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ターン

 タナカヒロミは四十五歳の時、人生を終わりにすると決意した。生理ナプキンについた血液が茶色かったのは一つのきっかけに過ぎない。ヒロミは独り身で恋人はいなかった。今まで異性と付き合ったこともない。自宅近くのドラッグストアで働いている。同僚と口はきくが友達はいない。当たり前のように語られる「女の人生」が、ピリピリと肌をさしたのはいつの頃だったか。今では痛みすら感じない。仕事が終わり、ナプキンの代わりにおりものシートをカゴに入れる。レジの横にその紙は貼ってあった。

「人生に先がないと思っているあなたへ。
自殺でも安楽死でもない
人生の終わらせ方をしてみませんか」

 ヒロミはスマホでQRコードを写し取り、アパートに帰ってHPを見た。「ライフターン研究所」という、不思議な文様と美しい景色の写真で飾られたサイトが現れた。ヒロミを引き付けたのは次の一文だった。
「今まで生きていて良いことがなかったあなた。

人生がどん詰まりだと感じているあなた。
確かにあなたの人生は行き止まりです。
ではどうすればいいのか、その答えがここにあります」

メールを出すだけなら大丈夫よね、と入力したアドレスに返信が来たのは翌日だった。
「ぜひお話を伺いたい」
 詐欺ではないかと疑ってみたが、どうせ貯金はほとんどない。葬式代にも足りないくらいで、それがヒロミに自殺を思いとどまらせた一因でもあった。両親はすでに他界していて兄弟姉妹もいない。詐欺だとしても誰に迷惑をかけるというのか。
 ヒロミは誰かに強く望まれたことがなかった。幼稚園の砂場の記憶までほじくり返してみても思い当たらない。いつも目立たない子どもだったし、成人してからもそうだった。だから銀座三越近くの駅で降り、スマホの告げるままにたどり着いたビルの一室で健康診断を受けた後、「貴女のような人を探していた」と、紫色のスーツの女性に両手を握られたときは死ぬほど仰天した。
「病歴なし、既往症なし、欠損なし。血圧オッケー、血液良好、体型標準」
 それに、とスーツに合わせたような紫の髪に銀を毛先にあしらった妙齢の女性はふっくらと微笑んだ。
「ご家族もいらっしゃらないし」
 ヒロミは自分の両手を包んでいる女性の手を見た。滑らかで肉付きがよくささくれなど見当たらない手には、凝った細工の指輪がはまり、爪は深紅のマニュキュアできらめいている。女性から漂ってくる微かな香水は夜の薔薇のようだった。ヒロミは自分とは別の生き物であるその女性と、恐る恐る目を合わせた。彼女が心底自分を望んでいるのがわかった。それは心に注ぎ込まれた赤ワインのように、ヒロミを火照らせた。
「貴女のお身体に手を加えるようなことは一切いたしません。私たちの仕事は、もう人生に先がないと思っている方に『ターン処理』を施すことで、残りの人生の苦痛を和らげることですわ」
「ターン処理」という言葉は聞いたことがなかった。首をかしげるヒロミに、奥から出てきた白衣の男性はわかりやすい言葉で説明してくれた。「『ターン処理』を施すことで、これから貴女の精神年齢は一歳ずつ若返ります。残念ながら肉体を若返らせる方法はありませんが、精神を若返らせることを我々は可能にしたのです。貴女は四十五歳ですから、残り四十五年、九十歳まで生きる契約になります。我々は一人でも多くの人の生きる苦痛を軽減したいと思っているのです。けれどもご承知のように、新しいことは受け入れがたいのが世の習い。我々は貴女のような勇敢な志願者を探していたのです」
 契約書には年額にしてヒロミ一人が暮らしていけるだけの金額が提示されていた。契約期間は四十五年、葬式代くらいは残りそうと計算したヒロミの心は大きく動いた。男性はさらに優しく言葉を続けた。
「もちろん契約ですから、いくつか守っていただかなくてはならない重要事項はあります。第一に貴女が『ターン処理』を受けていることを他言してはなりません。これは『守秘義務』といって、この研究所のみならず、世間の誤解から貴女を守るためでもあります。また、契約期間の順守については、この注意事項をよくお読みになって……」
「私を……守る……」
 そんな言葉を聞いたのも初めてだった。ヒロミは夢見心地で男性の話を聞き、気がつくと書類にサインしていた。

