品川駅ディストピア広告の撤回・謝罪に見る“コンサル系企業の闇”

昨日、品川駅のディストピア広告について書いた。

タイトルにもあるように、あの広告は施策として間違いではないという内容のものだ。趣旨としては、「どうせターゲットは経営層なんだから、一介の労働者の声なんて気にしないでしょ、影響力を誇示できればいいんだから成功でしょ」というものである。要するに、私はあの広告を一種の「炎上商法」として捉えていた。

ところが、これは私の認識違いであったらしい。私は記事内で「撤回や謝罪に追い込まれたとするなら、施策の成功とは言えない」としつつ、その可能性は低いだろうと書いた。炎上など織り込み済みの施策だと思っていたからだ。実際には、私が記事を書いている時点ですでに、広告は取り下げられ、広告主からの謝罪が表明されていた。私は完全に間違っていた。

正直、私は度肝を抜かれている。広告の内容に対してというより、撤回・謝罪をしたことに対してである。それをするということは、広告主にとって炎上が「想定外」だったということだ。つまり、彼らは本気で、「今日の仕事は、楽しみですか」というメッセージが労働者に気づきを与え、彼らの勤労意欲を鼓舞するのだと信じていたのである。正気の沙汰とは思えない。

この撤回と謝罪を通じ、広告主が世に知らしめたことは、彼らが「一般労働者の反応を汲めない企業」だということである。人材開発やコンサル系のサービスを扱う企業が、労働者の気持ちを汲めない自らの性質を世に知らしめたことになる。これはシビれる。これが「リブランディング」における施策だったというのもアツい。大真面目にやらかしてしまったのだ。大失敗も大失敗である。昨日の記事は間違っていた。あらためて訂正したい。

さて、問題は要するに、「なぜ彼らはあんなメッセージで人を啓発できると考えてしまったのか」ということになる。毎度おなじみの、「クリエイティブの暴力性」と、企画から公開までのプロセスにおける「自浄作用の欠如」の問題になるわけである。

こういう状況に陥るのは、大きく2つのパターンがある。受注・発注の関係において共有・チェック体制に何らかの不備が生じているケースが1つ。これは構造的な問題である。もう1つが、組織として特定の価値観に染まってしまっているがゆえに、批判機能が働かないケースである。

今回の広告がどのような構造で製作されたのかはわからないけれども、まぁ恐らく後者なのだろう。ナチュラルに、「働くって、本来素晴らしいことだよね。個性を発揮して、情熱を傾けて、そういうのってステキやん?」と訴えかけてきている。文面からは「搾取の肯定」に加担している意識は微塵も感じられない。無邪気なのである。

おそらく、今回の問題はこの上なくシンプルだ。広告主がそもそも、労働を搾取構造において捉える目線を持っていなかった。いまや「労働=企業による搾取」という認識は労働者が広く共有するところであるが、広告主たちは価値観をアップデートできていないのである。

あるいは、コンサルというサービスの性質上、「労働=搾取」という構図を認めてしまうと、経営層に訴求ができなくなる、というのもあるかもしれない。「やりがい」は長らく、搾取を肯定する公然の欺瞞であったわけだけれども、これが成立していたのは企業の金払いがよかったからである。本当に仕事にやりがいがあったわけではない。金がたくさん入るから、やりがいも感じられる。それだけの話である。

やりがいだけで人は釣れない。しかし、搾取なしには経営が立ち行かなくなる企業も多いのだろう。かつて「やりがいによって人を動かせていた時代」へのノスタルジーを捨てられない。「あの頃をもう一度」というわけである。

労働の美徳を訴えかける「やりがい搾取」は、さながらOSをアップデートしてしまうと使えなくなるアプリである。アップデートしたくない人々を顧客とし、古い名作アプリを販売している。コンサル企業は幻想に付き合わなければならない。あるいは、自らも幻想の中に留まらなければならない。そうするうちに、新しいアプリが使えなくなっていく。

この広告は完全に「やっつけ」である。なんの捻りも新しさもない。旧態依然の体制に対するありがちな批判を展開しつつ、労働を至上の美徳とする旧来の価値観を、「イノベーション」とか「ドライブ」とかいうカタカナ語で飾って再生産している。意識高い系企業のテンプレートであり、10分くらいで書けそうだ。

旧来の悪しき構造を批判しながら、自身もその構造を再生産し、巧みな言葉でそれを隠蔽する。あまりの巧みさに、パーフェクトな自己欺瞞が成立してしまっているわけである。しかしその欺瞞は、社会的に共有される「低賃金」の問題から、目を背け続ける者にしか通用しない。

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