正しさじゃなくて楽しさで振り向いてもらえるような

おとといの自分に、ちょっと納得がいっていません。理由はうまく言えないけれど、noteを書いた後に、どこか心にもやもやが残って、居心地が悪かったのです。

おだやかでいるということ|山脇、毎日。|note(ノート) 

本音を言える場所が減っているとよく聞くけれど、同じくらいきれいごとを言える場所も減っているんじゃないか。どちらも叩きやすいのは間違いない。
正論がつまらないと言われるのは、そこに意思が感じられないからであって、吐いた正論に向かって努力していれば、それをきっと、人は見てくれていると思う。
ぼくは、まだまだきれいごとや正論を吐いていたいし、それを叶える術を、自分で見つけたい。

改めていま思うのは、ぼくや決して、正論を、それに向き合う意思の強さで評価されたいわけじゃなんだなと。

ぼくがやりたいのは、正論だと言われるようなものを、多くの人と、楽しく共有すること。その行為はめちゃくちゃ主観的であると思っています。

つまりぼくが発する言葉が正論だと思われているうちは全然ダメで、いかに正論が正論じゃなくなるかが大事なんだと。

正論という言葉には、客観的である上に、他人事であるというニュアンスも含んでいます。ぼくの言葉が他人事に聞こえるから、正論にも聞こえる。

いかに正しさから抜け出して、楽しいと思ってもらえるか。自分の描く未来に対して、楽しそうという理由で乗っかってもらえるか。

どんな風に自分を捉えてもらえるのか、捉えて欲しいのか考えることはめちゃくちゃ大事だと痛感する今日この頃だからこそ、強く強く思います。

正しさじゃなくて楽しさで振り向いてもらえるような、そんな存在でありたいと気づいたのです。

山脇、毎日。