 ヒロミの生活は一変した。「ターン処理」は二時間で終わった。処置室から出た時は何も変わらないように思えた。けれど、まず名前が変わった。
「ただ文字を組み替えただけですわ」
 そう女性は告げたが、「カナタミヒロ」という名前が元ヒロミにはとても新鮮に映った。ミヒロはアパートに戻り、そのまま店に復帰した。有休を取って戻ったミヒロがネームプレートの変更を告げると、店長は微笑んで「おめでとう」と言った。名前の変更はもっと簡単だった。誰もヒロミという名前で呼ぶ人はいなかったからだ。今までと変わりない生活が続いた。けれど、ミヒロには未来が見えた。あと四十五年で私は死ぬ。それはなんというきっぱりした未来だろう。
 五年ほど経って生理が終わった時、ミヒロは爽快感を感じていた。ちょうど四十歳の誕生日を迎えたばかりだった。身体には活力がみなぎっている。これから迎える三十代をどのように過ごそうか。考えた末に社交ダンスを習うことにした。ミヒロは教室に通い始め、衣装を身につけて踊った。ヒールをカツカツと鳴らし、ダンスフロアを踏みしめる時、喜びが背骨を駆け巡った。普段着るものも変わっていった。ミヒロは華やかな色の服を選ぶようになった。髪にも気を使うようになり、月に一度は美容院に通いカラーリングを楽しんだ。マニュキュアはもちろん、ペディキュアにも挑戦してみた。全身エステも経験した。ダンス教室の仲間は六十〜七十歳くらいで、ミヒロちゃんは若いね〜、と言われるたびに嬉しさがこみ上げた。ドラッグストアにはもう勤めてはいなかった。時々銀座に行ってチェックを受けた。
「順調です」と髪がオレンジに変わり、少しほっそりした女性は言った。「貴女は本当に適応力があるわ」
 ミヒロは微笑んで称賛を受け入れた。三十歳の誕生日を迎えた年、ダンスフロアで転んで左足首を骨折した。ひと月以上を自宅で過ごしたが、ダンス仲間が何くれとなく世話を焼いてくれたので不自由はなかった。中でも講師の真島は頻繁にアパートを訪れてミヒロを気遣った。真島は六十代。昔は舞台にも出ていたというハンサムな初老の男性で、結婚していたこともあるという。真島の好意は嬉しかったが、年の差を感じてしまい本気にはなれなかった。けれど骨折も治り、真島とささやかな晩餐を楽しんでいた夜、ミヒロは突然真島に抱きしめられた。初めての感覚だった。子宮が疼き、触られた箇所が火照った。ミヒロは受け入れてもいいと思ったが、結合はできなかった。真島が途中で萎えてしまったからだ。それでも真島の腕の中でミヒロは幸せを感じていた。ミヒロは真島と関係を持ち始めたが、同居もせず籍も入れなかった。守秘義務を破り、真島に「ターン処理」のことを打ち明けた。真島にも「ターン処理」を受けて欲しかったからだ。真島は微笑んで、こう返した。
「それはいい考えだね。僕もこれから一歳ずつ若返っていくことにしよう」  
 ミヒロは喜んだが、それは真島の優しさに過ぎなかった。ミヒロは若返っていくのに、真島は歳をとっていったからだ。二人は十年一緒に過ごした。真島は七十二歳で癌を患い、死んだ。ミヒロは二十歳になり、一人取り残された。胸の中は悲しみで溢れていたが、底では希望が滾(たぎ)っていた。 
ようやく独り立ちできる、とミヒロは思った。私はこれから世の中に出ていくのよ。

