命を預けるバス

昨日夜行バスに乗り込み、本日から岡山に来ています。今月3回目の岡山。さすがにバスの運転手さんの顔も覚えてきました。先週のお盆時期にも夜行に乗ったのですが、さすがに今週は比較的空いており、ぐっすり眠って到着することができました。

夜行バスに乗っていると、いつも不思議な感覚に包まれます。文字通りバスに「命を預けている」ような、急な下り坂やカーブを曲がるときのあの車内の振動は、大袈裟ではなく、自分が今バスと一蓮托生にあることを感じさせます。

夜行バスに限らず交通機関内では、よっぽどのことがない限り乗降を自由にできません。どんな場合でもアクシデントはつきものであり、それは交通機関内でなくても同じですが、事故に巻き込まれる可能性は0ではないのです。

ぼくたちは日常を過ごす中で、事故により命を落とすリスクに常につきまとわれます。普段はその事実を強く意識することはありませんが(いちいち考えては生きてゆけないので、やがて無視するようになります)ぼくにとっては、それを実感するのが夜行バスに乗っているときなのです。

バスの中でゆらゆら揺られているとき、なんとなく「あぁ自分は自分だけで生きられるわけじゃないんだな」という思いが頭をよぎります。そしてそれは決して嫌な感情ではなく、「自分は社会によって生かされている」という、むしろポジティブな思いが続けてやってきます。

それはむしろ開き直りに近い感情で、この世で生きていられるのは決して自分の力だけではなく、運や環境も大きく作用してくるわけであって、だからこそ、自分は自分のできることを精一杯やろう。と素直に思えてくるのです。

「生かしてくれてありがとう」は少し大袈裟かもしれませんが、暗闇に包まれた長い長い夜行バスの道のりで、そんなふうに自分を勇気付けながら、いつも眠りにつくのでした。

山脇、毎日。