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まぶちさん

 いまあるマフラーの半分は捨ててしまおう。と、
 そんなことを駅の白洋舎から戻る道すがらふと考えていた。持っていくまえに思いつけばよかった、ほんとうなら。でもいろんなことが自分のなかで決まる瞬間になんて、たいていは時宜を逃した、やや切羽詰まったあたりで出くわすものだ。僕は有機溶剤でお浄めした薄いビニール袋をソファに投げ出して左右に振り分けていく。クリーニング代は賽銭と得心すれば、そんなに惜しかったとも思えない。
 ひとりの部屋でフィジカルには単純な作業を続け、つまらない感傷が何度となく波立つうちに夕暮れて、今日はこれから出かけなくちゃいけないんだった。ネクタイ必須の仕事からネクタイのいらない仕事になってしばらく経ったけれど、ここ数年の僕の生活はまあ、ろくなもんじゃない。
 背筋の寒気を手のひらで擦り、カーテンを閉めると「世界に一つだけの花」がダイニングでわんわんと響いた。しばらく放っておいたが、平坦なリフレインは却って気を滅入らせる。子機を耳にあてると案の定の相手で、それでも僕が今日言葉を交わしたのは白洋舎の新しい店員だけ。少し、喋りたい。
 はいはい、福富さまのお宅でございますよ/申し訳ないんですが富花さまはご在宅ではいらっしゃらないんです/ふだんは何時ごろご在宅なのかって? そんなことオレが知るかよ、だって昨年末福井の実家に帰省したまま戻ってこないんだから/あの人は姓が変わると富の字がかぶっちゃうって最後まで嫌がってましたから、いまごろさばさばしてるんじゃないかな/ええ、もう判子押した書類も送ってよこして/それで、あの人は来月にはクアラルンプールにある環境保護団体で働き始めるんだと/はいクアラルンプール、マレーシアの、サイバージャヤとかいう/まったくなんだったんでしょうかね、オレとの三年半、ってアウトバウンド頑張ってるあなたは知りたくもないんでしょうが/あっ、余計なものを買うカネなんてもう全然ないよ/そんなことよりあなたはいまどこにいるの?/マイナーな県の離島の港湾事務所とか、それとも大連とか……そもそもあんた日本人?
 切られた。お客様との会話中になんてことを!
「あなたに絶望したから、これからは未来のあるこどもと動物と地球に優しくしてあげる」
 富花の最後の肉声を思い出しながら僕は煙草に火を点ける。ベランダから帰還したゴージャスな灰皿はむかし京都の女にもらったもので、もう二度と室外機の上に追いやったりはしないよ。って、そんなことを僕がいまごろ誓っても、あの女はちっとも嬉しくないだろうし。いまどこでなにをしてるのかも知らないんだし。とにかく、家の電話なんてちかごろは相手の事情でしか鳴らないんだから、いい機会だから解約だ、解約。
 クローゼットから白いスプリングコートを選び、桜散る夜の緑道を歩いて椿さんに指定された店へと向かう。海のフルーツがおいしい手軽なビストロなんだとか。メールチェックのついでに店名を確認すると長ったらしいこと、てんで覚えられない。青白いディスプレイが薄紫に染まっている。僕は靴先への視線を動かし、夜空を遮るように揺れる黒い枝を仰ぐ。こいつら、まるで生き物。香港の女にもらったマフラーで鼻まで覆い、たいそうな住宅街へと続く坂道を急いで旧山手通りを渡る。
 少し遅れたことを詫びながらコートとマフラーを店員に預け、僕は椿さんの斜め向かいに座った。知った顔は椿さんを囲んだ竹中さんと江口さんだけで、あとはたぶん椿さんの事務所スタッフなんだろう。
 トナカイみたいだな、と竹中さんがペティヤンを注いでくれながら笑う。いかにも竹中さんらしい年季の入った言いまわしだと思った。風邪こじらせて、と受け流してグラスを口にし、親指でそっと鼻翼の端に触れてみる。長い夜道ですっかり冷えていたが、なに、じきに室温と馴染んできますよ。そんなことより竹中さん、ピロリ菌を退治してから胃の調子どうですか? なんかまたおいしい仕事あったら、ぜひご一緒させてください。
