。外は雨が降って来た様ですので、お足元にお気を付けてお帰り下さい。お忘れ物等、なさいませぬ様に。なお弊店では唯今プレミアム会員を募集中でして、お申し込み頂ければ更に煌らかなサービスを御提供させて頂く事が可能です。
「まだ貴店のシステムがよく呑み込めていませんが、いいですよ、プレミアム会員になります、悦んで。そしてしばらく通わせてもらいます」
 翌日、カメラ目線で国民に話しかける総理大臣が体調不良で辞任した。僕のPCにはものすごい量のダイレクトメールが届くようになり、店通い中心の生活のせいで富花との日常を取り繕うことができなくなった。納豆ダイエット、セレブ妻、コムスン、シエスパ、NOVA。テレビが拡散したいんちきをテレビが粛正する。マッチポンプという言葉が体感としてわかる。でもそんなテレビのM-1グランプリでサンドウィッチマンが優勝して、むかし好きだった歌の「You're gonna be an overnight sensation」という一節も体感としてわかった。

          ※

「昨日タモリと会ったんだよ」
「私も会ったことある。ここのまえって玉川高島屋のお店で働いてたんだけどそこでのお客さん、ときどき一緒にきてた。いい人だよね。女の人の洗濯物で両手いっぱいでもニコニコしてたし」
「それ、会ったっていうより見たじゃないの? オレはさしの打ち合わせしてきたんだ」
「ふーん、どこで?」
「タモリといえば、いいとも! 昨日は夜突っ張りの仕事で目が覚めたら昼近くで、あわててシャワーを浴びて着替えたらちょうどテレフォンショッキングが終わるところなんでもういかなくちゃって感じで。それで、ダイビルのプレートのところから入ってエレベーターに乗って、スタジオ着いたらちょうどオンエア終わって。紹介者の名前を担当ディレクターに伝えて話を通してもらって、打ち合わせのソファで待ってたら本物がふわっと現れて、すごくよく話を聞いてくれた。いい人だよな、タモリって」
「なんの話したの?」
「それはまあ、商談。しかし、家を出るときはいつものテレビのなかの人だったタモリがほんとうにアルタにいて、あたりまえなんだけど驚いた。うちのテレビはちゃんと繋がってるんだ、そしてオレもタモリと繋がったんだ、と思った。でもきっとタモリはオレのこともう覚えていないんだろうな」
「あったりまえじゃない、だからタモリなんだよ。なんか、毎日見知らぬ人からタモリとかタモさんとかって呼ばれて生きてる森田、一義? って、どんな気してるのか興味沸いてきた」
「そんなことはタモリに訊けば? オレはただなんだかとっても不思議な感覚がしたっていう……距離感、っていうか、空間と時間の距離が歪んだような感じっていうか」
「そんなことよりタモリの気持ちが知りたい。っていうかでもそんなことでいちいちなにか感じてたら、きっと森田はタモリやってらんなくなるよね。だからタモリなんだ、うん」
「だから、そんなことは森田に訊けば?」
「なに、その言いかた」
 冷えた料理のような声で女が毛布を蹴り飛ばし、ドレッシングテーブルからブローニングを出して僕を狙う。「下手くそ、もう、二度と私のまえに現れるな!」
 部屋を逃げ出した僕の頭上から、シャツとネクタイとスーツが舞い落ちてくる。