 一年後、渋谷を歩いている時、スカウトされた。オーディションを受け、新しいグループ「ターン老坂75」としてデビューすることになった。歌は口パクだったが振り付けは一生懸命覚えた。初めてのステージロケの時、並びに「ライフターン研究所」でミヒロの手を握ってくれた女性がいた。女性の髪は緑色になっていた。彼女と肩を並べるようになった自分が誇らしかった、今のミヒロの髪はシャイニングレッド、輝く赤だった。休憩時間に話しかけられた。女性は「コイケマリア」と名乗った。 
「ターン処理」を受けるつもりはなかったのに、貴女が心の底から人生を楽しんでいらっしゃるように見えたから、とグリーンの髪のマリアは笑った。
 ミヒロはマリアと一緒に行動することが多くなった。レッドのミヒロとグリーンのマリアのコンビは、一列目の中央の常連になった。各地に巡業にも出かけた。ミヒロは幸せそのものだったが、マリアは最近塞ぎがちだった。ある日、ステージが終わり、ホテルに帰ってから、マリアは同室のミヒロの前で涙ぐんだ。
「契約を守れるかどうか不安なの」 
「大丈夫、好きな時に『卒業』できるって『75』の契約には」 
「違うわ、その契約じゃない! 研究所の契約よ。貴女はあと何年残っているの?」 
「え〜と四十五年契約だから……後十八年かな」
「私は五十年契約だから、あと二十五年残っているの。もしも契約をまっとうできなかったら……」 
 そう言われてみれば、そんなことが書いてあったような気もした。けれど、ミヒロは契約書を隅々まで読む性格ではない上に、毎日が本当に楽しかったから気にしたこともなかった。
そうよね。マリアはもともと研究所側の人だったから、内容をよく知っているのよね。 
 ミヒロはマリアの心配を笑い飛ばした。 
「どうせ死ぬのよ。生きているうちに楽しまなくちゃ」 
 花の盛りは短かった。三年後、マリアは「卒業」し、ミヒロもそれに続いた。十五歳になっていたので「両親」と一緒に住むようにと研究所から指示があった。今まで住んでいたアパートを引き払い、新しい「ホーム」に行くと、そこには優しそうな女の人と男の人がいて、「ママ」、「パパ」と名乗った。私はまだ一人でやれる、とミヒロは思ったが、研究所の「指示」は絶対だった。それが不満でミヒロはことごとく彼らを無視し、わがまま気ままに振る舞った。ママやパパが悲しそうな顔をするのをいい気味だと思って見ていた。食事の内容にケチをつけ、時間になっても食堂に降りていかないことが多くなった。ミヒロは親たちの目を盗み、行き先も告げずに外出した。一日中街をさまよい歩き、警察に補導された。不思議なことに警官はとても優しかった。ミヒロの頭の中で何かがカチカチと音を立てたが、それは意識に上る前に霧散した。「ターン処理」の効果は素晴らしかった。 
「ホーム」には、ミヒロに会いに来る人が引きもきらなかった。彼らの質問はいつも同じだった。
「毎日幸せですか?」
「不安に思うことはないですか?」
「体の調子はどうですか?」
「これからやって見たいことはありますか?」 
Yes、NoそしてWell。 
 四番目の質問にはいつも戸惑った。そのうち自分の本当にやりたいことがわかってきた。十歳の誕生日に初めておねだりをした。 
「月の沙漠を旅してみたいの。そして王子様とラクダに乗りたい」
 子どもの夢だと一笑に付されると思っていた。けれど、プロジェクトが立ち上がり、「老坂」当時の映像が毎日ネットを巡った。クラウドファンディングが始まったかと思うと一週間で目標金額を達成し、気がつくとミヒロはモロッコにいた。ベリーの衣装を身につけたミヒロが一足歩くごとに千の鈴がシャラシャラと鳴った。幾重ものベールを身体に巻きつけていても、砂漠の夜は寒く、ミヒロは震えた。ミヒロを抱きかかえてラクダに乗せたのは、浅黒い肌の若くたくましい男性で、ザジドと言う名前だった。彼はその熱い身体でミヒロを背後から包んだ。ラクダの乗り心地は車椅子に比べても最悪だったが、空には月が煌々と輝き二人を照らした。その様子は全世界にライブ配信された。人気ユーチューバーが感動のルポを伝えたが、遠くなったミヒロの耳には届かなかった。

 月の沙漠を 
はるばると 
旅のラクダが 
ゆきました

 ミヒロの歌声が世界を駆け巡った翌日、ミヒロはラクダから落ダして、骨盤を損傷した。全世界が涙した。誰もがこれまでと思った中、日本に帰ってきたミヒロは着々と回復した。落ダの責任を取らされるところだったザジドは、ミヒロのたっての願いにより来日し、身の回りの世話をすることになった。着替えから入浴、さらには下の世話までをミヒロはザジドに委ねた。回復はしたものの、めっきりと弱ったミヒロをさらに落ち込ませたのは、マリアの消息だった。マリアは二十歳を迎える前に花の命を病に散らしたという。「契約不履行」の責は重く、マリアは全財産を「研究所」に差し押さえられた上、「コイケマリア」という名前を剥奪された。マリアは無縁墓地に埋葬された。マリアの本当の名前をミヒロは知らないままだった。 
一日一日を精一杯生きよう。 
 ミヒロは固く誓った。ママやパパの言うとおり、辛いリハビリにも励んだ。自分の足で歩くことはついに叶わなかったが、つかまり立ちができるようになった日のママとパパの喜びは大変なものだった。 
ママは涙ぐんでパパに言った。 
「ミヒロが……自分の足で立てるなんて!」 
 ザジドはミヒロの大好きなフロマージュを介助して食べさせてくれた。その後、ザジドは一旦帰国し、今度は甥や姪を大勢連れてきた。「研究所」は喜んで彼らを雇用した。ミヒロは最後の数年を車椅子で過ごしたが、食欲は衰えず大きな病にもかからなかった。ザジドと一緒に旅行にも出かけた。 
 契約が満了する日、「ライフターン研究所」は華々しいセレモニーでミヒロの0歳の誕生日を祝った。吸い飲みからアボガドとサーモンのムースを楽しんだミヒロは、花束に囲まれたベッドの上で幸福だった。オムツこそしているものの、口で栄養は取れていたし、意識ははっきりしている。ザジドは一週間前に特別休暇をもらい、帰国していた。 
ザジドが帰ってきたら、次はどこに行こうかしら、とミヒロはぼんやり考えた。 
 その晩、ママとパパがやってきた。二人は満面の笑顔でミヒロを抱きしめた後、代わる代わる頬ずりした。
「愛しているわ」とママが言った。 
「愛しているよ」とパパが言った。 
 ミヒロは微笑もうとしたが、よだれが口から溢れただけだった。最後の食事には呼吸を緩やかに止める薬が入っていた。
 かくして契約は履行された。ミヒロは0歳でこの世に生まれた時と同じように、死んだ。

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