西粟倉1日目:没頭

本日から、岡山県・西粟倉村に来ています。あわくら温泉「元湯」にて、住み込みインターンという形で働かせていただきながら、EVERY DENIMの商品展示も開始しております。

9/22まで約2週間滞在するのですが、その間、この「山脇、毎日」を、できるかぎり出来事の日記にとどまらないよう、頑張ってまいりたいと思います。

元湯には、オーナーである井筒夫妻の間に2人の子どもがいます。(長男4歳、長女2歳)そんな2人と一緒に晩御飯を食べたり、お風呂に入ったりと、短い時間でしたが触れ合えました。

普段子どもと接することの少ないぼくにとって、彼らの一挙手一投足すべてが新鮮に映り、またそれに対する自分の反応も、新鮮なように思えます。

たとえばこの兄妹は、何かを「ながら」することはありません。興味の対象はすぐにパッパと変わりますが、そのときどきで向き合っているものに対しては真剣で、とても集中しています。パジャマのボタンを掛け違えないようにするだけでも、一生懸命取り組めるのです。

そうして1つのことに没頭する子どもたちは、身の回りの些細な変化を敏感に感じ取っているのでしょう、ただそれをうまく言語として伝える力を持ち合わせていないだけで、刹那的な今に集中し続ける彼らには、驚くほど多くのものが見えている。そんな気がしています。

そういえば先日ある方から、「時間軸の概念をもたない部族」の話を聞きました。彼ら部族は過去や未来など、今を起点とする「時」の感覚をもたないのだそうです。この部族や子どもたちと同様に、「目の前のものを遮る雑念が何もない」状態に陥ったとき、ぼくたちはどれだけ豊かな感情になれるのでしょう。

ぼくもちょうど4歳くらいのころ、初めて「死」というものを頭で理解しました。それは、誰かのお葬式に行ったとか、死を目の当たりにしたとか、そういうのがきっかけではありません。

初めて、「生から死に向かっている自分」という、時間の軸を頭で意識したのです。それ以来、1日たりともその感覚が消え去ったことはありません。ずっと何かが起きた後にあって、何かが起こる前という「今」の認識。相対化された今しか描けなくなりました。

そんな時間の軸を考えず、絶対的な今(表現が正しいのかわかりませんが)、もしそんな今に向き合えることが、感覚を豊かにしてくれるのだとしたら、いかに幼少期に触れる様々なことが大切なのか、改めてそんなことを考えていました。

山脇、毎日。