『貝に続く場所にて』のタイトルが示すもの

東京西側放送局で、石沢麻依さんの『貝に続く場所にて』を取り上げた。

放送内では作品の解釈というよりも、「いかに同作が芥川賞としてふさわしいか」をメインに話していたので、ここでは解釈の方に焦点を当ててみたい。

とはいえ、密度の高い(前提知識を多く必要とする)暗喩が散りばめられ、それらが渦のようにテーマを形成していくこの作品において、そうやすやすと「決定版」の解釈を提示することはできない。重要なメタファーを逐一取り上げていくだけでも、おそらく修論レベルのボリュームが必要になりそうだ。

というわけで、ここでは限定的な切り口からの解釈を行うこととしたい。取り上げるのは、『貝に続く場所にて』というタイトルそのものである。なぜこの作品に、このタイトルがつけられているのか。これを紐解きながら、作品の全体的なイメージ(!)を提示してみようと思うのである。

死者の記憶

一般に、貝から喚起されるイメージとしては、「閉ざされている」「沈黙」といった言葉が思い浮かぶ。「私は貝になりたい」など、物言わぬ存在を言い表す用法である。

ここから、貝は「死者」のイメージにも結びつきやすい。作品のなかで参照される夏目漱石『夢十夜』の第一夜においては、死んだ女を埋葬する際に土を掘るために「真珠貝」が使われている。

同時に、貝は「記憶」の象徴としても用いられる。「貝殻を耳に当てると波の音が聞こえる」という現象から、「海の声を記憶する」装置として見なされるわけである。

ちなみに、波の音が聞こえるのは、貝殻が波の音と同じ「周波数」以外を遮断し、貝と耳の「隙間」から入り込み、内部の構造によって「共鳴」が引き起こされるからだという。周波数、隙間、共鳴。いずれも、作品のテーマに深く関わる言葉である。

作品内においても「貝」が登場するシーンは多いけれども、一般に通用しているイメージからしても、『貝に続く場所にて』というタイトルから「死者の記憶への追想」という含みを読み取ることは難しくないだろう。

他者の記憶との距離感

作中で追想されるのは、津波に飲み込まれ姿を消してしまった「野宮」である。震災から9年後、コロナ禍のゲッティンゲンに暮らす主人公のもとに、野宮は亡霊として姿を現すが、彼との距離感をうまく測ることができない。

タイトルの「続く場所にて」という部分には、この「距離感」のニュアンスも含まれている。死者の記憶をいくら追想しようと、それは決してどこかにたどり着くことはない。

「貝」のメタファーは、ホタテ貝をアイコンとする聖ヤコブを通じて、「巡礼」や「旅」のイメージとも結びつく。他者と苦しみを共にするための、終わりなき彷徨である。

ところで、貝殻を耳に当てたときに聞こえる波の音は、実際の波の音とは違うものだ。先に触れたように、それは「波と同じ周波数」が寄せ集められたものであり、私たちの耳が「あたかも波であるかのように」聞いてしまっているに過ぎない。

仙台で震災を経験したが、野宮のように津波の被害に遭ったわけではない主人公は、「揺れ」に対して身体的な恐怖を刷り込まれているが、一方で津波の現実的な恐怖には感覚を重ねることができない。それはどこまでいっても映像としての出来事であり、その点は被災地に居合わせなかった者とかわりがない。「距離感を合わせることの不可能性」は、さまざまな立ち位置にある人々の罪責感を、渦のように巻き込んでいく。

『貝に続く場所にて』が傑作であるのは、メインテーマである「他者の記憶にたどり着くことの不可能性」について、明示的にも非明示的にも描ききったことにある。非明示的、というのはすなわち、「ストーリーの中身」ではなく、修飾語やメタファーの多い「文体」そのものによって、情景の焦点をあえて定めなかったことを意味している。放送内では「ピントが合っていない」みたいなAmazonレビューを取り上げ嘲笑しているが、ピントのずれはテーマ上要請される技法なわけである。

距離感が可能にする共苦

さらに、この作品が傑作であるのは、この「不可能性」や「ピントのずれ」の感覚が、「共苦」というテーマをカオス的に成り立たせている点にある。

ウルスラのもとに集まる人々は、それぞれの喪失経験を抱えており、言うなれば「貝に続く場所」にいる(貝の晩餐、みたいな夕食会を開いていたことからも明らかだ。石沢麻依さんは結講普通にメタファーの「答え合わせ」をしてくれているから、中田の言う通り「わかりにくい作品ではない」のである)。

死者への追想は、どうしてもうまくいかない。その苦しみのもとに、異なる喪失経験を持った人々が集まってくる。死者の視点に自らを重ねることはできない。けれども、その重ねることはできない罪責の念を、誰かと共にすることはできるかもしれない。この作品で賭けられているのは、まさにこの「不可能性にもとづく共苦の可能性」である。

こうした構図が、「残された側の支え合い」といった形で生じているのではないことにも注意したい。登場人物の喪失経験は、それぞれ相互に共有されることがない。人間関係としても、互いに一歩引いたような距離感がある(距離感が必要だからこそ、ウルスラの元に集まる)。前提として、死者も生者も「わかりあうことはできない」のである。

繰り返そう。『貝に続く場所にて』というタイトルが示しているのは、「わかりあうことができない」というその「距離感」のことであり、テーマとなっているのはこの「不可能な距離感そのもの」に向き合うことの意義である。

……書きながら、この本をパラパラとめくり直し、私の解釈と作品との「距離感」に、悩まずにはいなかった。ともあれ、私の手に余る作品であることにはちがいない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?