ヤンキーはどこへ消えた

※別アカウントで2020年8月13日に書いた記事の再掲です。

「マンガBANG」のアプリで『ナニワトモアレ』という漫画を無料で読めるので、最近毎日読んでいる。昭和の終わりから平成の初めにかけて一つの社会問題ともなった、「環状族」と呼ばれる走り屋たちの物語である。

グループを組み、200km近い速度で一般車の間をすり抜け暴走する、迷惑極まりない集団である。数多くの「チーム」が存在し、暴走族上がりの18~20前半のメンバーで構成されていることが多かったという。車での暴走行為はもちろん、チーム間の揉め事においては暴力沙汰も珍しくなかったらしい。

ぼく自身は現在33歳で、環状族の最盛期にはまだ幼稚園児だったから、当時のことなど覚えていない。けれどもぼくが高校生の頃までは、ヤンキー文化の名残りのようなものが残っていた気がする。

中学には金髪リーゼントが3人くらいいたし、いわゆる不良グループが学校間で縄張りを争い合う、みたいなこともしばしばあった。ぼくは今でいう「陰キャ」側の人間だったので、そういう場面を目にしたことはほとんどなかった。けれども、中二のときだったか、友達と近所の公園の夏祭りで出店を回っているときに、同級生たちが切迫した様子で「やばいよ、ダイスケ(近隣中学の番長的な存在で、このエリアで一番強かったという)きてるらしい、まじ目合わせんなよ」などと伝えまわっているのを聞いて、なにやらただ事ではないダイスケの影響力に、見てもないのに足を震わせた思い出がある。

あの時代はよかった、などと当然言うつもりはない。単純に、まだまだ野蛮さが残っている時代だった。基本的にヤンキーは身内に優しいので、非ヤンキーの生徒に手を出すことは(少なくともぼくの知る範囲では)なかったが、ぼくはいつも、暴力への潜在的な恐怖を抱き続けていたように思う。

学校は、権力構造がもっとも原始的な形で現れる場所だ。ぼくの学校では、「喧嘩が一番強いヤツが威張り散らす」ということはなかったけれど、それでもやっぱり誰もが一番強いヤツのことを意識していたし、潜在的に恐怖を感じていたと思う。

ぼくは少しだけ、高校で非常勤講師をしていたことがある。つい去年までやっていたから、それなりに「あの頃」と「現在」がどのように異なっているのか、ということは把握できているつもりだ。ぼくの目から見て、はっきりと異なるのはやっぱり生徒間の「権力構造」だ。

ぼくらの頃は、暴力性が権力の裏付けとなっていた。威張り散らさなくても影響力はあるし、目立つ女子と付き合うのはいつもヤンキーだった。

いま、権力を裏付けるのはキャラクターとしての魅力である。ネット社会の発展とともに、ヤンキーは姿を消していき、SNSの流行とともに「リア充」が、動画コンテンツの発達とともに「陽キャ」が、権力構造の上位に位置することになる。

「ヤンキー」と、「リア充」「陽キャ」との間には、決定的な断絶がある。彼らを区分するのは、「学校以外の外部に対して開かれているか」という点だ。

ヤンキーの影響力は、ごく閉じられた社会においてしか通用しない。それは彼の権力が「暴力」に由来するもので、実際に彼と「対峙」することなしには、当然暴力は脅威となりえないからである。

後者の二つは、「オープンな世界」において承認された存在である。より大きな枠のなかで権威づけられた存在は、当然のことながらローカルな場でも大きな権威を持つだろう。

教室における権力構造は、「対峙」の関係を必要としなくなった。「そこに存在していなくても影響力を持つ」というのは、まさしく「象徴」としての機能であり、「実在」ではなく「キャラクター」として、現在陽キャたちは影響力を持つようになったのである。

…話が逸れるうちに、リア充と陽キャの区別とか、書きたいことが増えてきたので、続きは次の記事に。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?