「何を言うかより誰が言うか」の本当の意味

SNSでのフォロワーの数は、実社会での知名度や影響力と比例する傾向があるといえるでしょう。

そのため、フォロワー100人のひとと1000人のひとがメディア上でおなじことを言っていても、フォロワー1000人のひとの発言の方が含蓄のある(より”刺さる”)ように思われる。「何を言うかより誰が言うか」とよく言われるゆえんです。


有名人よりも身近な”自分”

ぼく自身もブログをはじめるまではこの言説に対する信仰が強く「どこの馬の骨ともわからない自分が、わざわざなにかを言う意味なんてあるのか」と思っていましたし、その思いが強かったからこそ、発信することに対して足踏みしていた期間はとても長かったです。

しかし実際にブログを始めてみると、周りの人から少なからず反響をいただき、代え難い自己充足感を得られました。

そこで気づいたのは、どんなに有名な人よりも、自分の方が身近な人がいるということ。著名人の言葉よりも自分の言葉の方が刺さる人がいるということでした。

もちろんこれはぼくだけに限らずみんなに言えることで、ぼくにとっても、近しい人の言葉の方が胸に響くことがあるんだと、改めて気づいたのです。


確かにそこにいるひとりひとりに向けて

当たり前のことのように思われるかもしれませんが、この事実に気づいたとき、ぼくはとっても救われました。著名人と比較して、影響を及ぼす人数では話にならないほど小さい自分に、共感してくれる人がいるのは、なによりも「自分が発信することの意味」がそこにあるという証だからです。

確かにここにいる自分の言うことを、聞いてくれる人たちが確かにそこにいる、ということを実感できたのは、おおげさでなくぼくが生きていくための大きな糧となり、これからもずっと発信を続けていこうと思わせてくれるものでした。

「何を言うかより誰が言うか」はまさにその通りで、他のだれでもない自分が言う意味や価値を、みんなが持っているのです。

距離感の近さからフィードバックをしやすいという側面もあるでしょう。そういった意味でもひとりひとりがどんどん発信し、相互に影響を及ぼせる関係であることは幸せなことだと考えています。


やってみなきゃわからないのは結果だけじゃない 

なんにでも言えることですが、日々の思いを発信する、ブログを書くといった行為は、やってみなければわからないことがたくさんです。とくに、発信することによって自分の中で得られた気づきや知見は想像以上に多く、自分の大切な柱になっていっています。

みんなが自分にすなおになり、まっすぐな気持ちをそのまま出せること。それをみんなが認め受け入れ合えるときが、いつか来ることを願っています。

山脇、毎日。