 ぼんやりと会話に混ざりながら、僕は出がけに捨てたマフラーのことを思い出していた。こどもじゃあるまいし擦り切れるまでマフラーを使い倒すことなんて、この先もうない。半分もあれば未来の冬を過ごしていくにはじゅうぶんだ。
「めんどくさいんで、やっぱりタクシー」
 以前にも何度か聞いたことを椿さんが喋っていた。さっきまで花畑牧場とかPerfumeとか石油の暫定税率失効とかっていう言葉が聞こえていたけれど、たぶん、江口さんがじょうずに話題を振ったんだろう。江口さんともずいぶんおひさしぶりで、ほんと、こういう会のとき江口さんいてくれると、みんな助かります。
 椿さんのマンションは環八に近くて、地下駐車場にあるアストンマーティンの走行距離は5000キロにも満たない。たまの休日は玉川高島屋で生活まわりの雑事をまとめてかたづける。食料品、洗濯物、さらにネイルケア、エアフローがセットのPMTC、英国式リフレクソロジーなんかまでやっていると半日潰れるそうで、でもパーキングでの出し入れがめんどうなので出かけるときはついやっぱりタクシー、なのだそうだ。
 僕は笑顔をなんとか保ったまま、香港で暮らしていたころのことを思い出している。蜂蜜で煮た雲南ハム、踏み倒した借金、HMVで買ったウルフギャング・プレスとオールドランド・モンタノとナパーム・デス、火星の香りがする灣仔の古い茶房、雇い主や女とは最悪の結末で、身ひとつで逃げ帰ってきた。眼前で銃口をちらつかされるなんて、人生で何回もある体験じゃない。
 ほどほどの時間で会が開き、もう一軒という竹中さんの誘いを断ってタクシーで帰宅し、郵便箱を確かめると市井からなにか届いていた。僕は踵を返して収集所から市井を救出する。ビニールを引き裂いて市井からもらったマフラーを顎で鋏み、形代に香港の女のマフラーをボックスに落として蓋を閉めた。
 市井とは去年の秋に一度会ったけれど、心がおたがいの近くにあったのはもうずいぶんまえのことだ。マルイの地下にできたヴァージン・メガストアーズで待ち合わせて、明治通り沿いのライヴハウスにいったあたりまで。たしかあれは「病気の恋人のそばにいたい」とかいう理由で来日をドタキャンしたミュージシャンの仕切り直しコンサートだった。
 部屋に戻って厚紙の封を切ると透明なケースに入ったDVDが出てきた。テレビで再生すると派手なロングキャミとレギンスの市井がよくある健康器具に跨がって商品特性を説明していた。その動画がテレビを録ったものなのか、あるいは販促物やネット上のどこかにあるものなのかはわからない。そして僕は市井を知っているので好意的に観賞できたけれど、もう若くもない女がはしゃいでいるさまをまっさらな目で見た人がどう感じるのかも、ちょっとわからない。まあ、とにかく、市井は元気そうなのでよかった。
 ソファで五分ほどの映像を繰り返し何度か見た。シーリングライトを消し横になって地上波に切り替えてしばらく眺めていると徳井義実が北白川の話を始めてすごくおもしろいのにいつのまにか眠ってしまった。朝になってとくに代わり映えのしない一日をやり過ごして、そんな日々がふつふつと積み重なって北京オリンピックで上野由岐子が超人のような活躍をした夏も過ぎ去って、僕は「あなたとは違うんです」と吐き捨てる総理大臣を到着が遅れたボーイング747のシートで眺めていた。またか、とは思った。リーマンショック当日のバラエティでタレントたちが「株価が気になって番組どころじゃない」と口走り、M-1グランプリでオードリーが2位になっても、僕の部屋のクローゼットにはまだビニールも破っていないマフラーが何枚か入っている。

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まぶちさん

多田洋一

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文芸創作誌「Witchenkare」(ウィッチンケア)発行人。東京都町田市在住。 フリーランスのライター/エディター。
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