公平に接するということ

当たり前のことですが、人と人との最初の出会い方は、その状況によって内容が大きく左右されてしまいます。「どこで会うか」の違いだけで、コミュニケーションの質が全く異なってくるのです。

ぼくたちは、誰かと新しく出会う場に入って行く時、あらかじめその場における自分の役割を、ある程度意識してコミュニケーションに参加します。しかし、実際に繰り広げられるコミュニケーションが当人の想定外の役割を求められるものだった場合、そのギャップに戸惑ってしまうことがあります。

なので、想定される役割が不透明であればあるほど、そこに飛び込んでいくのは不安になりますし、逆にその場で自分がどう振る舞えばいいか完全にわかっていれば、何も心配はいらないでしょう。

やっかいなのは、事前に想定していた役割が実際は全く違った場合です。これは良いパターンと悪いパターンがあります。そして、往々にして、良いパターンは想定よりも役割を”公平”に取り扱われた場合、悪いパターンは想定よりも役割を”強制”された場合が多いように感じます。

この”公平”と”強制”は、”具体”と”抽象”の関係性に近いかもしれません。具体と抽象は対義語なのでイメージしやすいと思います。

誰であれ、「自分自身」を見て話してくれた方が嬉しいですし、「一括り」にされるのは嫌でしょう。年齢、性別、容姿、学歴、括り方はいくらでもあると思いますが、不本意な役割を強制された人がそこに居心地の悪さを感じるのは、「自分のことではなく、実際には存在しない誰か」の話をされているように思ってしまうからではないでしょうか。

(ここまでは、場におけるホストとキャストが明確な場合を前提に書いてきましたが、この関係性自体があいまいだった場合は、もっと複雑な事態になると思います。また、”組織”などある種の統制を必要とする(ことになっている)場合も状況は若干異なります)

このように考えると、よく言われる「人とフラット(公平)に接することができる」という能力は、「どれだけその人自身を見られるか」という能力と密接に関係していることがわかります。今までぼくは両者を別々に捉えていました。

公平に扱うということは、立場を同じくするということではありません。場においてそれぞれ役割があるのは当然なので、それを皆等しくすることは役割が存在しないことになってしまいます。役割は当人たちが意識的に設定しなくても、勝手に決まってしまうものです。

そうではなくて、公平に扱うことは、役割がある前提を認めた上で、人をその人自身として見ることなんだと思います。その人自身を見るというのはなかなか難しいですし、ぼくも全然自信がないですが、この気づきをきっかけに意識したいです。

新しく出会う人たちと心地よくコミュニケーションできることは、とても素敵なことだと思います。

日々新しい人と出会う中で、感情の整理や自戒の意を込めて。

山脇、毎日。