ぼくたちは何が欲しいのか

【物欲の消滅について】

「最近のワカモノはみんな物欲というものがない」「昔のワカモノといえば、欲しいものは少々無理をしてでも手に入れたはずだ」という文句はよく言われるところです。

ぼくも例に漏れず、物欲がめっきり減ったワカモノの一人。「若いうちにいろいろ買い物で失敗しておかないと、いつまでたっても良いモノを見る眼は養われないよ」といったアドバイスも大変よくいただきます。

なぜ最近のワカモノは物欲が減ったのか。昔に比べてワカモノにモノを買う余裕がなくなったとか、豊かでモノに溢れる世の中になったからとか、理由はいろいろと思いつくでしょう。

そこで今日は、「ワカモノ物欲消滅説」のそもそもの真偽は置いといて、なぜぼくが物欲がなくなったのかを考えてみたいと思います。


理由①:選択肢の多様化・類似化による正解のなさ

まず考えられるのは、何かモノを買おうと思った時に選択肢が多すぎる&似ているということ。

例えば洋服を買おうと思い立ち、自分の中で出せる予算を考えます。そこでどの価格帯に金額を設定しても、いまの日本のマーケットでは、余りある選択肢があることでしょう。しかもそれらは、一見すると何が違うのかよくわからない。

歴史を超えて「定番」とされた商品はありますが、ただそれだけをコレクションしていってもつまらないと言われてしまう。モノにおいて、もはや王道や正解は存在せず、なにを買えば良いのかわからない(そもそも”良い”など存在しない)状態に陥ってしまいました。

結果的にはモノ自体よりもそれを購入するプロセスへの意味づけを過剰に行うようになりました。「どういう経緯で自分はそれを買ったのか」を楽しむという方法です。


理由②:物欲は尽きないということに気づいた

次に、いくらモノを買っても刹那的に満たされるだけで、物欲は尽きることのない欲求なんだと悟るようになりました。満たされるどころか何かを買うときにはもう次の何かが欲しくなっており、次々と訪れる物欲によって、いま持っているモノを大切にできなくなってしまったのです。

考えるうちに、物欲という欲望に侵され、いつの間にか他の欲望までかき消されている気がしてました。消費のみが欲望であるという枠にとらわれ、人間が本来持っているはずの生産欲を失い、なんとなくいまを生きることに集中できない気分が長いあいだ続きました。

そして、ある日ふと、物欲の連鎖を断ち切りたいと考えるようになりました。


「必要じゃないけど欲しいもの」に目を向けよう

�①②の理由からぼくは、「必要なモノだけ買うようにしよう」という結論に至りました。「なくて済むならない方がいい」と自分に言い聞かせることで、精神的にもラクでいられますし、おおげさですが、なんだか主体的に生きられている気がしてスッキリしたのです。

以上のような思考プロセスをたどってきたワカモノは、ぼくだけではなくたくさんいると確信しています。

必要なモノだけを買うようになったワカモノは昔よりも買い物で失敗することを恐れ、間違いのないモノが飛ぶように売れるようになった(それ自身が本当に間違いがないのかは置いといて、間違いないと言われているモノ)のだと考えています。

そして、そのような欲求に応えるかのように、世の商品はより”ベーシック”を謳い、”スタンダード”を謳い、ワカモノの不安を解消してきました。

これを踏まえてぼくが言いたいのは、逆に、これだけモノにあふれた世の中において、必要じゃないけど絶対欲しいモノがあるということは幸せなことであり、欲しいと思ったその感情を突き詰め、大事にする必要があるということです。

とんちんかんなことを言っているように聞こえるかもしれません。でも、これだけワカモノが無難な買い物を好むようになったと言われる中で、あくまで主体的に選んだ必要でないモノには、必ず買い手の個性が表れており、その個性を大切にしてほしいと思うのです。

というのも、ここ最近の流れでは、ワカモノの無難な買い物に対する風当たりも強くなってきており、ただ間違いのないようにしてきた人たちがまたしても満たされなくなっている世の中が来ている。と感じているからです。

何が欲しいのかわからなくなってしまったぼくたちは、ある意味で途方に暮れています。そんな中で、自分の欲求を確認するきっかけとして、必要のない、欲しいモノに目を向けてみたらいいんじゃないか。という話でした。

山脇、毎日。