ウーレイと開かない紙袋について

一歳の息子(ウーレイ)がやたらと癇癪を起こすようになった。場面はさまざまだが、ここ数日はデパートの紙袋と格闘した末、何かが納得いかないのかいきなり奇声をあげて紙袋を放り出す。

観察していると、いくつかスイッチがあるようなのだが、すべては把握しきれていない。紙袋は20センチ四方くらいだろうか、取っ手の部分も合わせると、70センチほどのウーレイが手にぶら下げるには少々大きい。そのため彼は取っ手を持つ手を肩の高さにまで上げ、よたよたと歩くのであるが、手が下がると紙袋が足にぶつかり、転んでしまうことがある。これがひとつのパターンである。

もうひとつは、紙袋の取っ手がクロスしてしまい、うまく開けないパターンである。五歩くらい歩いては、そのたび紙袋を開き、中身を確認する。しかし、左右の手にそれぞれ掴んだヒモがうまく分かれてくれるかどうかは、もうこれはギャンブルなのである。紐を解くなどという概念は彼にはないのであるから、気合いを入れて両の手を開いたときに、紙袋が開くか閉じるか、半々なのだ。不運にも、閉じる方が何度か続くと、これはもう奇声である。それはそうだ。二分の一の不運が連続すればキレたくもなるだろう。

子どもの頃は無邪気に生きることを楽しめていた、というのは大人の幻想で、彼らは何やらわけのわからぬ不満や不遇、不安に日々対処しているらしい。人生は辛いことの方が多い、と私たちは言うけれども、それは乳児の頃から変わらない真理なのかもしれない。

ウーレイが紙袋の紐を解けずに、紙袋が開くか閉じるか、運を天に任せていることを、私たちは愚かなことだと思う。世界の仕組みを理解できていないのだ。しかし、私たち自身、世界の仕組みを理解できずに、愚かしい選択に身を委ねてしまうことがどれだけあるだろう。全知全能の存在から見れば、紙袋が開けず癇癪を起こすウーレイも、投資に失敗して絶望する誰かも、そう変わるところがない。

何かを企図すること、青写真を描くことそのものが、人間の本性に根ざした業なのかもしれない。もちろん企図は理解につながる。紙袋を開こうと思わなければ、取っ手の紐の解き方もわからない。しかし企図することそのものが、取り返しのつかない失敗を呼び起こすことがある。紙袋が開かずに、そのまま大爆発を起こす、そういうことだってあるのである。いや、むしろ爆発する方が本当なのかもしれない。

何を書こうとしていたかわからなくなってきた。書き出す前は、企図と理解といった言葉から、ハイデガーの話につなげようと思っていたのだが。紙袋を開けるのは難しいのである。

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