          ※

 ハッピーマンデーで四連休の最終日。
 僕は東京駅丸の内口に樽本さんの古いギャランを停めて、麻耶ちゃんがおばあちゃんを連れてくるのを待っている。今日は明るいうちは東京見物、夜は麻耶ちゃんをパートナーに、しくじるともう「あと」がない仕事。
 ネクタイを締めていた最後の数年、このあたりの再開発事業に末端で関わっていた。「街のどこかでつねに起重機を稼働させていることが雲の上の人たちの社会的責務だ」と樽本さんから何度も聞かされた。壊して建てることで恒常的に新しい時代のニーズを創出するとともに、未来へのノウハウも蓄積し……、あっ、麻耶ちゃん、おかえり〜。樽本さんは先月あの女と久津川で情死した。
 今夜の仕事は市井がまわしてくれた。てっきりオマエと組んでやるのかと思っていたら、日時だけ指定されたまま詳しい説明もなく、昨日になって麻耶ちゃんと直接連絡をとるように、と。うまくいけばあの軍資金が何百倍にもなるかも……って、ったく。
 麻耶ちゃんに手を引かれたおばあちゃんはなにも事情を知らない。申し訳なさそうな笑顔で窓越しに頭を下げているが、たぶん僕の死んだ母親と同い年くらいだろうな。麻耶ちゃんは以前からおばあちゃんと東京見物の約束をしていて、それを今回の仕事のまえに果たそうとしていて、そのことを僕は昨日の打ち合わせの電話で聞いた。「最後かもしれないからちゃんとしとこうと思って」と。だって東京に逃げてこれたのおばあちゃんのおかげだった、これでもいろいろ波瀾ある人生なんだアタシ、と。麻耶ちゃんとの電話を切ってしまえば僕にはなにをしてもなにもしなくてもいいまる一日が残される。店通いをやめてからはたいていテレビのまえにいて、政権交代のニュースにでもチャンネルを合わせていた。運転手くらいならやるよ、と唐突に言った僕に、麻耶ちゃんは短くもない沈黙を守っていた。壁のホルダーにぶらさがっているギャランのキーを目で確認し、僕はつとめて明るい声を出した。全然大丈夫、だってどうせ仕事は夜からなんだし。麻耶ちゃんと麻耶ちゃんのおばあちゃんがもし悦んでくれたら、万が一仕事をしくじっても、多少は浮かばれるような気がするんだ。
 フロントガラスの左前方に白いファミリーカーが停車した。助手席から降りてきたのは濃紺スーツの男。運転席の女性に短く笑って手を振り、中央口に向かって地均しするように歩き始める。分厚い胸板、浅黒い肌、そして櫛どおりのよさそうなオールバックが孟秋の太陽で輝いていた。僕はふと懐かしい整髪料の匂いを思い出す。同世代であるこの男は、若いころMG5ギャラックを使っていたに違いない。パワーウィンドウのスイッチを押し、僕は窓から身を乗り出した。きょとんとした麻耶ちゃんとおばあちゃんを無視して、僕は男の背中に声をかける。馬淵さん、頑張ってください!
 逆三角の背中が反応し、耐震偽装問題で名を売った政治家が振り返った。僕はこの男がこれから八ツ場ダムに向かうのを知っている。フロントガラスの中央前方には黒塗りの車も停まって、SPふたりに警護された国土交通大臣が周囲を気にしながら降りてくる。今朝のNHKと眼前が繋がっている。ねっ、麻耶ちゃんのおばあちゃん、東京ってなかなか見物しがいのありそうな街でしょ。
「どうもありがとうございます」
 男は白い歯を輝かせて慇懃なほど丁寧なお辞儀をする。もう「あと」がないかもしれない日になって、どういう流れなんだか立て続けに初対面の人に頭を下げられた。いったい僕はこの数年間、どれほどの数の人間とお辞儀をしたりされたりの関係であったのだろう。
 再び中央口に歩き始めた男を目で追いながら、僕のなかで言葉が組成される。馬淵さん、どうせオレのことなんかすぐに忘れるんだろうけれど、でもオレのような、オレたちのような人間が、この国にはたくさんいるんだってことは覚えていてください。そして、とにかく日本を、もっとよくしてください。
 いまにもロータリーに満ち溢れそうな僕のなかにあった言葉。それらをまるごと喉元で堰止めている。声にしちゃダメだ。福富圭の言葉なんて、テレビでよく流れる「街の声」そのもの。いや、声の背景に映っている街そのものなんじゃないのか? 僕は今日ここで馬淵さんに会って言葉を交わしたけれど、馬淵さんにとっての僕は、政権交代直後の街の風景……でも、ねっ。
 くはっ、と空咳をした僕の両眼に麻耶ちゃんの困ったような顔が飛び込んできた。ねえ、早くドアを開けてよ。
 そうだ、僕がいましなきゃいけないことはそれですね。
 声で約束した東京見物を、しっかりこなすのだ。もちろん、市井からの仕事も絶対にしくじらない。しこたま儲けよう。まだあるはずの「あと」を自分のものにしよう。そして、今度はおばあちゃん抜きで、麻耶ちゃんをたっぷりたっぷり悦ばせてあげなくっちゃ。
 僕はミラーで後部座席を確認し、パーキングブレーキをはずす。工事看板だらけのロータリーをゆっくりまわって大きな空が拡がる和田倉門を目指す。
「そこの郵便局、なんだかすっかり古くさいけど、でも近代建築では有名らしいです。ほら、去年だったか、総理大臣の弟が『トキを焼き鳥にして食べるのか!』って怒って壊すのに反対して。えっ、おばあちゃん、覚えてません? ほら、春にはSMAPの地デジ大使のこと『最低の人間だ』って言ってしくじった……って、わからない……そうですか。まっ、オレもテレビの受け売りなんですけど」
 おばあちゃん、ほら、クサナギくんが、と麻耶ちゃんが僕をフォローしてくれる。いい娘じゃないか! のっけから多難な一日だけれど、でもこんなに気分がいいのは、僕にとってはほんとうにひさしぶりなんだ。

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文芸創作誌「Witchenkare」(ウィッチンケア)発行人。東京都町田市在住。 フリーランスのライター/エディター。