報ステCMは女性蔑視だったのか?

報道ステーションのCMが炎上している。リベラル寄りの報道番組が、女性を蔑視する表現を取ったというわけである。現在、テレビ朝日は謝罪のうえこのCMを削除しているので、問題となったCM内のセリフを貼り付ける。

会社の先輩、産休あけて赤ちゃん連れてきてたんだけど、もうすっごいかわいくって。どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかってスローガン的にかかげてる時点で、何それ、時代遅れって感じ。
化粧水買っちゃったの。もうすっごいいいやつ。それにしても消費税高くなったよね。国の借金って減ってないよね?

炎上した直接の原因は、「ジェンダー平等が時代遅れ」と解釈しうる上記の台詞である。その他、若い女性を「こいつ」呼ばわりしていること、そもそも流行に敏感そうな若い女性のイメージを「政治的関心を持っていることとのギャップ」を強調するために利用していることなど、さまざまな点にツッコミが入っているけれども、まずは「ジェンダー平等は時代遅れ」という表現について検討してみよう。

報ステの意図は?

結論から言えば、このCMから「報ステは『ジェンダー平等が時代遅れ』だと考えている」と解釈するのはあまりに性急である。

まず、CMにおいて「ジェンダー平等という考え方そのものが時代遅れ」などということは一切言われていない。「ジェンダー平等」をことさらに「政策スローガンとして」掲げていることが「時代遅れ」だと言っている。

つまるところ、「何を今さら、ジェンダー平等なんて大げさに打ち出しているんだ」というわけだ。これには2通りの解釈がありうる。

1. ジェンダー平等などすでに達成されているのであるから、今さら持ち出す意味などないだろう

2. ジェンダー平等を理念として掲げることは誰にでもできるのであって、問題はその先の具体的な政策である

炎上したのは、CMが前者の意味で解釈されたからである。けれども報ステの謝罪文を見れば、制作意図が後者にあったことが判然とする。

ジェンダーの問題については、
世界的に見ても立ち後れが指摘される中、
議論を超えて実践していく時代にあるという考えを
お伝えしようとしたものでしたが、
その意図をきちんとお伝えすることができませんでした。

抽象的な議論=言葉で済ますのではなく、具体的な行動・政策に移していかなければならない。それなのに、政治家はジェンダー平等を掲げるばかりで実際に事を起こさない。これが、CMの登場人物に語らせたかったところである。

何が間違っていたのか

それではなぜ、報ステの意図が伝わらなかったのか。「報ステが考えていたより、一般人の理解力が低かった」というわけではもちろんない。伝え方が間違っていたのである。

先の「ジェンダー平等というスローガンを掲げるのは時代遅れ」という表現が2番目の意味として伝わるためには、少なくとも3つの条件が必要になる。

1. 受け取る側が「ジェンダー平等は当然達成されなければならない」と前提していること
2. 受け取る側が「ジェンダー平等という課題に対して、現政権は実質的に有効な政策を打ち出せていない」と認識していること
3. 受け取る側が「報ステはリベラル色の強い番組であり、ジェンダー問題についても積極的に取り組んでいる」と認識していること

つまるところ、報ステ側には「ウチの視聴者なら、これで伝わるだろう」という見立てがあったわけである。CMの冒頭に入る「これは報道ステーションのCMです。」というテロップ、最後に入る「こいつ報ステみてるな」というテロップからも、これが極めて「内輪向け」の、ハイコンテクストな内容を含んでいることがうかがえる。

想像するに、CM制作者はこれを「報ステ視聴者が見て、ニヤッとできる」ような内容として考えていたのだろう。ところが、そうはならなかった。「内輪向け」にもかかわらず、「軽い口調の若い女性のイメージ」を利用することで、にターゲットを拡大しようとしたからである。コンセプトとターゲットがズレまくっているわけだ。

たぶん提示したかった世界観は、「軽い口調の若い女性が政治的な問題についてカジュアルに話せる先進性」である。最初の「赤ちゃん」についての言及は、職場における託児制度が整っていることの素晴らしさを訴えかけるものであるし、化粧品についての消費税の話は、身近な生活に政治が大きく関わっていることを示唆しよう、という意図がうかがえる。

しかし実際に、このCMから先進性は微塵も感じることができない。単純に、広告としてダサいのである。ダサさの原因は、「カジュアルさ」と「政治性」とのバランスの悪さである。「若い女性に政治のことを無理矢理言わせてる感」が前面に押し出されてしまっているのだ。

カジュアルならカジュアルで、「政治家」などに言及せず、男女や貧富の格差が身近な生活に潜んでいることを、日常的な語りのなかでグサリと指摘する、という形にすればいい。政治なら政治で、政策上の問題について明確な意見を述べさせればいい。「カジュアルな語りのなかに無理に政治の話題を持ち込んでいる」という制作上の都合が透けて見えることが、なんともダサいし、おそらくこれが「女性をバカにしている」という批判の核心にもなっているのだと思う。

リベラルへの違和感

制作上の観点から、報ステの失敗について述べてきた。ここまでの内容から推察されるように、私自身は報ステを「女性蔑視」の番組だとは考えていない。単純に、クリエイティブの質が低かったのである。もちろん、「ジェンダー平等が時代遅れ」と取れるような内容を、そのまま垂れ流してしまった責任は大きいと考えてはいるけれども。

このCMがSNSで炎上するのは、「さもありなん」といった感じである。ただ、私が恐れているのは、東京新聞やハフィントンポストといったリベラル系のメディアや、同じくリベラル系の国会議員や批評家などが、「報ステ=女性蔑視」という見方に与している点である。

そのなかには、私自身いつも「この人は慧眼やなぁ、鋭いなぁ」と感嘆しきりの人物もいる。普段の鋭さから考えれば、彼らが報ステ側の意図を読み取っていないはずがないのであるが、意図的にか文脈を好意的に捉えることはせず、「わかりやすい立場」を取っており、私は困惑してしまっている。

菅首相への不信、オリンピックをめぐる不祥事と、立て続けに保守層に都合の悪いニュースが国民の関心を集めている。これに乗じて、「切るべきものは切る」という意識、「声を上げることで国を動かすことができる」という意識を高めることには、確かに大きな意味があるように思う。

けれども、リベラルにとっての生命線は、複雑さへの目線ではなかったか。もちろんこれは私の勘違いかもしれない。あえてセンセーショナリズムに与し、単純なものの見方に乗じることでしか、なしえないこともあるのかもしれない。しかし私自身としては、複雑なものを複雑なまま咀嚼することが重要なのではないかと、声を大にして訴えたいのである。

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