歌い継がれる歌がいる

高校時代の話です。なんとなく友人と音楽の話題になり、当時流行っていたロックバンドのあれこれについて好き勝手語っていた時のこと、ぼくはふと「歌う人が作詞作曲をするのは当然。シンガーソングライターこそ歌い手のあるべき姿だ」というような意味のことを口にしました。

青臭いながら自分なりに精一杯ストレートさを主張したつもりだったのでしょう。あるいは何が伝えたいのかわからないパフォーマンスを含めたポップソングに嫌気がさしていたのかもしれません。そんな青臭いぼくの主張を聞いた友人は、すかさず反論してきました。

「でも、曲作りが得意な人が作った曲を、歌が得意な人が歌って届けるのは、それはそれでありなんじゃない? 本気で作ってもらった曲なら本気で歌おうと思うし、作り手と歌い手のそういう緊張関係こそが生み出す価値も絶対あると思う」と。

ぼくは青臭かったので、そんな反論をされても全くピンときませんでした。「いや、自分が作ってもない歌詞をどうやって気持ちを込めて歌うねん」と真っ向から反対し、浅い議論はそこですぐ終わりました。

青臭さが少し取れたいまのぼくは、昭和の歌謡曲が生み出す圧倒的な力に涙するようになりました。歌い継がれる歌が作詞・作曲家と歌い手のプロ意識がぶつかった、緊張感あふれる迫力が歌にまで染み出し、多くの人の心を揺さぶってきたのだと今更ながらに気づきました。作詞・作曲家と歌い手のプロ意識がぶつかった、緊張感あふれる迫力が歌にまで染み出し、多くの人の心を揺さぶってきたのだと今更ながらに気づきました。

曲や歌詞に込められたシンプルながらも力強いメッセージは、今聴いても全く色あせることなく、むしろ素直にスッと心の中に入ってきます。「誰かに歌われることを目的として作られた歌」はひとりよがりさがまったく感じられず、”お茶の間”や大衆”に向けられて作られていたんだなあと、スケールの大きさを感じます。

これからの世の中で、なんにつけても「届けたい人にだけ届けばいい」という価値観がますます強くなっていくでしょう。なによりもインターネットがそれを可能にし、多様性・包括性を認める社会になればその様相は濃くなっていきそうです。

一方で、大衆向けのコンテンツは、もう新しくは出てこないのかもしれません。しかし、先の歌謡曲のような、ある意味で誰の心にも響く(とされる)ものはもので、生み出されないながらも、しっかり残っていって欲しいとぼくは願います。

歌い継がれる歌がなければ、新しい歌は生まれません。歌い継がれる歌がなければ、昔に想いを馳せることもできません。歌い継がれる歌がいつまでも残るよう、歌を歌い継いでいってほしいのです。

山脇、毎日。