同世代のぼくたちわたしたち

EVERY DENIMとしてジーンズブランドを運営する一方、大学生活は5年目を迎えています。同期のほとんどは就職・進学し、ほとんど顔を合わせることはなくなってしまいました。

大学生活ではほんとうに自分の自然体をさらけ出せる多くの友人を得ることができました(まだ終わっていませんが)。今から振り返ってみるとその要因は、けっしてぼく自身の特性というわけではなく、”同期”という概念を強く意識させる周囲の環境にあったと思います。


同期に抱く”仲間意識”

大学入学後、部活やサークル活動、学生団体など、なんらかのコミュニティに属する人は多いと思います。そこで形成される、先輩-同期-後輩といった関係性は、その人たち自身の性格や嗜好性による自然な結びつき以上に、同じ位置の当事者同士を強く引き付けると考えています。

言い換えれば、「あるコミュニティにおいて同期である」という理由だけで、自然と距離を縮める人たちが多くいるのではないかということです。

もちろんこれは万事に通用するわけではなく、その同期グループのなかでもさらに仲が良い/悪いの関係ができたりするのでしょうが、すくなくともぼくは、自分の意志ではなく偶然によって同期となった人たちに対し、ポジティブな意味である種の”仲間意識”を感じてきました。


関東-関西と大阪-京都

同期であるという理由で距離が縮まるのは、もろい感情であって、おそらく出会って最初のころしか通用せず、「やっぱり気が合わない」とか、「かけがえのない友達になった」とか、のちにはさまざまな関係に変化するでしょう。

また、こういった属性による仲間意識は「同期」に限ったことではなく、国籍や地域(出身)、性別、区分けの大小にかかわらず、つねに自分が帰属するコミュニティにおいて内と外を作り出し、内側に対して親近感が湧くのは、みんな経験のあることだと思います。

関東-関西のくくりであれこれ言うことがあれば、大阪-京都であれこれ言うこともあるのです。

なぜこういうことが起こるかというと、それはこういったコミュニティが人格の形成に影響を及ぼしているとみんなが感じており、同一のコミュニティで一定期間をすごした人とはなにか相通じるところがある、と本能的に感じるからだと思います。


同世代のぼくたちわたしたち

こういったコミュニティの種類において、地理的な区分けではなく、年代による区分けである同期、またそれを広くして「同世代」、という概念は、より大きな意味を持ちます。それは、人間が時の経過において肉体・精神的に成長/退化し、なおかつそういった影響を及ぼす要因において、時代は他を圧倒して強く作用すると考えているからです。

「2016年において20代前半であるぼくたちわたしたち」というのは、この世でもう二度と再現されることのないコミュニティであり、「2026年には30代前半」、「2036年には40代前半」など、時の経過にあわせてスライドしていくのです。誰ひとりこのペースを乱すことはできず、早回ししたりジャンプすることはできません

繰り返しになりますが、いまここにおいて同世代であるということはこれからも同世代だということであり、それだけでぼくはなんだか親近感が湧いてきます。

同じ時代に同じように未熟で同じような空気を吸った仲間として、一生ずっとなかよくしていきたいと思うのです。

山脇、毎日。