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シュレーディンガーの招き猫

シュレ氏は困っていた。
シュレ氏は物理学者である。
シュレ氏の前には箱がひとつ置かれている。
開けるべきか、開けざるべきか。

 箱は皺ひとつない紙に包まれている。故郷オーストリアに咲くカレンデュラを思わせるオレンジ色に、金のOriduruの絵柄が入っている。巻いてある白い紙には黒々とした文字で「お中元」と書かれている。4月から日本の大学に赴任したシュレ氏には、いまだに解すことのできない文字であった。
 シュレ氏はため息をつき、メガネをいじった。
開けるべきか、開けざるべきか。それが問題だ。

 量子物理学の研究者であるシュレ氏は、十年前に一つの仮説を出した。この仮説は「シュレーディンガーの猫」と呼ばれ、シュレ氏を一躍有名にした。

蓋をした箱の中に一匹の猫を入れるねん。ほんで半減期が一時間の放射性物質も入れておくねん。一時間後に確立五十ぱーせんとで放射線が飛び出すとするやん。すると検出器に連動した装置が青酸カリの瓶を壊すやん。するってえと毒ガスが発生して猫は死ぬねん。でもな放射線が飛び出さへんかったらどうや? 瓶は壊れず、猫は生きとるねん。蓋を閉めてから1時間後、果たして猫は死んでるんやろか、生きてるんやろか。開ける前に、よく考えなあかんで。
エルヴィン・シュレーディンガー著 大阪大吉訳
「量子力学の現状について」より

「物質は、物質でも波動でもある」という量子論の考え方を検証するための仮説なのに、人々は違うところに反応した。
 ドイツの老婦人は目に涙を浮かべてシュレ氏に詰め寄った。
「先生、なんてことをなさるんですか! 毒薬と猫を一緒に詰め込むなんて!」
 大戦が終わった後、シュレ氏が誰一人知る者のない東洋の島国からの依頼を引き受けた裏には、こんなワケがあった。

 ある日、シュレ氏に手紙が届いた。日本人が好むネズミのしっぽのような文字で書かれていた。シュレ氏には解読不能だったので、大学の事務局で翻訳してもらった。

拝啓
ドクトル シュレーディンガー
貴君は猫が嫌いであるか。
貴君の施工した実験計画は残酷極まりない。
貴君が猫を実験対象にしたように、我輩は貴君を吾輩の実験対象にする。
数日後、貴君の元に一つの箱が届けられるであろう。
出来るだけ大勢の人の前で、その蓋を開けたまえ。
蓋を開けた時、貴君は生きているか、死んでいるか。
開けないという選択肢は、貴君の物理学者としての面子に泥を塗るものである。
実験に猫を使った愚かさを身をもって思い知るが良い。
昭和二十一年五月吉日               敬具  
                   招き猫 拝

 箱は数日経って届いた。シュレ氏は受け取りを拒否することも、開けずに捨ててしまうこともできた。けれど、シュレ氏には「Stolz」があった。この国の言葉にしたら「矜持」?
 シュレ氏は先の大戦ですべてを失った。東洋の島国でひとり命を繋いでいる日々。
死んでも、とシュレ氏は思った。誰も悲しまない。
シュレ氏には「Stolz」しかなかった。
肘掛椅子の上で姿勢を正し、白い紙の重なりにそっと指を差し入れる。続いてオレンジ色の紙も丁寧にはがす。その紙はシュレ氏の世話をしてくれる下女の千代に残すつもりだ。千代は痩せこけた幼い娘だった。バサバサの髪を後ろでひっつめている。お膳を下げに来た時、滅多に表情を崩さない口元が、納豆の糸が切れずに奮闘しているシュレ氏を見てかすかにほころんだ。抜けたばかりの前歯の跡が見えた。戦災孤児であったのを遠縁の大家に拾われ、煮炊きから洗濯掃除、果ては便所の汲み取りまで、いつ寝ているのかと思うくらい働かされているのをシュレ氏は知っていた。
千代の作ってくれたOriduruが文机の片隅からシュレ氏を見ていた。
閃きが訪れたのは一瞬後。シュレ氏は箱を机の上に置き、汗ばんだ手を離すと、メガネをいじった。

昭和二十二年三月
 一年後、シュレ氏はドーバー海峡を渡る船の中にいた。暦の上では春とはいえ、霧が出るとかなり冷え込む。シュレ氏は濃灰色のオーバーの襟を立てた。その裾をくつんと引く小さな手があった。
「ミスタ、あれなに?」
 ピンクのミトンをはめた千代が、大きな白い鳥を指さした。
「Seagull、カモメだよ、Chiyoさん」
「セグル?」
お千代は小首を傾げ、精一杯発音する。前髪を下ろした千代は相変わらず幼いけれど、小さく開けた口元には新しい歯が光っている。赤いオーバーを着て微笑む姿は、あの時よりはるかに幸せそうだ。
あの時、シュレ氏の脳裏に浮かんだのは千代の顔だった。自分の死はかまわない。けれど、死体を発見するのは間違いなく千代であった。大家の女将は異人を忌み嫌い、シュレ氏の世話はすべて千代に押し付けていた。女将の怒鳴り声と、続く千代の悲痛な声がシュレ氏の脳裏に蘇った。ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ……。
私が死んだら、お千代さん、居場所ない。
その瞬間、シュレ氏は「Stolz」を捨てた。
シュレ氏は開けないままの箱と、手紙をGHQに届けた。大戦中に世話になっていたトリニティカレッジの学長に手紙を書き、お金を払って千代を養女にした。
 懐かしい白亜の海岸が霧の向こうに迫ってくる。シュレ氏は千代に微笑むと、自分の方に伸びてきた小さな手をぎゅっと握りしめた。
千代はダブリンを好きになるだろうか。

ある日、シュレ氏に手紙が届いた。封蝋した正式な書式で、便箋にはこう書いてあった。

Dear, Dr. Schrödinger(親愛なるシュレーディンガー博士)
Do you hate a cat?(貴殿は猫が嫌いであるか?)
The experimental plan you constructed is extremely cruel. (貴殿の施工した実験計画は残酷極まりない)
Just as you experimented with cats, we make you the subject of my experiments.(貴殿が猫を実験対象にしたように、我輩は貴殿を吾輩の実験対象に…)
【中略】
You will know by yourself the stupidity of using cats in experiments. (実験に猫を使った愚かさを身をもって思い知るが良い)
May/15/1947 Best Regards,(敬具)
             The Cheshire cat(チェシャ猫 拝)
シュレ氏は頭を抱えた。

[続く?]

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