キレイに泥臭く

自戒の意を込めて、「泥臭さをキレイに見せられる」ことは素敵だなあと思います。

”キレイに”とはどういうことかと言うと、たとえば、「泥臭さをそのまま見せる」というのは、見せられた側が「ウッ…」となってしまうような、なんというか自分の努力を美化したようなもの。

そうではなくて「キレイな泥臭さ」というのは、見せ方によってある種泥臭さが浄化されているんだけど、やっぱりそれは泥であるというもの。見せられる側も不快にならない、むしろ心地の良さを感じられるにおいです。

あえて世代で強引にくくりますが、ぼくたちの世代は、「自ら発信し続けなければ先をつかめない」ことを、程度の大小はあれどみな知っているはずです。

発信者側に回った時に、努力などみじんも感じさせないエレガントな側面だけを見せ続けるのも一つのやり方でしょう。

でもそうではなくて、多くの若者がそうであるように、泥臭い行為から逃げられないのであれば、やっぱりそれはキレイに見えた方がいいよなあと思うのです。

近い意味の言葉で置き換えると、「イヤミに聞こえない」ということでしょうか。みなさんの周りにも、「この人が言うとどんな話でも全然イヤミに聞こえない」という人がいると思います。

そんな人は、自慢話はもちろん、自分が努力や苦労した話も、見事にキレイに語ってくれます。これは皮肉で言っているわけでもなんでもなくて、文字通り、そんな風な発信の仕方ができる人をうらやましいと思うし、尊敬します。

そして、何より応援したいと思います。「応援されるかどうか」をキーワードにしたときに、エレガントに努力をみじんも感じさせないやり方も、そもそも発信をしないというやり方も、「キレイに泥臭く」見せるやり方には勝てないでしょう。

ぼくにとって素敵だと思うそんな人に出会ったので、なんだか書いてみたくなったのでした。

山脇、毎日。